イクシオサピエンスは電気海月の夢を見るか(1)



 地球上で最も剣呑な緊張地帯、異界を臨む境界点、混沌の街、霧けぶる魔都ーー
 物騒な呼称は数えあげればきりがない。事実、雑多とした街は異形、奇形が跋扈し、命も安寧も砂粒ほどの価値もない。それが、かつて紐育と呼ばれた都市、ヘルサレムズ・ロットである。
 まっとうな人類≠ネらば寄り付かぬ魔境ではあるが、ツェッド・オブライエンにとっては、なかなかどうして居心地よかった。
 異界の民ではない。しかし人類でもない。どっちつかずなツェッドにとっては、ヘルサレムズ・ロットは、善良なる人類の目を忍ぶ必要がないだけ上等であった。
 ここでは、大きな魚眼も、蒼いぬめる皮膚も、水かきも、鰓呼吸すら、若い娘の染髪ほどの意味しかない。

 ひびの入った窓硝子からは、仄白い弱々しい光が注いでいた。硝子にうっすらと積もった埃のせいかもしれないし、常にけぶる濃霧のせいかもしれない。店内は薄暗く、其処此処の暗がりで異形が蠢き、何を口にしているのか知りたくないような音をたてて、各々の時間を楽しんでいた。
 喧騒と狂気と暴力の渦巻くこの街では、おおよそどの飲食店も騒がしいものであったが、この喫茶店はほどよく静かで、店全体を覆う埃っぽい雰囲気が不思議と心地いい。
 低く流れるレコードの音をぼんやりと聞きながら、ツェッドはホットサンドを齧り、コーヒーを啜る。幸運にも人類向けに作られたメニューらしく、ホットサンドの中から痙攣する触手が飛び出してきた以外は、取り立てて奇怪なことは無かった。
 ふ、と、窓際の女にツェッドの目がとまる。女性、だ。おそらく、人類の。
 珍しいな、と思った。遠目の利く方ではないし、公共の場でじろじろと女性を眺め回すのも失礼であるから、子細に観察したわけではない。
 この喫茶店の立地は、そう治安が悪いわけでもないが、人類の、それも女が一人で歩くような場所ではない。歩いていたとしても、ワケアリがほとんどだ。
 そうであるから、喫茶店の曇った窓辺で本を読む姿は、普通なだけに奇妙であった。

 ーー見たところ、人類だし、武器を持っているわけでも、生体兵器手術を受けているわけでもなさそうだし……

 なんでもありな街だからこそ、なんでもない彼女は妙に目立った。彼女はカップをソーサーに置き、本のページを繰ると何気ない風に顔を上げた。一瞬目があい、ツェッドは気まずさに慌てて目をそらす。
 すでに空になったカップをあおっても、冷たい残滓がつうと口内に落ちるだけだ。さてそろそろ時間だという体を装い、財布の入った尻ポケットに手を伸ばす。
 指先は、何の抵抗もなくポケットの底に触れた。耳の裏のあたりで、血の気のひく音を聞いた。
 ツェッドは音をたてて立ち上がり、掌で胸から尻まで叩いて財布を探す。が、見つからない。皮膚構造が魚類に近い身であるから冷や汗こそかかないが、ただでさえ青い顔が血の気を失って真っ青になった。

 ーーさ、財布を落とした……!!

 あるいは、スられたのかもしれない。あわあわと挙動不振なツェッドに、店員が声をかけた。

「お客さん、どうしました」

 巨大なナメクジのような店員は、喋るたびに口元に垂れ下がる触手を震わせる。
 ツェッドは努めて冷静に話を切り出した。

「ええと、申し訳ないのですが、財布を忘れたようで……」

 5対の複眼が、いっせいにツェッドを睨みつける。

「……と、いうことは、無銭飲食で?」
「いえ、一度帰ってお代は必ずーー」
「ムセンインショクだ、クイニゲだ。ーーギッ、ギギッ、ゆるさんぞ、クイニゲ、ユルサンぞ!!!」

