笑う犬の挑戦



 このホテルにも私の収録ブースが必要だと思わないかい、とアラスターに言われたディメンシアは「それって私が作れって意味ですか? それとも業者を探せってことでしょうか?」と顔を真っ青にした。
「どうとでも」
 アラスターの答えにディメンシアは一瞬ほっとしたような顔をしたが「収録スタジオってどこが作ってくれるんだろう」と呻きながらホテルのロビーを出て行く。
 グラスを磨きながらその様子を眺めていたハスクは、グラス越しに歪んだアラスターの笑顔を眺める。
「アイツにやらせなくても、あんたなら自分でどうにか出来るだろ」
 呆れまじりにハスクが言うと、アラスターは事も無げに「でも、カーワイイでしょう?」と笑った。眉をひそめるハスクに、アラスターはカウンターに肘をつき、ディメンシアが飛び出していったドアを横目に口角を上げる。
「私が簡単に出来ることを、必死になってやっているところなんか、ほんっとうに健気だ。抱きしめてやりたくなっちゃいますねェ!」
「そうかい抱きしめてやれよ」
「ハハ! 時にはね」
 ハスクは鼻を鳴らしてロックグラスにドボドボと酒を注ぐとそのまま自身で飲み干した。グラスを受け取ろうと伸ばされたアラスターの手が、宙で行き場をなくす。アラスターは片眉を上げ、何度か手を握ったり開いたりした。
「ガキの失敗をTik Tokにアップして喜ぶバカ親みたいだな」
 ハスクの言葉にアラスターは黙って口の端を上げて見せたが、ギャリギャリとノイズが響く。気に触ったらしい。いいザマだ。ハスクは続けざまに酒を呷りながら、ディメンシアの青い顔を思い出していた。アラスターとの付き合いは比較的長いが、見たことのない顔だ。
「見ない顔だな、どこのどいつだ」
「ディメンシア? ああ、拾いました。木の股だったかな? 橋の袂だったかも? いや川から流れてきたんだったか?」
「犬じゃあるまいし」
「犬! 犬ですか! 私は犬は拾いませんよ! 犬はキライです。犬を拾うくらいならディメンシアを拾う。ディメンシアは散歩も排泄も自力で出来ますからね。犬より上等デショ? ハハハ!」
「混ぜっ返すなよ、アイツはいったい何をしでかしてあんたにとっ捕まったんだ?」
 気の毒にな、とハスクはせせら笑う。アラスターは肘をカウンターについたまま手首をひらひらさせた。
「捕まった? 失礼な! ディメンシアは望んで私のもとにいるのですよ。完全なる自由意思です。縛るものなんかありはしない。これでも私はディメンシアを可愛がっているし、面倒をよくみているんですから。手塩にかけているとはまさにこのこと。ああそうそう、名前も私が付けてあげました。ディメンシア、いい名前でしょう?」
 アラスターにはまともに答える気がないらしい。ハスクはそれ以上問い質しても無意味と断じ、黙って酒だけ飲むことにする。
 アラスターとハスクが会話をやめたロビーに飛び込んできたディメンシアがバインダー片手にアラスターに駆け寄った。
「アラスター、とりあえず業者に見積もりの依頼をしました。ただ着工までには時間がかかるようで――」
 アラスターはディメンシアの言葉を遮り、ハイスツールから立ち上がる。ディメンシアはアラスターに促されるままその背を追いホテルのロビーから前庭に出る。石畳の前庭の真ん中に立つアラスターが、ホテルの上階を指差す。
「あのあたりにあれば最高だと思いません?」
 ディメンシアはアラスターの指し示す先を見て「あ、ああー、なるほど」と目を細める。上階に外付けしろということだろうか。
「要望は業者に伝えてお――」
 ディメンシアの言葉を最後まで聞かないまま、アラスターはステッキを軽く振った。まばたきの間に、モダンな角ばったホテルの上階に、鳥の巣のようにラジオブースが絡みついていた。眉尻と口角を下げるディメンシアにアラスターは「私は収録ブースが必要だとしか言ってませんけど」と嘯く。アハハハ、と高い笑い声がアラスターの声に重なった。
 確かにアラスターは「収録ブースが必要だと思いませんか?」と言っただけだ。それをどうにかしろという意味だとディメンシアが捉えておろおろしていただけである。
「……業者にはキャンセルの連絡をします」
 ディメンシアはそれだけ言って肩を落とす。
 アラスターは開け放たれたエントランスからハスクが「あーあー」という顔をしてこっちを見ているのに気が付き、ディメンシアに手招きする。アラスターはディメンシアの肩口を手の甲で二度、軽く叩く。
「ナイストライ、楽しめました」
 アラスターの言葉に、ディメンシアが立ち耳を垂らして満更でもない顔をしているのを見て、ハスクは馬鹿馬鹿しいとばかりに肩をすくめる。アラスターがハスクの方を見ていっそう嫌な感じでニタニタと笑った。