FM 102.7MHz 1995



 郊外の一軒家、庭は広いが自家用車がなければどこにも行けないような、ごく退屈で幸福な家庭に恵まれたデボラは、五歳で家族の問題に直面した。三歳年上の兄が、近所の老夫婦が飼いきれなくなった犬をもらってきた。縺れた黒い毛の小型犬だ。潤んだ黒い目の犬は、幼いデボラを見つけるとしつこく吠えかかってきた。それがデボラにはひどく恐ろしかったのだ。
 ピンク色の歯茎をむき出して、高い声で吠える犬に、デボラはおびえた。犬の名前はマックスといい、いかにも老夫婦がつけたような古くさい名前が、いっそう可愛げがなくて嫌だった。
 マックスは兄にはよく懐いていたが、デボラのことは馬鹿にしているようだった。餌を食べているところに近づいただけで唸り声をあげる。
 デボラは何度も両親にマックスをどこかにやってほしいと訴えたのだが、両親は笑って「もっと仲良くしなさい」と言うだけだった。兄はマックスを抱きしめながら「マックスはデボラと遊びたいんだよ」と言った。誰も味方がいない気分だった。
 デボラはマックスがいる部屋を避けるようになり、マックスの足音がするときは子供部屋から廊下に出ないようにした。
 晴れた土曜日のことだ。兄が庭でマックスとボール遊びをしているのを、デボラは子供部屋の窓から見下ろしていた。父が趣味で芝を敷き詰めた庭で、マックスが楽しそうに跳ね回っている。自分には可愛くない唸り声をあげるのに、とデボラはそれを羨ましいやら小憎たらしいやらでじっと眺めていた。
 部屋の中からざらざらとホワイトノイズが聞こえてくる。デボラは窓枠に掴まっていた手をはなし、室内を見渡した。子供部屋にはデボラと兄のベッドが並んでいる。床にはデボラの出したおもちゃが二つ三つ転がっていた。兄の背の高い本棚の中程に、古いラジオが置いてある。大好きだった祖父の形見分けで、兄はラジオとチェスボードを、デボラは馬の形のペーパーウェイトをもらっていた。
 ノイズを止めようと手を伸ばしたが、デボラの小作りな指先はラジオの置いてある棚に届かなかった。遠くに笑声の聞こえるノイズは、特段耳障りというほどではなかったが、静かな土曜日の午前中のひとりぼっちの室内では妙に響く。デボラはぴょんぴょんとその場で跳ね、なんとかラジオのスイッチを切ろうとした。
「犬がキライかい?」
 ラジオの音声が、奇妙に鮮明になった。デボラはジャンプをやめ、ラジオを見上げる。再びノイズを発するだけになったラジオが、何の変哲もなく鎮座していた。デボラは首を傾げる。
「犬はキライ?」
 また、同じ声がした。デボラは目を丸くする。ラジオから聞こえる声は、自分に話しかけているような気がした。デボラはおずおずと頷く。すると、ラジオから明るい笑い声が聞こえてきた。
「奇遇ですね! 私も犬はキライです! 犬ときたら、口は臭いし、声はうるさいし、毛は撒き散らすし、おまけに尻の穴は丸出し!」
 それを聞いてデボラはくすくす笑った。笑顔が見られて嬉しいですよ、お嬢さん、とラジオの声が言う。
「犬のいる家庭なんて最悪です。おやつに取っておいたデニッシュは盗み食いされるし、スリッパは噛み跡だらけ、カーペットにはオシッコもされてる。もっと最悪なのは、家族全員が犬に夢中なこと!」
 デボラはラジオを止めようとするのをやめ、笑いながら本棚に寄りかかった。
「マックスはカーペットにウンコもするんだよ」
「なんてひどい犬だ!」
「それに、いつも怖い顔で私を追いかけ回すの。吠えるし、唸るし、餌を食べてるときに後ろを通ると、私に向かってこうするの、ウーッ、ワンワンッ!」
「かわいそうに!」
 声音の向こうから、アーァと誰かが落胆する声が聞こえる。兄と一緒に観ているシットコムの登場人物になったようで面白かった。
「でも、パパもママもマックスを可愛がりなさいって」
「キミはマックスを可愛がりたい?」
 デボラは少し考え、首を横に振った。
「ううん、全然。だって可愛くないもの」
「なのに、キミのお兄ちゃんもすっかり犬に夢中で、キミとは遊んでくれない」
 兄のことを言われ、デボラは肩を落とす。ラジオの声の言うとおりだった。兄が遊んでくれなくなって、デボラは寂しい思いをしている。
「私にいーい考えがあります! 犬がいなくなればきっとお兄ちゃんはまたキミと遊んでくれる! そうでしょう?」
 デボラはお愛想でちょっと笑った。
「そうかも。でも、マックスはよそにはやらないって」
「でも、キミは犬がどこかにいってほしいと思ってる?」
 デボラは本棚に寄りかかったまま、小さく頷く。ラジオの声が、久しぶりに会う親戚のおじさんのような猫撫で声になった。
「声に出して願えば、叶うかもしれませんよ」
「そんなの嘘、ばかみたい」
「言葉の力をバカにしちゃあいけません、さあ、ほら」
「子供扱いしないで」
「願うだけなら、損なんてないでしょう?」
 説き伏せられ、デボラは体の後ろで指を絡ませながら、小さな声で呟く。
「マックスなんか、どこかにいっちゃえばいいのに」
 言い終わるのと同時に、ラジオの声がゲラゲラと笑った。笑い声の途中でラジオの電源がブツンと途切れ、部屋が静かになる。
 デボラは不思議な気持ちでラジオを見上げ、首を傾げた。変な番組だった。


 翌朝、マックスは玄関先で泡を吹いて冷たくなっていた。父と母が「誰かが餌に除草剤を混ぜたようだ」というような話をしていた。大泣きする兄が、庭に穴を掘ってマックスの亡骸を埋めた。艶を失った黒い毛が土に隠れるのを見届けた兄は、子供部屋のベッドの中で体を丸めてずっと泣いていた。
 デボラはそれを隣のベッドで膝を抱えて、じっと見つめているしかなかった。