バタフライ・エフェクト






 日もとうに高くのぼっているというのに、ザップ・レンフロは寝起き丸出しの腑抜けた顔でライブラ事務所のドアを開ける。
 いつものメンバーは、難しげな、或いは困惑した、はたまた笑いをこらえるような顔で、所在なさ気な様子である。その異様な雰囲気に、さしものザップも面倒事の気配を察した。

「なんすか、みなさんお揃いで」

 あまりに面倒なら帰ってしまおう、とザップはそろそろと後退りしながらそう尋ねる。その問いにツェッドがついと視線をザップに向けた。

「入れ替わった」

 常に丁寧な語調のツェッドにしては珍しく、ぞんざいな調子でそう答えた。は? とザップは眉をひそめる。
 ツェッドは己の胸と、傍らに立つフアナを順に指で示した。

「中身が入れ替わってる。こっちがフアナ。こっちの私がツェッド」
「……は?」

 事態を飲み込めないザップは首を80°ほどひねる。

「あ? こっちの半魚人の中身がフアナで、フアナの中身が半魚人?」
「そうですよ。そうだと言っているでしょう」

 フアナが額に手をやって溜息まじりに答える。

「まじで?」

 ツェッドーー中身はフアナが、肩をすくめて頷いた。

「いや……おめーらキャラ似てるから入れ替わったところでそんなアレだわ」
「言いたいことはわかるよ。私もザップと入れ替わらなくてよかった。君はなんか……汚らしいし」
「おめーしれっと俺への嫌悪感を直球でブチ込んでくるよな。そのナリで言われると5万倍腹立つわ」

 ザップはつかつかとフアナーー中身はツェッドであるーーの方に近付くと、何も言わずに、ノーモーションで、むんずとフアナーー中身はツェッドーーの左胸を鷲掴みにした。

「なっっ、にするんですか!!!」

 フアナーー中身はツェッドがザップの手を振り払うと、ぼぐんと嫌な音がした。ザップの右前腕が中程からぽっきりと折れぶらぶらする。盛大な悲鳴が上がった。レオがウワァと呻く。

「フアナの体質はそのままか」

 転がりまわるザップを無視してスティーブンは顎に手をやり、考えを巡らす。

「厄介な話だ。フアナはツェッドの血法は使えるのか?」
「使えるのか、と聞かれても。どうやって使うのか分からないのですが」

 ツェッドーー中身はフアナが大きな手を開いたり握ったりする。スティーブンは、教えてやれるか、とフアナーー中身はツェッドを促した。
 フアナーー中身はツェッドは、ツェッドーー中身はフアナの手を取り、爪で小さな傷をつける。じわり、と血が滲んだ。

「フアナ、集中して。自分の鼓動を聞いてください」
「お、おおお?? 血が止まらないんだけど! こんな小さい傷なのに塞がらない! 大丈夫これ!?」
「僕の体ですから、あなたのビックリボディーとは勝手が違うんです。 いいから集中して」
「死ぬんじゃないか!? 君の体失血死するんじゃないか!?」
「しませんから」

 ツェッドにたしなめられ、フアナは深呼吸する。

「いいですか。それは僕の体ですから、血法は問題なく使えるはず。手のひらに集中してください。手足を動かすように、血液を感じて」
「えああ、何それ、なんか胡散臭いスピリチュアルみたいだなぁ……」
「集中してます!?」
「してる……けど、無理!」

 フアナはがっくりと肩を落とす。

「血法が使えないんじゃ、オメーただの魚だぞ」

 右腕をぷらぷらさせながらザップが言う。

「今の僕が怒るのも何か違う気がするんですけど、あなた失礼すぎませんか?」

 フアナの姿のツェッドが眉間に皺を寄せた。

「んだとコラ魚類……じゃねぇか」
「ふふふ、あなたの貧相な頭で今の僕への罵倒を考えつきますか」
「この人体模型! 歩くグロ注意! 純度100パー変人!」
「それはフアナへの罵倒でしょう。僕には痛くも痒くもありませんよ」

