FM 102.7MHz 2005 1



 十五歳のデボラの青春は灰色だった。ジュニアハイをホームスクーリングで卒業したデボラは、母の勧めでスクールカウンセラーのいる家から離れたハイスクールにバスで通っていた。クラスメイトは手首が傷だらけか、昼間からラリッてぼんやりしているか、そのどちらもかだ。退屈な授業は休みがちで、クラスメイトと心の内を明かすように促される課外活動は全て欠席している。母は担任とカウンセラーに何度も面談に呼び出され、仕事をやめるしかなかった。
 デボラは、こんな学校に通いたくはなかった。本当は親友が通う地元のハイスクールに、一緒に通学したかった。だがそれが叶わないことも、デボラは理解している。
 クラスに友人はいなかった。だがそれにデボラは安堵してもいた。関わる人間がいなければ、死ぬ人間もいなくなる。ディメンシアが心を許せるのは、ボーイフレンドのカレブだけだった。
 カレブは三年生だが、入学の時期が遅くもう十九歳だった。大人ぶって煙草やマリファナを吸うクラスメイトよりも、ずっと落ち着いていて大人だった。退屈な授業のかわりに、カレブはデボラに勉強を教えてくれた。カレブは落ちこぼれだらけの学校の誰より賢かった。笑われるかもしれないけど、と前置きし、大学に入りたいんだとデボラにスプリングフィールドの大学のパンフレットを見せてくれた。
 デボラは賢いんだから、ちゃんと勉強すれば大学に行けるよ、一緒に通おうとカレブは言ってくれた。デボラはそれが嬉しかったが、曖昧に笑うだけでまともに答えることはなかった。母が仕事を辞めたことで、家の経済状況があまり良くないことをデボラはうっすらと肌で感じていた。成績の悪くなかった兄も進学をあきらめ、地元の役場に勤めることが決まっている。兄は「大学なんかいつでも行ける」と言っていたが、デボラは兄に引け目を感じていた。
 カレブにはその話は出来なかった。自身がここに通うようになった理由も、まだ話せていない。学校の図書館のカーテンに隠れてキスをしながら、デボラは全て話してしまいたいと思った。だがどう話せばいいか分からなかった。ラジオから声が聞こえてきて、人の死を望むよう唆されるなどという戯言がスクールカウンセラーの耳に入れば、きっとまた母が面談に呼び出される。

