友は近くに、敵はもっと近くに



 ディメンシアはアラスターの部屋に入ってくると、サイドテーブルにカップを置き「コーヒー、置いておきますね」と言った。アラスターは部屋を出て行こうとするディメンシアを呼び止める。ディメンシアは露骨に叱責の心当たりがあるような気まずそうな顔になった。
 ディメンシアが何を責められると勘違いしたかは知らないが、アラスターは面白いのでディメンシアを泳がせる。ディメンシアは真顔になり「……友人のことですか?」と言った。アラスターは肩を揺らして笑う。ディメンシアがSNSを利用し友人を作ったことも、その友人の家族が複雑に絡み合った肉体関係の接点で結ばれていることも、大した問題ではない。
 アラスターの笑みを何と勘違いしたのか、ディメンシアは「……忙しいときにアラスターのコーヒーをエッギーズに淹れるよう頼んだこと?」と眉尻を下げた。アラスターはそれも一笑する。
「これまでに四回! バレていないと思いましたか? だがそれでもない」
 ディメンシアはとうとう困り果てたように「なんでしょうか」と言った。アラスターはディメンシアに歩み寄る。その途中、サイドテーブルに置かれたカップを覗きこんだ。アラスターはカップの水面を見つめたあと、ディメンシアに視線を向ける。
「ディメンシア、私が奪った記憶を取り戻したいと思いますか?」
 アラスターの言葉に、ディメンシアは狼狽しアラスターの顔を見返した。
「どうして急に」
 アラスターは笑みを崩さず、ディメンシアの顔に顔を寄せる。
「一応確認です。アナタの意向を知っておこうかと」
 ディメンシアはアラスターの言葉を聞き、目を伏せ視線を泳がせる。何度か迷うように口を開けたり閉めたりしたあと、黙って首を横に振った。アラスターは大袈裟に片眉を上げて見せる。
「いらない? なぜ?」
 アラスターの問いに、ディメンシアは責められたように肩を震わせた。
「それは……」
「私に隠れて、記憶を取り戻す方法を探していることは知っています。ま、ちっとも捗っていないようですが」
 ディメンシアは言い訳をしたそうに口を開きかけた。アラスターはディメンシアの口の前に指を一本立てる。ディメンシアは口を半開きにしたまま固まる。
 アラスターは尖った歯を剥き出しにし、凶暴に笑う。
「ディメンシア、私は可愛いディメンシアのことを思って忠告したのに。アナタには必要のない記憶だ――私の忠告を無視するのか?」
「アラスター、それは――」
 小さく呟くディメンシアに、アラスターは低く囁く。
「ならば、返してやろう」
 アラスターはディメンシアの耳元で指を鳴らす。軽やかな音とともにディメンシアは目を見開き、二、三歩よろめいた。ディメンシアはあたりを見渡し、自身の手を見下ろす。異形と化した両の手を見たディメンシアは絶望の喘鳴を漏らす。喘鳴は慟哭に変わり、悲鳴は獣の唸りに変わる。
 ディメンシアの体はみしみしと軋みながら天井に頭の先を擦るような巨躯へと変じ、毛並みは怒りに逆立ち、鋭い鉤爪はアラスターの部屋の壁をバターのように容易く削り取る。両の眼はただ憎悪しか宿さず、アラスターだけを機械のように追った。
 アラスターはそれを鼻で笑う。
「その姿を見ると、さしもの私も良心が痛みます、ギデオン」
「アラスタァ……殺す、殺してやる……」
 ディメンシアは壊れたレコードのように単調に同じ言葉を繰り返した。
 アラスターの操る影が手脚に絡みつくのを次々引き千切り、ディメンシアは牙を鳴らしながらアラスターに迫る。アラスターは自身の魔術がゴールテープのように千切られるのを見てケタケタ笑った。
 ディメンシアは意味をなさない唸り声を上げ、アラスターの喉笛を食い千切ろうとする。ディメンシアの鋭い牙が首筋にかかった瞬間、アラスターは再び指を鳴らした。その音を聞いたディメンシアはつんのめり、床に倒れる。倒れたときにはすでにいつものディメンシアの姿に戻っていて、何が起きたのか分からないような顔で天井を見上げていた。ディメンシアは再び記憶を奪われながら、自身の身を巡る激しい怒りと憎悪の残滓だけを感じ、恐怖に身をすくませる。
 床に仰向けに転がり、目を見開いたまま短く浅い呼吸を繰り返すディメンシアの顔の横に立ったアラスターが上体を折り曲げディメンシアの顔を覗き込む。
「だから言ったでしょ? 必要のない記憶です」
 ディメンシアはぼんやりとアラスターの顔を目で追い、虚ろに頷く。根源を失った苛烈な憎悪は、限りなく希釈され淡い執着になる。アラスターには利用価値のある代物だった。
 物音を聞きつけたチャーリーとヴァギーがアラスターの部屋に飛び込んできて、壁が大きく抉れているのを見て悲鳴を上げた。
「ちょっとこれどういうこと!?」
 ヴァギーがアラスターに詰め寄るとアラスターは「ディメンシアの寝相が悪いだけです。お気に入りのくまちゃんのぬいぐるみがないとすぐこれでしてね、お気になさらず」と心配そうな顔の二人を部屋から追い出した。
 アラスターはディメンシアに指先で立つように合図する。のろのろと立ち上がったディメンシアに、アラスターはサイドテーブルの上のカップを顎で示す。
「悪いが、淹れ直してもらえるかな。コーヒーはブラックでこそだ」
 ディメンシアは怪訝な顔をしてカップを手にする。砂糖とミルクを足されたコーヒーに、ディメンシアは首を傾げる。己がアラスターのコーヒーに砂糖とミルクを入れるはずがない。だが確かにこのコーヒーを淹れた記憶はある。ディメンシアは何があったか考えを巡らせようとしたのだが、背筋が寒くなるような感覚に触れそうになり意図的にそれ以上考えるのをやめた。