 傍で聞いていたツェッドの姿のフアナが困惑気な顔をした。

「なんだこの熱いとばっちりは」

「その姿でいがみ合うな。こっちが混乱する」

 スティーブンが苛々とした調子で仲裁に入る。二人が黙ったのを見て、スティーブンは先を続けた。

「とにかく、ツェッドにーーいや、フアナか。フアナに身を守る術がない以上、しばらく派手な行動は慎んでもらうしかない。まずはこんな事態になった原因の究明だが、二人の仕事は他に回す。フアナはツェッドとなるべく行動を共にし、護衛してやってくれ。ーーん? 逆か? 紛らわしいな」

 はい、とフアナがスティーブンの方を向き直ると同時に、腕の鰭がぶつかって棚の上の雑貨がばらばらと床に落ちた。あ、すみません、とフアナがそれを拾う。
 行きますよ、とドアノブに手をかけたツェッドがそのままドアノブを千切り取り、ひぇと小さな悲鳴を上げる。

「だ、大丈夫ですかね……ツェッドさんとフアナさん」

 レオがスティーブンに耳打ちすると、スティーブンはやれやれと肩をすくめる。

「ツェッドが事務所のドアノブというドアノブを千切り取る前に問題解決するぞ」



******



 翌日、ライブラ事務所に出向いたレオは、水槽で優雅に揺蕩うツェッドの姿を見つけた。レオはそちらに駆け寄り、ツェッドに声をかける。

「ツェッドさん、元に戻ったんですか?」

 レオが硝子越しに問うと、水の中のツェッドは首を横に振った。

「まだフアナだよ。ごめんね」

 ツェッドの姿のフアナは水面まで滑らかに浮上すると、水槽から上がる。階段を降りる途中で、唐突にその場で崩れ落ちた。

「えっ、ちょっ、ツェッドさん!? じゃない! フアナさん!!」

 フアナは胸に手をやり、苦しげに喘鳴する。

「わー! エアギルス! エアギルス!!」

 レオは慌てて水槽の縁にかけられたボンベを取り、フアナの首に装着する。呼吸を整えたフアナは、ぐったりと階段に座りこんだ。

「忘れてた……不便な体だなぁ……」

 それを見て、レオは不思議な気持ちになった。たとえばザップとチェインの中身が入れ替わったとしたら、もっと大騒ぎになっていただろう。ザップのように振る舞うチェインも、チェインのように振る舞うザップもあまり想像がつかない。
 だが、フアナの精神を宿したツェッドはあまりに落ち着き過ぎていて、もしかするとツェッドとフアナが入れ替わったふりをしているのではないか、と疑念さえ湧く。

 そんなことを考えていると、ツェッドの水槽がある部屋のドアが開く。

「ああ、ドアノブを壊さずに済みました」

 フアナがーーつまり、フアナの姿をしたツェッドが部屋の中を窺った。

「レオくん、フアナ、おはようございます。何も変わりはありませんでしたか?」

 レオは目を丸くした。姿形こそフアナで、衣服もフアナがいつも着ているものであるのだが、あちこちにあしらわれたスカーフやアクセサリーの小物使いが可愛らしい。化粧もいつもより優しげな雰囲気が出ている。立ち居振る舞いも楚々として美しい。
 ぽかんとする二人に、ツェッドは顔を真っ赤にした。

「ネットで調べて自分でやってきたんですけど、おかしいですか? すみません」

 レオは目をゴシゴシと擦った。

「い、いやーフアナさん、変人オーラさえ無ければ普通に綺麗だったんですね」
「君も大概失礼だなぁ」

 ツェッドの姿のフアナが呟く。それを見咎めたツェッドがフアナの方につかつかと歩み寄った。

「僕の体で下着姿のままうろつかないでください!」
「え、これ下着だったの?」

 フアナは下半身のぴったりとしたウェットスーツのウエストを引っ張る。ちょっと! とツェッドが血相を変えた。

「どうして人の体にそう遠慮がないんですか! 僕は昨晩シャワーを浴びるとき、ちゃんと目を瞑っていましたよ!」
「……そこまで気を遣わなくても。私の体なんて内臓から脊柱まで見てるでしょ」
「それとこれとは話が違う!」

 常識的で正論を口にするフアナと、茫洋としたツェッドの図が愉快である。
 そこに、ザップが頭をガリガリと掻きながら現れた。ツェッドと、レオと、フアナの姿を見とめ、しばらくぼうとフアナーーツェッドの姿を見つめていたが、やがてずかずかとフアナに近寄ると、ギュッとその手を握った。

