金魚の箱






 レオナルド・ウォッチには、最近、歳下の後輩と歳上の後輩が出来た。一人は、真面目な常識人だが半魚人のツェッド・オブライエンで、一人は常識から外れた人類のフアナである。

 向かい合うソファに座るツェッドの姿をちらと見ると、ツェッドは視線に気付いて顔を上げた。

「どうしました、レオくん」
「あっ、いや、その、今日はフアナさん、来ないのかなって……」

 ライブラ事務所にはツェッドがいるから、ツェッドと仲の良いフアナは用事がなくてもしょっちゅう顔を出しに来る。仲の良い、という言葉では足りない二人の関係は、最近もっぱらライブラメンバーの噂の的だ。
 ツェッドは少し首を傾げ「どうでしょう」と言ったきり、再び膝の上の本に視線を落としてしまった。

「連絡とりあったりしないんですか?」
「以前は結構マメにとりあっていたんですけど、最近は連絡が来る前に本人が来るので」
「……ああ」

 その放り投げた物言いが少し面白い。

「レオくん、会いたいんですか?」
「えっ? いやいやいや! そういうわけじゃ!」

 会いたくないわけではないのだが。つまり、ライブラ事務所にしょっちゅう顔を出す若手のうちで、定職を持っているのはフアナだけなので、特に妹への仕送りで毎月カツカツのレオによく食事を差し入れしてくれる。
 クラブのバウンサーというのは危険が伴うーーこの街ではーーものの、それなりに実入りがいいらしい。
 察したツェッドが苦笑し「給料日前ですか?」と言った。レオは恥じ入って顔を赤くし、うつむく。

「あれでなかなか面倒見のいいというか、世話焼きな人なので、厚意には甘えれば喜ばれると思いますよ」

 レオは胸の前でぶんぶんと手を振った。

「そんな申し訳ないですから! 一応、僕、ライブラでは先輩ですし!」

 一応、男である自分が女性に食事をたかるのはどうか、と思うのだ。ザップなどを見ていると、特に。
 そう言うと、ツェッドはごく真面目な顔で確かにと頷いた。

「死すべき人の子らよ! 飢えているか!」

 やや乱暴にドアが開けられ、現れたフアナがそう声を上げた。レオは歓喜に両の手をあげる。

「う、飢えてます!」
「そうだろうとも。そうら、慈悲だぞ差し入れだぞ」
「フアナさん、女神!」
「知ってた!」

 二人の小芝居に、ツェッドはやれやれと肩を落とし、テーブルの上を簡単に片付けだした。
 あ、とフアナはその姿を見て声を漏らす。

「なんで水槽から出てるの?」

 そう言われたツェッドは、思いきり胡乱気な顔をした。

「いけませんか」
「別に。ただ、間が悪いなって。……いや!むしろ好都合か! 見て! これ!」

 フアナは、テイクアウトの中華料理の袋をテーブルに置くと、脇に抱えていた紙袋をガサガサといわせた。
 さっそく中華に飛びつくレオを尻目に、じゃーん! と効果音を口にしながら、フアナはシュノーケルのようなものを取り出す。

「シュノーケルですね」
「そう。ただのシュノーケルだと思うなよ、異界産の蟲が、ここに詰めてある」

 フアナの指先がシュノーケルのパイプの中ほどを指差す。レオとツェッドが顔を近づけると、模様だと思った黒いラインに、砂粒のようなものが詰まっていた。

「これ、水を水素と酸素に分解することでエネルギーを得てる微生物で、それを利用して簡易アクアラングにしてあるんだって」

 へえ、と、レオはフライドヌードルをかきこみながら答える。

「微生物が死ぬまでしか使えないから、オモチャみたいなものなんだけど」

 と言うと、フアナは豪快に上着を脱ぎだした。ツェッドは飛び上がってフアナを止めようとし、レオは思わず目を覆いそうになったが、フアナは洋服の下にひどく色気のないウェットスーツを着込んでいた。



 フアナは「いきなり裸になるなんて、そんな非常識なことをするわけないじゃん」と笑った。

「存在が非常識なあなたが、何を言ってるんですか」

 ツェッドは辛辣だが、レオも思わず便乗して頷いてしまう。
 フアナは一瞬興が削がれたような顔をしたが、構わずツェッドの水槽に駆け寄った。瞳がきらきらしていて、子供のようだ。
 それを見るツェッドの目は、呆れ半分ながらもどこか優しい。