 先ほどまでの落ち着いた接客ぶりはどこへやら、5対の目をグルグルと互い違いの方向へ向け、息を荒げて今にもこちらに飛びかかりそうになる店員に、ツェッドは一歩後ずさった。
 もちろん喫茶店の店員ごときに遅れはとらないが、財布を持っていないという落ち度がこちらにある以上、安直に暴力で解決するのも気がひける。

「クイニゲ、コロス、カラダで、ハラエ!!」

 ひときわ大きく怒鳴り、口元の触手がぶわっと広がった。やむなし、とツェッドも構えたが、殺気立つナメクジ店員の肩ーー肩?ーーを、白い手がとんとんと叩いた。

「失礼、店員さん、彼のお代、私のテーブルにつけることって出来ます?」
「…………あ、」

 件の、窓辺の彼女であった。
 怒りで膨れ上がっていた店員の体は、しゅるしゅると縮んでいく。

「構いませんよ、お騒がせいたしました、大変失礼いたしました」
「それと、ブレンドコーヒーを一つ」
「かしこまりました。少々お待ちください」

 何事もなかったかのように厨房へ引っ込んでいく店員のぶよぶよとした後ろ姿を唖然と見送り、ツェッドは女性の方へ向き直った。
 先と変わらぬ窓辺の席についた女の横に立ち、深々と頭を下げる。

「ありがとうございます。すみません。お金は必ずお返ししますので」

 女は少し困ったように眉尻を下げて笑うと、首を横に振った。

「いえ、別に気にしないでください」
「そういうわけにもーー」
「私は、」

 ツェッドの言葉を遮るように女は言葉を続ける。

「ここのフィッシュアンドチップスが好きなんですよね、だから」
「……ああ」
「万が一があるじゃないですか」
「それは、イヤですね」
「イヤでしょ?」

 カラッと揚げられてチップスと皿に盛り付けられる自分を想像して、ツェッドは顔をしかめる。

「君は、ここに来て短いの?」
「なんです?」
「ここ。ヘルサレムズ・ロットは初めて?」

 彼女の言わんとしていることを察し、ツェッドは首を横に振った。

「いえ、そういうわけでは」
「ふぅん、じゃあなんでまたこんな初歩的なミスを」
「…………うっかり?」
「それはーー」

 女は、カップに伸ばしかけていた手を止めて目を丸くした。

「一世一代のうっかりだね」

 なんと答えたものか考えあぐね、ツェッドはううとああの中間あたりの返事をした。

「実は、今日、店に入ったときから君のことが気になってて」

 どきりと心臓が跳ねた。そういう言い方は、妙な期待をしてしまう。ツェッドの焦りも素知らぬようで、女はツェッドが抱えていた本を指差す。

「ルーベンス、好きなの? 渋いね」

 美の巨匠ルーベンスと箔押しされた分厚い本に、ほんの少しの落胆と己の早とちりへの羞恥とともに、ツェッドは目を向けた。

「ええ、あなたも?」

 古本屋でたまたま見かけた表紙の絵が綺麗で、値段も驚くほどに安価であったから、思わず買ってしまったのだ。
 女は嬉しそうに笑った。

「まあ、ね。ここじゃ人類で、なおかつ芸術を嗜むようなやつはいないから。たまに、異界の好事家もいるけど、もっぱら現代絵画が好きみたいで。印象派とかキュビズムとかね」
「確かに。印象派を好む異界人は多いですね。僕は断然、画家が職人だった時代の絵の方が好きなのですが」