「よし魚類(仮)ちょっとベッドで横になれ。あとなるべく口はきくな。すぐ済むから」
「何碌でもないこと考えてるんですか」

 ツェッドはザップの手を振り払う。力の加減も上手くなったようで、ザップの手は無事である。

「なんだよ! いいだろ! どーせおまえの体じゃねえんだし! つーかその体なら傷なんかすぐ治るんだから、処女膜も再生すんだろ! 何度も処女とヤれるとかサイコーか!?」
「発想が下衆すぎてかける言葉も思いつきません」

 レオも顔を引きつらせる。

「ないわぁ……SS先輩ないわぁ……」

 外側こそ女体であるが、中身は犬猿の弟弟子である。それはいいのだろうか。
 フアナがむうと唸る。

「私も怒るべきなんだろうけど、いまいち怒る気になれない。自分の体への里心が不足しているのかもしれない」
「体への里心ってなんですか」
「残念ながらレオくん、今の僕には分かりますよ。体への里心」
「マジすか」

 さすが体を失ったもの同士である。
 フアナがずいとツェッドの顔を覗き込む。

「おお……アイラインばっちり……器用だなぁ」
「そんなまじまじ見ないでください。あと顔が近いです」
「いいじゃん、君の顔だろ」
「自分の顔をそんなに見つめて気持ち悪くないんですか」
「別に」
「僕は気持ち悪いです。どいてください」

 傍から見ればフアナに顔を寄せるツェッドでしかないので、レオも少し気まずい。
 フアナは上着を着て、ツェッドの横に立った。

「さて、出かけるか」

 そう言うフアナにツェッドは顔をしかめる。

「いったいどこへ? あなたが行くところに僕もついて歩かなきゃいけないんですよ」
「どこへでも」

 ふらりとドアの向こうに消えて行くフアナを、ツェッドは慌てて追った。



 ツェッドはショーウインドウに映る自分の姿をちらりと横目で眺めた。乳白色の皮膚に、鰭のない手足。いつか憧れた「人間の体」だ。だが、その憧れの叶い方は、予想外のものであった。
 いつもはツェッドに目もくれない人類が、今日は親しげな視線を向けてくる。やはり、こんな街にいると同類の姿に安堵を覚えるものであろうか。ツェッドにその視線を受ける資格はないのではあるが。ツェッドは世界中のどんな生き物からも、そういう視線を受けることはない。

 フアナはすいすいと人混みを歩いていく。その後ろ姿ーーつまり、己自身の後ろ姿を見つめる。半透明の青い皮膚。広い肩と鰭。ヒューマーにもなれず、ビヨンドでもない、己の孤独な後ろ姿だ。

「ツェッド」

 不意に、フアナが名を呼ぶ。ツェッドはつい癖で声の方へ顔を下げ気味に反応したのだが、フアナのーーつまりツェッドの腹しか見えなかったので、慌てて顔を上げた。一対のきらめく魚眼が、ツェッドを見下ろす。

「ちゃんとついてきてる?」
「ええ、少し歩きづらいですが」
「どうして」
「あなたは僕ほど背が高くないから、なんとなく視界が悪いような気がして」

 ふふ、とフアナが笑う。

「私は快適だよ。ああ、でも、たまに息をする感覚がよくわからなくなる」

 ツェッドは己のーーフアナの体の胸に手を当ててみた。呼吸をするたびに肺が膨らむのを感じる。たしかに不思議な感覚だった。時折、息を吸うのを忘れて咽てしまう。

「……その、嫌ではないですか?」

 おずおずとツェッドが問うた。フアナは首を傾げる。人の体で妙にフェミニンな動作はやめてほしい。フアナを際立って女らしいと感じたことはないが、男の体にフアナの所作は違和感があった。