「私がこれをして中に入る」
「……それで?」

 ツェッドは至極真っ当にそう聞き返した。

「それだけ」

 フアナはそう言うと、ぼちゃんと水音をたてて水槽に飛び込んだ。ツェッドが入るときより不恰好に水面が漣立ち、水滴がポツポツと床にしみを作る。
 水面に顔を出して、フアナはこちらを見た。足のつかない水槽で、手足をばたつかせて浮こうとする様子がよく見えるのは、なんだかひどく滑稽だ。

「笑うなよぅ」

 フアナは眉をひそめる。ああ、とツェッドが何か思い浮かんだような声をあげた。

「多少息が出来なくても死なないのでは」

 レオも目の前にぶら下がりばたつくフアナの脚から、水面に浮かぶ顔を見上げる。フアナは少し考えたあと「いやあ、死なないわけじゃないから。死んだことがないだけで」と眉尻を下げた。

「僕だって死んだことないです」

 レオが答えると、フアナは水面をバシャバシャいわせながら笑い、水を飲んで思いきり噎せた。

「あっ、だめだ、ちょっと水が気管に入っただけで苦しい」

 あれっ、この水飲んでも大丈夫? 君の出汁でてない? と嘯くフアナに、ツェッドは出てませんよと呆れたような声を出す。

「よし、じゃあ、いくぞー」

 フアナはシュノーケルをくわえ、とぷん、と顔を水につけた。パイプの先から、ごぼごぼと気泡が水面に向かって上っていく。
 顔の位置をツェッドとレオに合わせたフアナは、パイプをくわえたまま目を細め、ごぼごぼと何か言いたげだ。

「すごーい、ほんとに、いきができるー、って、言ってますよ」
「よく分かりますね!?」
「慣れです」

 なんの慣れだろう、とレオは首を傾げるが、ツェッドは気にせず水中のフアナに口の形で「よかったですね」と伝える。ぷかぷか浮かぶフアナは一層目を細めて、親指をあげて見せた。
 纏めていない髪が、フアナの顔の周りに海藻のようにまとわりついて蠢いている。フアナの手のひらが、硝子面にぺたりと当てられた。
 ごぼり、と、パイプから気泡が上る。
 ツェッドの青白い手が躊躇なく硝子ごしの手のひらに重ねられた。それを見て、レオはほんの少しだけどきりとする。

「まったく、変な人ですね」

 ツェッドはそう呟いた。同意を求められたのだろうか、とレオはツェッドの顔を見上げたが、ツェッドは心底呆れた顔で水槽を見つめているだけだった。

「フアナも、レオくんも、こんな感じで僕を見ているんですか?」

 そう問われ、レオは「そうですね、」と答えた。

「光の屈折のせいで、歪んで変な顔に見えますね」

 ツェッドはごく真剣な面持ちで呟いた。
 ざぶん、とフアナは水面から顔を出すと、水槽のふちに手をかける。

「君、いつもこんな感じで私たちを見てたんだ」

 シュノーケルを外し、眼下のツェッドに投げ渡しながらそう言った。ツェッドはそれを片手で受け取り、溜息まじりに「そうですよ」と答える。

「ぐにゃって、すごい不細工に見えた」

 もう、水槽越しに私を見るの禁止、とフアナは眉根を寄せた。

******

 数日間は、その異界シュノーケルはフアナの格好の遊び道具だったらしく、水槽の中の人影を当然ツェッドだと思って近寄るとフアナだったなどということもあったが、最近とんと見なくなった。
 ソファに腰掛け本を読むフアナに「もうシュノーケルで遊ばないんですか」とレオが尋ねると、フアナはああと難しい顔をした。

「あれ、中の微生物に寿命がくるとただのシュノーケルになっちゃうから」

 ずいぶん気に入っていたようだから、また買えばいいのに、と言うと、フアナはそうだなーと乗り気な様子を見せた。
 そのとき、付けっ放しだったテレビが、聞き覚えのある商品名を読み上げた。

「ーーーー水中でも呼吸ができる子供のおもちゃとして人気を博していたこの商品ですが、酸素を作り出す際に発生する水素による爆発事故が多発しており、消費者センターは使用の中止を呼びかけております」

 あ、と、二人は顔を見合わせる。画面の惨憺たる有様のプールやバスタブを見て、レオは震え上がった。

「ば、爆発しなくてよかったですね……」
「……ほんと、水槽を吹き飛ばしてたらスティーブンさんになんて言われていたか」
「ツェッドさんも怒りますよ」
「ツェッドはごめんねって言えばいいし」
「扱い軽いな!」