「ほら、ここの問題、間違ってるよ」
 ハイスクールの近くのダイナーで、カレブはデボラのノートを指差す。参考書を差し出され、デボラはそれを覗き込んだ。カレブの説明は半分も頭に入ってこず、耳朶をするすると滑った。
「あのね、カレブ」
 デボラが顔を上げると、カレブは微笑みながらデボラの視線を受け入れる。デボラはその笑みを向けられると、全て許される気がして心がほぐれた。泡をふくマックスのことも、血だらけの祖母のことも、コンテナの中のジェシカのことも、いっときだけ忘れられる。
「話したいことがあるの」
「なに? ……まさか別れ話とか?」
「ちがうの、そうじゃなくて……」
 スティックシュガーの空き袋を指先でいじりながら、デボラは言葉に詰まる。口を開きかけると、中年の店員が内側に乾いたコーヒーのこびりついたコーヒーサーバーを手に、テーブルの上の空のカップをじろりと見て「おかわりは?」と言った。カレブが店員に手のひらを向ける。
「大丈夫、ありがとう」
「追加注文は?」
 コーヒー一杯で席を占領する学生を追い出しにかかる店員を、カレブは「もう出るところだから」と下がらせた。カレブは苦笑気味にデボラに目配せする。デボラはそれに苦笑を返して、ノートをバックパックに詰めた。
「ここから僕の家が近いんだ。もしよければ、そこで話さない?」
「いいの?」
「もちろんだよ、お茶くらい出せる」
 デボラはダイナーに停めていたカレブの車に乗り込んだ。デボラは車に乗るなりつけっぱなしのカーラジオの電源をオフにする。シートベルトを付けながら、カレブは「うるさかった?」と尋ねてくる。デボラは首を横に振った。
「違うの、ただ……カレブと話したかったから」
 言うと、カレブは笑ってデボラにキスをした。
 カレブの家は車で五分もかからない場所だった。白い壁の一軒家で、家庭的で温かい雰囲気がする。玄関にある花瓶にはきれいなピンク色の花が飾られていた。
「素敵な花」
「ママの趣味なんだよ、僕はあんまり好きじゃない。花粉でくしゃみが出るんだ」
 カレブはデボラを家の中に招き入れる。ダイニングに通されるのかと思っていたが、二階に上げられる。通されたのは二階の小部屋で、カレブの私室のようだった。カレブはデボラをベッドに座らせると、デボラの隣に座る。カレブの体重でマットレスが沈むのに、デボラは居心地の悪さを感じる。
「……お茶は?」
 デボラが言うと、カレブは目を丸くし「そうだった」と言って階下に降りていく。遠ざかる足音を聞きながら、デボラは室内を見渡した。
 壁にヨーロッパのフットボールチームのポスターが貼られていて、部屋の隅にはギターが置かれている。兄の部屋に似ていた。エレメンタリースクールに入ってから子供部屋は二つに分けられ、最近は兄の部屋に入っていない。たまに開けっ放しのドアの隙間から覗き見える部屋は、こういう雰囲気だった。そう思うと、初めて入るこの部屋での緊張もほぐれた。
 階段を駆け上がる足音とともにカレブが戻ってきて、サイドテーブルに缶ジュースを置いた。
「お茶じゃない」
 デボラが言うと、カレブは「これしかなくて」と肩を竦めた。
 カレブはデボラの隣に座ると、デボラにキスをする。デボラは話をしたいと何度も口を開くのだが、全てカレブの唇で塞がれた。デボラはカレブの胸を押し返す。
「話がしたいの」
「いいよ、分かってる。後でね」
 カレブは目をぎらぎらさせながらデボラをベッドに押し倒す。デボラは急にカレブが怖くなって身を捩った。
「やめてよ、話がしたいだけなの……」
「わかったわかった」
 何度もキスをされても、デボラは頑なにカレブから顔を背ける。デボラはベッドから下りようとするが、カレブに乱暴に引き戻された。あれほど頼りがいのあった腕が、今はデボラの意思を無視するために振るわれている。
「やだ、やめてったら! 話をしにきただけなのに!」
 めちゃくちゃに振り上げたデボラの手が、カレブの顔に当たる。デボラははっとして「ごめんなさい」と声を上げる。カレブはデボラに跨ったままデボラを睨むと、拳を振り上げデボラを殴るふりをした。デボラは両手で顔を庇う。その様子を見てカレブはへらへら笑った。カレブの手が、乱暴にデボラのスカートに突っ込まれる。首を横に振るデボラに、カレブは「なんで? 僕のこと好きなんでしょ?」と言った。
「好きだけど、でも、いやなの!」
「ふざけんなよ、じゃあ別れる?」
 カレブは苛々とデボラの下着をむしり取る。
「やだ、いや、やめて、こわい……!」
 すすり泣くデボラにカレブは平手打ちをする。それはごく軽いものであったかもしれないが、デボラは恐怖で呼吸を引き攣らせた。