「僕の体で」
「いや、別に……なんで?」
「いえ、僕の体は……普通じゃないから」
「私の体も全然普通じゃないけど」
「た、たしかに……!」
 
 そうではなくて、とツェッドは仕切り直す。ツェッドが何か言う前に、フアナが続けた。

「何が理由かは分からないけど、交換されたのがツェッドで本当によかった。君になら私の体を預けても安心だし、君の体なら入っていても嫌じゃない」

 フアナは掌を陽光に透かすように、霧烟る空にかざした。長い指、水掻き、鋭い爪を見分するように眺め回す。

「私の好きな美しい体」

 ツェッドは顔に血が上るのを感じた。この体は、感情をひた隠すのが難しい。
 フアナはその手を己の口元にやる。

「味を見ておいていい?」
「だ、だめですよ! 生えないんですよ僕の指は! ほらそこにシーフードの店がある、それで我慢してください! まったく、ほんの少しでも僕に感涙に浸る時間をくれないんですか!?」

 フアナは元の体であったならば、唇を尖らせて見せていたのだろう。今ツェッドの目に映るのは、見慣れた己の顔であったが、鏡で見る硬い表情とは違う、子供のような表情だ。

「オネーサン、オネーサン」

 それが己を呼ぶ声だと、ツェッドはしばらく気付けなかった。生まれてこの方「オネーサン」などと呼ばれたことはない。呼ばれるときがくるとも思わなかった。

「え、あ、僕ですか? はい、なんでしょう」

 異界人の三ツ目がツェッドをぎょろりと見上げる。手には「I Love H.L.」とプリントされたTシャツを提げていた。

「オネーサン、これ土産品。ヘルサレムズ・ロットに来た人はみんな買ってくよ。しかも、人間用。人間用は少ないんだ。腕が2本しかないからね」

 傍らで聞いていたフアナが「異界人あんまり服着ないじゃん」と呟く。

「お得! 今ならおまけするよ」

 と、「I Love H.L.」のスペルをあしらった冗談としか思えない派手なメガネを差し出す。

「これも人間用。目が2つしかない」

 困惑するツェッドに、フアナが耳打ちした。

「買うの?」
「い、いや……これはちょっと」
「よかった。私の体でそんなもの身につけないでくれ」

 フアナが土産物屋を軽くあしらい、再び並んで歩を進める。

「観光客に間違われてしまいましたね」
「よくあるよ。ここじゃ普通のーー普通に見える人類は珍しいから」

 そうなんですか、とツェッドは呟いた。フアナはフアナで、ここでは疎外感のようなものを感じるのだろうか。

「どう? 普通の人類と分類された気分は?」

 恬淡とフアナが言った。ツェッドの心臓が跳ねる。何気なく聞いただけなのかもしれない。それとも意図があるのかもしれない。鋭いくせに鈍感で、蒙昧なのに明晰で、そういうフアナの読めなさが、たまに怖くなるのだ。
 このまま戻りたくないなどと、少しでも思っていることを気取られたくなかった。

「……なんだか、変な気分です」
「そうか。体が人間のうちに、やっておきたいこととかある?」
「特には……あ、強いて言うのなら……」
「強いて言うのなら?」
「服を買ってみたいです」
「え?」

 フアナが怪訝そうな顔をしたので、ツェッドは言い訳のように続ける。

「その、今朝、仕度をするのに色々調べていたら、女の人の服とか化粧とか色々あるなーって、思いまして……」
「変わってるなぁ」

 フアナにだけは言われたくなかった。

「じゃあ、適当に私がいつも服を買ってる店にでも……」
「実は、行きたい店があって」
「ノリノリじゃん」

 ツェッドは携帯端末を取り出し、調べておいた店の住所をフアナに見せた。

「42番街か」
「普段は入れませんから、今日くらいは」

 じゃあ、行くか、とフアナは標識を確認する。ここから42番街はそれほど遠くない。歩いて行けるだろう。
 雑談交じりに歩いていると、42番街区画の手前でフアナはぴたりと足を止める。

「じゃあ、私はここで」

 ツェッドは止まったフアナを振り返った。

「困りますよ、一緒にいないと」

 フアナはひどく胡乱げな顔でツェッドを見下ろす。

「正気か? ここはこの姿じゃ入れない」

 長い爪の指先が、青い頬をつつく。あ、とツェッドは言葉を失った。

「すみません、やはり違うお店にしましょう」
「いいよ。体が戻れば私はいつでも行ける」
「でも、あなたを守る人が……」
「危険を避けるくらいなら今の私にも出来るよ」

