FM 102.7MHz 2005 2



 体が怠く、頭がぼんやりする。食欲がなくなり、頭痛に苛まれ、腹が張る。もともと不順であった月経がもう数ヶ月来ていない。デボラはそれに気が付かないふりをし続けたが、カウンセラーが校医に申し送りし検診を受けさせられた。妊娠四ヶ月だった。
 担任とカウンセラーがうんざりしたように母を呼び出した。この学校で生徒の妊娠はそれほどショッキングなイベントではなかった。母はカウンセラーから説明を聞き、言葉を失っていた。帰りの車内で、母は一言も口をきかなかった。車を降りるときに一言だけ「誰が相手なの?」と言われたので「もう死んだ」と答えた。
 母からの報告を受けた父は絶句し、天を仰ぎ、罵るような語調で神に何かを祈っていた。父は今にも馬鹿娘を腹の子供ごと打ちのめしてやりたいような顔をしながらデボラを抱きしめ、低い声で「部屋に戻っていなさい」と唸った。
 デボラは部屋のベッドで膝を抱えながら、ぼんやりと壁を見つめていた。幼い頃、まだこの部屋が兄妹の子供部屋だった頃に貼ったシールが残っている。それを眺めながら「なんでこんなことになっちゃったんだろう」と思った。
 階下から父と母が言い争う声が聞こえる。父が「あんな学校にやらなければよかった」と叫び、母が「じゃあ他にどうすればよかったの」と叫びかえす。デボラは冷たい壁紙に頬をつけた。
「なんてことだ、祝福されないなんて。全ての命は祝福されるべきだ。そうでしょう?」
 壁伝いにあの声が聞こえる。デボラはぞっとして壁から耳を離し、シーツに潜り込む。
「ひどい、あまりにひどい! ひどすぎる! 今、階下で何の話をしているか教えてあげましょうか? アナタを堕胎させてどこか遠くの学校にやる算段をつけているんです。アナタ、家族に捨てられるんですよ、カワイソウにね! それはそうですよねえ、アナタはメンヘラティーンで頭はカラッポ、生活能力もない。なのに家族に混乱を引き起こすばかり! 家族はみんなアナタにうんざりしてるし、アナタだって家族にうんざりしてたんでしょう? そしてやっと縋ったボーイフレンドはアナタを辱め、最悪の置き土産だけ残してとっくに死んでる! あなたが望んだ結果です! 満足ですか?」
 枕元の目覚まし時計が、アラームのかわりに苛烈な嘲笑を吐き出す。デボラはシーツの狭間で力なくぼろぼろと泣きながら、背骨を這うような嘲弄を聞いていた。
「かわいそうな子、どうしてそんなに泣くんです? 泣かないで。アナタが泣くと、私も悲しくて涙が出そうだ。どうか泣き止んで、キミのためならなんでもしましょう。いつもそうだったでしょう? キミの味方は、いつでも私だけでした。私だけが、キミを理解し支えられる」
 デボラは「あんたなんか」と呻く。高い笑い声がデボラの首筋の毛を逆立たせる。
「なんですか? 私のせいだと言いたいんですか? うるさい犬がいなくなって、アナタの生活はよくなったでしょう? あの美しいペンダントはどうしました? まさか失くしたわけではないんですよねえ? アナタがチームメイトに虐められたのも、しょうもないボーイフレンドに手籠めにされたのも、私のせいじゃありませェん! 私はアナタの尻拭いをしただけ。感謝はされど、恨まれる筋合いはないはずなんですがねえ!」
 手足がぶるぶると震える。怒りかもしれず、恐怖かもしれない。デボラは仰向けになり暗い天井を見上げる。視界がぐらぐらして、自分が立っているのか寝そべっているのかもはっきりしなくなる。全身が心臓になったように、どくどくと拍動の音が頭の中で響く。
「だって、私は、そんな……」
「ああなんて哀れな声でしょう、今のアナタはまるで傷付いた小鳥のよう。どうか私にアナタへの手助けをさせてください。私はアナタを導くことができる。アナタの心の安寧のために、家族に捨てられるくらいなら捨ててしまえばいい」