 *

 カレブはデボラを車の助手席に乗せながら「ちょっと無理矢理っぽい感じで楽しかったね」と言った。デボラはそれに無表情で頷く。カレブは運転席に乗り込んだが、キーを忘れたようで舌打ちをした。デボラはびくりと肩を震わせる。カレブは「ちょっと待ってて」と家に戻っていく。
 デボラは明るく晴れた青空をぼんやりと見ながら、冷たいカーラジオに手を当てる。体中きしきしと痛む。
「ねえ、聞いてるんでしょ? そこにいるんでしょ?」
 エンジンのかかっていない車のラジオから声がするわけはない。アアー、と落胆の声がラジオから聞こえてきて、デボラはスピーカーに爪を立てる。悲しいわけでもないのに頬をぼろぼろと涙がこぼれた。
「ああ、なんてひどい人! 私はいつもアナタを見ていた。アナタを思い、アナタの望みを聞いてきた。なのに、あのときのアナタの仕打ちときたら……!」
 あのときと同じように優しい言葉をかけられると思っていたデボラは、カッとなってスピーカーを殴った。
「あんたに何がわかるの!?」
「アナタのことなら、なんでも。アナタは傷付いていて、助けを求めている。そして、一度は手酷く扱った相手に、助けを求めようとしているんでしょう? まあ私に言わせれば、この程度は青春のアヤマチ。女友達とスイーツビュッフェに行って大騒ぎして忘れては?」
 笑声混じりに言われ、デボラは腹の内側がじくじくと痛みはじめる。頭が真っ白になり、悔しく、恥ずかしく、惨めで、苦しい。デボラは泣きながらスピーカーを何度も殴った。
「うるさい! いつもいらないことばっかりするくせに! あんたのせいだ! あんたのせいで、私、こんな……!」
 ひゅう、とデボラは息を詰まらせる。カーラジオはデボラの反応を待つように静まり返った。
 車のドアが開けられ、カレブが乗り込んでくる。キーを差し込まれた車のエンジンは唸りをあげ、カーラジオのランプがつく。だが、ラジオからは何の音も聞こえてこない。カレブはデボラの泣き顔を見て面倒くさそうに鼻を鳴らした。
 自宅に送られる車内でほとんど会話はなかった。カレブはデボラを車から下ろすと、そそくさといなくなった。デボラは顔を手のひらで拭い、家に入る。玄関先で兄と兄のガールフレンドがいちゃついていて、兄はデボラを見て気まずそうな顔をした。
 デボラは兄を押しのけ、バスルームに入ろうとする。シャワーを浴びて、血だらけの下着を替えたかった。兄が後ろから追いかけてきて、デボラに声をかける。
「なあ、母さんには言うなよ」
 わかってる、とデボラが呻くと、兄はデボラの肩を掴んだ。デボラはぞっとしてその手を振り払う。兄はデボラの態度に不快そうに顔をしかめたが、デボラの顔を見てぎょっとした。
「なんだよ、なんで泣いてるんだ? 大丈夫か?」
 心配されるといっそう惨めだった。デボラは泣きださないよう兄を睨みつける。
「大丈夫だから! 離してよ! 私に触らないで!」
 兄は口をへの字にして両手を挙げると、数歩そのまま後ずさって踵を返した。玄関の方から兄とガールフレンドの話し声が聞こえて、玄関のドアが閉められる音がする。デボラは汚れて皺だらけの服のまま階段を駆け上がった。中途半端にドアのあいた兄の部屋に駆け込む。壁のヨーロッパのフットボールチームのポスター。壁際のギター。あの部屋に似ていて吐き気がする。
 背の高い本棚の中程、あの頃のデボラには届かなかった棚は、今はデボラの胸ほどの高さだった。その棚に、古びたラジオが埃を被って放り出されている。
 デボラは死に物狂いで棚に取り付き、ラジオを手に取る。
「……カレブを殺して」
 デボラの囁きをかき消すように、アハハハハハハ! と高笑いが部屋中に響いた。

 十日後、強盗事件がニュース番組を騒がせた。強盗は深夜に一軒家に侵入し、眠っていた十九歳のカレブ・C・パーカーを斧で殺害した。家族は外出中であった。被害者は眠っていたベッドが破壊されるほど執拗に滅多打ちにされ、顔も分からない状態であったらしい。
 犯人はまだ捕まっていない。