 興味深そうな視線が、ツェッドを見上げた。
 そこに、トレーを掲げた店員が湯気のたつコーヒーカップを運んできた。

「お待たせいたしました、ブレンドコーヒーでございます」

 彼女は会釈し、店員に己の向かいの席を示した。

「はい、そこにお願いします」

 空の席にカップが置かれる。ツェッドは誰も座る気配のない席と、卓上のコーヒーと、押し隠しきれぬ笑みを唇にたたえる彼女を順に見た。

「君とは話が合うと思ってた」

 そう言われたので、ツェッドはおずおずとその席に座ったのだ。

******



「ポスターには、確かにルネサンス画家の絵画を展示って書いてたの! ルネサンス展って!」
「なるほど」
「ルネサンス展って言われたら、レオナルド・ダ・ヴィンチとか、ボッティチェリとか、ヴェロッキオとか」
「ミケランジェロとか、ラファエロとか、ティツィアーノとか、ですね」
「そう!そんなのがたくさん展示されてると思った! なのに、観に行ったら、レプリカのモナリザ一枚きりで、あとは館長のコレクション? 自作の絵画? まあ、詳しくは忘れたけど、そんなのばっかり並んでた」
「それは僕なら怒ります」
「私も怒った。あの美術館には二度と行かないと心に決めたよ」

 大きく身振り手振りを添えながら、自分がいかに落胆したかを話す女は、最初の印象よりずっと快活に見えた。おとなしそうな女性に見えたが、意外と話好きであるらしい。
 二人の間に画集を挟み、やれこの絵は良いだの、これと同じ題材の何某という画家の絵がすごいだの、そういうことを一通り話し終えると、徐々に女の話には私事が混ざり出した。
 しばらく話してわかったのは、ヘルサレムズ・ロットには長く一人で住んでいること。休日は本を読んだり映画を観たりすることが多いこと。絵画鑑賞をたのしむために、史学や哲学、宗教に明るいこと。ーーつまり、おおむね趣味が合うということだ。

 ところでさ、と、ものの1時間あまりでだいぶ砕けた口調で、女は言う。

「名前、言ってなかった。フアナ、よろしく」
「また、唐突ですね。僕はツェッドです。ツェッド・オブライエン」
「なんか、人類っぽい名前だ」

 く、とツェッドは喉を詰まらせた。どう返したものかと逡巡し「まあ、どちらかといえば人類です」と、答えた。

「へっ!? 本当に! ごめん、ずっと異界人だと思ってたよ。うんうん、せいたいかいぞーとかいうやつ? 流行ってるらしいね」

 帰ってきた反応があまりに軽いので、拍子抜けた。薄々感じてはいたが、なんというか、フアナは反応すべきところが少しずれているし、反応のしかたもずれている気がする。

「私も見ての通り人類なんだけどね、なかなかヘルサレムズ・ロットの外では馴染めなくて。ここに住んでるのが一番楽だよ。君もそう?」
「……ずいぶん雑な質問ですね」
「わはは、ごめんよ」

 でもさぁ、とフアナは、子供のように底抜けな笑顔で続けた。

「一人が好きだし、ヘルサレムズ・ロットに来たからにはろくに友人も出来ない覚悟はしてたけど、どうしてだろうね、やっぱり孤独は耐え難いんだよね」

 社会性動物だからかな、とフアナは声をたてて笑った。多分、付け加えたその一言は冗談の類であったのだろう。分かりにくいが。

「孤独、ですか?」

 ツェッドはぽつりと繰り返した。一息ついて冷めたコーヒーに口をつけていたフアナと、カップごしに目が合う。

「そう、喫茶店で趣味の合いそうな人にいきなり声をかけるくらいには寂しいよ」

 ツェッドは何か言いかけて口を開いたが、言うべき言葉が見つからなかった。あ! とフアナは急に胸の前で手をうつ。

「君、オス?」
「……は?」
「いや、人類だからオスって言い方は失礼か。男性?」

 お酢? 押忍? 押す? としばらく考えていたツェッドは、それが雄だと気付いて返答に詰まった。

「……そうですが」
「ワー!!! 異界人だと思って話しかけたからさ、ほら、異界人ってあんまり雌雄がないじゃん。これじゃあ、私、ただの逆ナン野郎だよ! 女だけど!野郎だ!」

 はずかしー! とフアナは顔を両手で覆う。扱いにくいテンションである。

「ああ、君、今、「なんだそのテンション」って思ったでしょ?」
「い、いえ、そんなことは……少し、ありましたけど……」
「よく言われるから気にしないでいいよ。真面目でおとなしく見えるらしい」
「ええ、そうですね。もっと、お固い人かと思っていました」