「そんなこと」
「ではどうするんです? めそめそ泣いて腹の中を掻き回され股座から血だらけの赤ん坊が引っ張り出されるのを待つ? それも悪くはありません! 私は特等席でその様子を観覧させていただきましょう!」
「なんで」
「ほうら、いつも通り願えばいいんです。私はいつだってアナタの期待に応えてきたでしょう? 私だけがアナタの理解者です。アナタの願いを聞くことこそが私の喜び。アナタは傷付いている。その傷に、私が両手を当てることを赦してください」
「やめて」
「アナタが痛みから解放される方法は一つしかありません! アナタの邪魔をする者は全て打ち倒されなければならない! 死によって生じたひずみは死によってしか正されないのです!」
 ノイズだらけの声が「家族を殺せ」と低く唸った。デボラは死んだように横たわったまま、それを聞いていた。
「アナタは願うだけでいいんですよ。私はそれを聞き入れるだけです。さあ、アナタはこれまで十分によく戦ってきた。吹けば飛びそうな小さくてちっぽけな体で。誰がアナタを責められましょうか」
「やさしくしないで」
「優しく? こいつァケッサクです! アーハハ! 失礼、笑いが止まらなくて! まさか私が慈善家だと? 神か天使だと思っていましたか? スミマセンね、私の声色が優しく誠実なばかりに! 私、悪魔ですよ? でも薄々分かっていたんでしょう? 分かっていて私を頼ったんでしょう? 神は薄情で残酷です! 悪魔みたいに真摯で親身じゃありませんから!」
 己の呼吸の音ばかりが聞こえる。
「アナタが救われるには、私の手を取るしかありません。つらいでしょう? くるしいでしょう? 終わらせましょう、全て。アナタの手で」
「どうして」
「悪魔に願い事をすることが、どういう意味か分からないほどおばかさんだとは思わなかった! アナタも、腹の中でエスシタロプラム漬けの赤ん坊も、すでに魂に地獄へのファストパスが入れ墨されています。家族を捨てるなら、私がアナタの手を取りましょう。どうせ生きてたってロクなことないんだから。そうだ、私の寝室にアナタのベッドを置いて差し上げます! もちろんベビーベッドもね!」
 頭上の目覚まし時計が床に落ち、音を立てて砕ける。デボラは体を強張らせ、自身の肩を抱く。バチン、と音を立てて部屋の照明が割れた。細かいガラス片が床に落ちる音がし、階下で母が啜り泣く声と、それを慰める父の声が聞こえた。
「家族を殺せ」
 壊れた時計から優しい囁き声がする。デボラはベッドから起き上がる。全身の震えはおさまっていた。デボラは血の気の失せた手を見下ろし、小さな声で呟く。
「家族を殺す」
 それに答える声はなかった。

 夜も更け、母の啜り泣きは両親の寝室に移っていた。リビングからは父の気配がした。デボラはベッドから立ち上がり、細くドアを開けると階段を下りる。デボラがゆっくりと歩を進めるたびに、踊り場の照明がちかちかと明滅する。廊下に飾られた絵が壁から落ち、花瓶は音を立てて割れた。
 デボラはダイニングと廊下をしきるドアの前に立つ。明滅していた照明が破砕し、あたりが暗くなる。デボラが触れずともドアは開いた。ドアの向こう、リビングの真ん中で父が血を流して倒れていた。その足元に、兄が立っている。
「……デボラ」
 兄はデボラを見て眉をひそめた。階上から母が「いったい何が起きてるの!?」と叫びながら降りてくる。真っ暗のリビングに飛び込んできた母の胸を、デボラをおしのけ、兄がナイフで突き刺す。母はただ困惑した顔をして、自身の胸を何度も手で触った。胸から真っ直ぐにナイフの柄が突き出しているのを見て顔を引き攣らせ悲鳴を上げようとしたが、胸から抜かれたナイフで喉笛を切り裂かれ、それは叶わないまま床に崩れ落ちた。デボラの足元にじわじわと温かい液体が広がっていく。母の血だった。詳しくはないが、おそらくは致死量だった。
