車の主が言い渡した示談の条件とは



 街を歩いていたところを背後からライトバンにしたたかにはねられた。パグの鼻先のような寸詰まりのボンネットに跳ね上げられたディメンシアは車道に叩きつけられ三回ほどバウンドする。頭からドバドバ出血するディメンシアは数人の屈強な男達にライトバンの後部座席に押し込まれ、ビルの一室に連れ込まれた。
 ディメンシアは椅子に座らされ、所在なく周囲を見渡す。連れ込まれたのはガラス張りの会議室で、室内には無数のモニターが設置されていた。ガラスの向こうを忙しそうに従業員が行き交っている。皆、猛然と前だけを見て歩いているが、時折血だらけのディメンシアを見て怪訝な顔をする者もいた。ディメンシアはここがどこか尋ねようと傍らに立つ屈強な男に声をかけたのであるが、「あのぅ」と言った瞬間に「黙ってろ」と殴られた。
 そのとき、周囲に設置されていたモニターがばちばちと明滅し、画面に一対の目が表示される。その目はじろりとディメンシアを一瞥し、ふっと消えた。画面から光が迸り、ディメンシアの傍らにヴォックスが現れる。
 ヴォックスはドバドバ血を流すディメンシアを見て大袈裟に目を剥いた。
「いったいどうした、血だらけじゃないか」
 屈強な男たちのなかのリーダー格であるらしい鮫頭の男が「連れてくるときに、ちょっと――」と言い終える前に、ヴォックスは鮫頭の下顎に拳銃の銃口を押し付け引き金を引いた。頭頂から銃弾の抜けた男は膝から崩れ落ち、膝の上に穴のあいた頭が落ちてきたディメンシアは「オ゛」と短く不格好な悲鳴を上げた。男はディメンシアの膝の上でワンバウンドし床に落ちる。
「俺は丁重にお招きしろと言ったはずだ」
 ヴォックスはテーブルの上に拳銃を放る。ゴトン、と重い音がした。すっかり萎縮した男たちは、ヴォックスに顎をしゃくられると、死体を抱えてすごすごと会議室の外に出て行く。ディメンシアは自分も連れて行ってくれないかと男たちの背中を恨みがましく眺めた。
 祈りも虚しく会議室に取り残されたディメンシアは、傍らのヴォックスをちらりと見上げた。ディメンシアの視線を受けたヴォックスは完璧な角度に口角を上げて笑って見せた。テレビ向きの笑顔だ。ヴォックスはテーブルに軽く寄りかかり、椅子に座らされたディメンシアの顔を覗き込む。
「よう、俺を覚えてるかい、ベイビー」
 滑らかな低い声で囁かれ、ディメンシアは肩をすくめる。
「ええと、街頭インタビューの」
「そうだ。記憶力には自信のあるほうか? そりゃ結構だ。俺はアホは嫌いでね!」
 ヴォックスはディメンシアに全てを喋らせる前に言うと、ディメンシアの肩に腕を回した。
「あのときは世話になったな、おかげでいい番組になった。部下が四人死んだが、まあ大した問題じゃない」
「ご協力できたようでよかったです」
 ヴォックスはディメンシアの言葉にゲラゲラ笑った。ひとしきり笑ったあと、ふうと一息つきディメンシアの肩を強く掴む。
「ラジオデーモンの手下だったとはな」
 ディメンシアは曖昧な笑みを浮かべる。
「あー……手下というか……アラスターは私を友人と呼んでくれます」
 ヴォックスは弾けるように怒りの滲んだ声を上げる。
「アイツに! 友達はいない! あの埃を被った骨董品! 忘れ去られた過去の遺物!」
 ディメンシアは立ち耳を垂れる。ディメンシアはアラスターをキッズスマホすら持ってくれない偏屈で、テレビもインターネットも異様に目の敵にするオールドファッションだと思っているが、それを腐すヴォックスに同調する気にはならなかった。なので「そうだろ?」と言われても「はァ」と呻くことしかできず、どうやらヴォックスはその反応をお気に召さなかったらしい。
 ディメンシア、とヴォックスはテーブルに腰掛けディメンシアを見下ろしながら猫撫で声を出した。
「おまえは若いが見込みがある。これから学ぶことも多いだろうが、まずは誰をボスとするか目を養うといい」
 そう諭され、ディメンシアは眉をひそめる。ヴォックスは手でディメンシアの顔を拭った。ヴォックスの手が血と砂埃で汚れる。
「つまり、おまえに最も利益をもたらすのは誰かってことだ。奉仕するに値する男は、オンボロホテルを漂う時代遅れのラジオの亡霊か、最新テックと強い仲間を持つ一流企業経営者か。どっちだ、ン?」
 ディメンシアは首を傾げる。
「すみません、ミスター……ええと、」
「ヴォックス」
「ヴォックス、話が見えなくて……」
「おいおい、急に察しが悪くなったな」
 ヴォックスはディメンシアの隣まで椅子を引き、座る。投げ出されたヴォックスの脚が自身の膝に当たり、ディメンシアは居心地悪く膝を引っ込めた。
「何が欲しい、ディメンシア。地獄はいいぞ、望めば全てが手に入る」
 道徳も倫理も規範もないからな、とヴォックスは尖った歯をぎらつかせる。
「金? それとも薬? 名声か? 欲しいのは男か? 女か? それともガキか? どんな変態プレイが好みだ? 首無し死体にしか興奮しないか? クソッタレのアラスターとファックさせてやってもいい。俺が喜んで全国放送してやる。おまえは一体何が原因で地獄に堕ちた? 何に飢えてる? ――ああ、そうだった、記憶がないんだったな」