 ほぼ初対面にも関わらず、絵を指差しながら「この絵はもともと勃起した陰茎が描かれてたらしいよ」などと言われたときに、お固そうな印象など吹き飛んだが。

「固くはないよ。真面目でおとなしくて清楚で優しいのは本当」
「自分で言っていて恥ずかしくありませんか?」
「自分で言わなきゃ誰も言ってくれない」

 フアナは肩をすくめて言った。その目が、ちらと壁の時計を追う。

「残念だけど、私はこれからお仕事だ」
「ああ、すみません、長々と」
「とんでもないよ! 私こそ、急に声かけて引き止めちゃって、ごめん。迷惑でなければいいんだけど」
「迷惑なんて、そんな。とても楽しかったです」
「ありがとう、私も君と話せて嬉しかった」

 店員を呼び、フアナが会計を済ませる姿を見て、そういえば財布をなくしたことで知り合ったことを思い出した。話に夢中で、失念していた。

「代金、必ずお返しします」
「別にいいって。話せて楽しかったしーーあ、」

 フアナはしばらく迷ったようだったが、おずおずと言葉を繋いだ。

「君のお茶代を立て替えたこと、恩に着てる?」
「もちろんですよ」

 妙なことを聞く。

「じゃあ、さ、今度、また会って話してよ」

 そのときは、君がお茶代を出して、とフアナは言った。ツェッドはしばしぼうとしたが、「喜んで」と答えた。

******




 ーー同胞なき孤独、酸鼻極まる生

 初めて出会ったとき師に言われた言葉を、ツェッドは大量の水をたたえた水槽に浮かびながら考えていた。
 言葉の意味を、そのときの己の気持ちを、様々思いを巡らせて、防水処理を施した携帯端末に映るフアナの連絡先を見、ふっと笑む。
 街で年頃の女性と知り合ったことに一片の下心もないことはないのは否定しないが、それよりもツェッド・オブライエンという一個の生物に興味を持たれたことが嬉しかった。

「おっとォ!? 何にやけてんだ、ドスケベ半魚人!」

 乱暴にドアを開ける音と、粗暴な怒鳴り声が、硝子ごしに聞こえた。ライブラ事務所の一室に間借りしているとはいえ、他の人間はそれなりにプライバシーに配慮してくれる。こうもずかずかと領域に入り込んでくるのは、粗雑で無遠慮な兄弟子しかいない。
 ツェッドは、はぁと溜息をついた。

「なんですか、その大脳を一切通過させない脊髄反射な言葉は」

 ザップはツェッドの物言いを完全に無視してーーあるいは、意味がよくわからなかったのかーー水槽に近付いた。にやにやと口の端を引き上げる笑みが硝子ごしにいっそう歪んで見えた。

「端末見ながらにやけちゃって? ちょっとちょっとお相手はどこのビンチョウマグロ?」
「見下げ果てるほどデリカシーに欠けていますね」

 というか、端末を見ていれば女性相手なんて、貴方じゃないんですから、と言うと、ザップは顔面をべったりと硝子面に押し付けた。見るに堪えないほど扁平に変形した顔面から、ツェッドは思わず「うわぁ」と目を逸らす。

「水槽の中からでも女の匂いがすんだよぉ!! 女! メス! しかも若いメスの匂いだ! てめぇコラ魚類のくせに生意気なんだよ!!」

 顔面どころか口から吐き出す内容まで醜悪なのだから、嫌悪を通り越して痛ましささえ覚える。

「……なんなんですか本当に。この言葉は好きではないのでなるべく使いたくないのですが……キモいですよ」
「うるせー! おら携帯見せろや!」
「いやです」
「泣かすぞ魚類」
「出来るものなら」 

 ツェッドは手中で端末をするりと滑らせ、ザップに見えない位置に隠す。
 端末の画面が光り、フアナの名前が表示されたのが一瞬見えた。