 兄は両親の血で汚れたナイフを床に落とした。悲しそうな目をしてデボラを見つめ「駄目だ、家族を殺すなんて」と呟く。それから兄は、静かに呻く。
「もういいだろう、もうやめてくれ。俺たちを苦しめるのは。――アラスター」
 その名を呼んだ瞬間、部屋の中の濃い闇が渦を巻く。キッチンラジオから、笑いを堪える音が聞こえる。獣の唸り声のような低い笑いは、堪えきれないように高笑いに変わっていく。狂ったような笑声に窓硝子がびりびりと揺れた。
「まったく! 馬鹿な妹を持つと苦労しますねえ! 同情はしませんが!」
 あの声だった。
 デボラは何が起きているか分からないままその場に立ち尽くす。兄は暗闇に向けて掠れる声で懇願する。
「もうデボラに付き纏うのはやめてくれ、もう十分だろう、頼むよ、頼むから……」
「何を言っているんですか! これからが面白いところです! ここからが最高潮! さあボリュームを上げて! チャンネルはこのまま!」
 大勢の囃し立てる声がラジオから響く。冷え冷えとしたダイニングで、その声音だけが異様な熱気を帯びていた。
「やめてくれ……」
「やめませェん」
「お願いだ」
「お願いされたって、イヤなものはイ、ヤ」
 ラジオのスピーカーから引き攣るような笑声が響く。
「ダイニングは血だらけ、死体は二つ、ナイフには息子の指紋がべったり! シャーロック・ホームズなら退屈すぎて自身の頭を撃ち抜いているでしょうね! アナタはしょっぴかれ、その間に私はアナタの妹をじっくり料理いたします! 楽しみですね! アナタが自由になる頃には、妹はもう妹じゃないかも! アーハハ!」
 兄は震えるデボラにゆっくりと近寄り、血濡れた手でデボラを抱きしめた。低い鼓動が、触れた胸から伝わってくる。デボラは目を閉じ、その音に耳をそばだてる。心地いい音だった。兄はデボラの頭を撫で、額にキスをする。
「アラスター、おまえにデボラの魂は渡さない」
 兄の指がデボラの首に食い込み、強い力で締め上げる。デボラは苦しさと痛みに藻掻き、涙を流した。兄は眉根を寄せ、渾身の力でデボラの首を絞めながら耳元で囁く。
「デボラ、おまえの魂は穢されていない。みんなを殺したのは俺だ」
 だから、安心して、死んでくれ。
 最後の言葉がデボラの意識に刻まれることはなかった。


 *


 家族全員の死体が転がる部屋の真ん中に立つ青年は、惨状に比して異常に落ち着いた呼吸のまま立ち尽くす。床に倒れた妹の目蓋を閉じさせ、一瞬だけ呼吸を引き攣らせた。
 キッチンラジオからアーアと落胆の声が聞こえてきた。
「ああ、なんてことでしょう! 私はキミらの兄妹愛を見くびっていたようです! まさか妹の魂を悪魔から守るため、全ての願いを肩代わりするとはねえ! 犬の餌に除草剤を混ぜ、祖母を階段から突き落とし、チームメイトを殺し、ボーイフレンドも滅多打ち、ついには両親まで手にかけるとは! よくもやってくれました! これには私も全く驚きです! キミには感服しました! 恐れ入りました! おみごと!」
 芝居がかった声音が室内に響く。青年は低く「ザマミロ」と呟いた。溜息のような、掠れ声のような、弱々しい声だった。
「これは私も一杯食わされました! 退散するほかありますまい――なーんてね!」
 室内の闇が凝り、青年の足元に這い寄る。夜を切り取ったような黒い鉤爪が青年の胸を貫く。不定形の闇がぐねぐねと青年の手足に絡みつき、地の底に引きずり込んでいく。
「俺の獲物は最初からオマエだ、ギデオン」
 四体の死体が折り重なる部屋で、キッチンラジオから深夜放送のラジオキャスターの声だけがした。