 揶揄うような口調で付け足された言葉に、ディメンシアは目を丸くしてヴォックスの顔を見つめる。ヴォックスは「俺の前でプライバシーなんて言葉は無意味だ」と目を細めた。
 ディメンシアは自身の手の甲に冷や汗のかわりに血が落ちるのを見下ろす。そのことを考えると、心臓が低く嫌な鼓動を打ち、指先が冷たく痺れ、震える。感じたことのない感覚が喉元にせりあがり、行き場を失い腹の底で逆巻く。嫌な気分だった。あまり考えたくない。
「私はそれにあまり困ってないので……」
 ヴォックスは鼻を鳴らすと椅子ごとディメンシアに近寄る。ディメンシアの膝の間に自身の膝をねじ込み、ディメンシアの顔を覗き込んだ。鼠を捕らえた猫が舌なめずりするような表情で、ヴォックスはディメンシアを見る。
「地獄は全てが手に入る。だが、力がなければお話にならない。ここでは力が全てだ。力が欲しいか? 欲しいよな! 俺が与えてやる。アラスターがおまえに何を与えた? 壊れた真空管か?」
 ディメンシアは喉の奥で呻く。そんなものをもらったことはない。ヴォックスはディメンシアの膝に手を置き、親指で膝頭をなぞる。
「話が見えてきたか?」
「……ええ、はい、薄々」
「スマートじゃないか」
「つまり……ヴォックスは私に何かを渡したい?」
「アホか! 全然違う! ……いや全然違うということもないが、今の流れでそういう理解にはならないだろ。おまえ言葉の裏を読めないタイプか?」
 すみません、とディメンシアは眉尻を下げる。ヴォックスはぐいと詰め寄り、ディメンシアの鼻先に噛み付きそうな顔をした。
「アラスターと手を切り俺の下につけ」
 直截な要求だった。ディメンシアは返答に迷う。はいとも言えないが、いいえと答えたらただでは済まない空気だ。そうすると答えは一つしか思いつかない。
「持ち帰って検討します……」
「まさかオトモダチは裏切れないなんてナイーブなこと言うんじゃないだろうな」
「裏切れないです……天井から吊るされるんで……」
 ディメンシアはクラシックなシャンデリアのモダンな飾りにされたときのことを思い出し、顔をしかめた。たしかあれも、ヴォックス絡みであった。
 ヴォックスはその言葉を聞いて、舌先を軽く鳴らして宥めるようにディメンシアの背に手を回す。
「ディメンシア、俺が付いてる。アラスターの弱みの一つでも手土産に持ってくれば、俺がおまえをアラスターから守ってやるさ」
 ヴォックスが手首をひらめかせると、鋭い爪の先のモニターの画面がぱっと光った。液晶に血だらけのディメンシアの顔が映され、ディメンシアはカメラを探してきょろきょろした。画面の中のディメンシアもきょろきょろする。ディメンシアの映像の下にMissingのテロップが踊った。
「おまえが何者だったかも調べてやってもいい。行方不明者捜索特番を組んで、半裸のインフルエンサーにSNSで情報提供を呼びかけさせる。おまえを知っている悪魔から山ほど目撃情報が届くぞ。ひょっとしたら家族から連絡が来るかもな」
 まあ本物の家族とは限らないが、とヴォックスは小声の早口で続ける。ディメンシアはそれに、実を言えば少しだけ興味を抱いた。ヴォックスは椅子から立ち上がり、ディメンシアを見下ろす。
「YESと言いさえすれば、おまえは晴れてVの仲間入りだ」
 ディメンシアがうーとあーの中間あたりの音を出すのと、ディメンシアの足下の影がぞぶぞぶと蠢いたのが同時だった。漣立つ影からぬっと赤い手が現れ、ディメンシアの足首を掴むと影の中に引きずり込む。小石を投げ込んだ池のように影がとぷんと揺れ、ディメンシアの姿は影の中に消えた。ヴォックスの咄嗟に伸ばした手が空を掻く。残されたアラスターの気配に、何が起きたか察したヴォックスは目をちかちかさせ悪態をついた。


 ディメンシアはアラスターの影から逆さに引きずり出され、逆さまのロビーをぐるりと眺めた。ソファセットに座るホテルの面々が目を丸くしてディメンシアを見つめる。アラスターはディメンシアが血だらけであることを気にもとめず「ディメンシア、コーヒーを」と言った。アラスターはロビーのソファセットに座る面々を指先で順に指す。
「ひい、ふう……四人分」
 ディメンシアは乱雑に転がされた状態からもそもそと立ち上がった。ディメンシアが血だらけであることに気がついたチャーリーが悲鳴をあげる。
「ディメンシア! どうしたの、血が出てる!」
「平気です、チャーリー。アラスターにASMRを提案したときより軽傷です」
「なに……なんですって?」
「ASMR」
 アラスターがディメンシアの口元にステッキを突き付けた。
「コーヒーブレイクにふさわしい話題とは言えませんねェ。まあそれがふさわしい場などありえませんが」
 ディメンシアはアラスターに追い立てられ、キチネットに駆け込む。湯を沸かしながら手と顔を洗い、結局ヴォックスはなんだったんだと首を傾げた。