 フアナはそう言うと、近場の喫茶店に入っていく。ツェッドは慌ててその背に呼びかけた。

「すぐ帰りますから! そこを動かないでくださいよ!」

 小走りに42番街に入っていく。直線で構成された無機的な町並み。整然とした広告。道を行くのは見渡す限り人類。パネルに照射された理想の青空が、悲しいほどに輝いていた。
 これが隔離居住区の貴族。異界との狭間に生きる人類の最後の抵抗。それはH.L.の外に似ていたが、空気が違う。諦念と排他と独尊がじっとりと足元を這っていた。
 住所を参考に店を探すと、表通りに面したその場所は思いの外早く見つかった。無垢材を使った窓枠に、磨き上げられたガラスが嵌められている。若い女性向けのセレクトショップだ。広告に載っていた蝶柄のワンピースが、ツェッドの心を捉えた。初めて外界に出たときに見た、舞い踊る蝶を思い出させられる。広い空を軽やかに飛ぶ蝶は、ツェッドにとって世界と憧憬の象徴だった。
 着てみたい、と思ったわけではない。ただ、その華やかな蝶のプリントされた布が、どうしても欲しかった。

 おずおずとドアに手をかけ、しばし迷う。男の自分が、と一瞬思ったが、今の自分の体は男ではない。意を決してドアを開けると、新品の洋服の匂いがした。

「いらっしゃいませ」

 洒落た女性店員に声をかけられ、ツェッドは気後れする。

「どうぞ、お手にとってご覧ください」
「は、はい……」

 ツェッドは手近なスタンドにかけられたブラウスに触れた。数え切れないほどの色彩と、多様な手触り。ツェッドは指先でそっとなぞるように洋服に触れていく。男で、人外の己には、縁遠い世界のものだ。だが、それが、今は己の手の中にあった。

「それ、新しく入荷した商品なんです。試着されますか?」

 にこやかな店員が、そう声をかけてくる。ツェッドは戸惑い、一瞬息のしかたを忘れる。

「いえ、あの、探している服があって」
「お探し致しますよ。どんな服ですか」
「ネットで紹介されていた蝶柄のワンピースなんですけど」

 店員は大袈裟に悲しげな顔をした。

「申し訳ございません、そのワンピース、紹介されてから大人気で、欠品しているんです」
「そ、そうですか……」

 帰ります、と言いかけたツェッドの言葉を、店員は淀み無く遮った。

「似たものですと、こちらなんかがお似合いかなーと思うのですが」

 驚くほどの手際で、ワンピースをツェッドの方に差し出す。

「どうぞ、鏡で当ててみてください」
「か、かがみ……?」

 それが、洋服を自分の胸に当てて鏡で見てみろ、という意味だと理解するのにしばらくかかった。
 促されるまま、ワンピースを胸に当て、鏡を見る。はじめての経験だった。

「素敵な色ですよね。試着されますか?」

 答える前に、試着室はあちらです、と大きめの箱のような小部屋に追い立てられる。
 どうしたものか、と試着室のドアを細く開けると、外には先程の店員がいる。致し方あるまい、と自分のブラウスに手をかけた。鏡に映った自分のーーフアナの体をあまり見ないようにしながらワンピースに着替えた。
 鏡像を眺め、しばしぼうとする。コン、と試着室のドアが叩かれた。慌てて開けると、店員がにっこりと笑う。

「とっても素敵ですよ。お客様の雰囲気にお似合いです」

 それから、効果的な沈黙。一瞬、沈黙を恐れて「買います」と言いそうになったが、ぐっと堪えて「すみません、やっぱり蝶のがいいので」と答える。

「そうですか、残念です」

 店員から逃げるように試着室のドアを閉め、大急ぎで着替える。一度着た商品をどうすればいいか分からず手に持ったままおろおろしていると、店員が預かってくれた。

「また、お待ちしていますね。申し訳ございません」
「い、いえ、……今日はありがとうございました」

 俯いて、逃げるように店を後にする。紛い物の青空の下で深く息をして、やっと人心地つく。緊張したし、大変だったが、楽しかった。あの蝶の大群を見られなかったのは残念だが。
 さて、フアナのもとに帰ろうと踵を返すと、失礼、と声をかけられた。振り返ると、なんでもない人類の男である。

「ここから近い喫茶店はありますか?」

 妙なことを聞く男だ、と思った。しかしツェッドは42番街に土地勘はない。

「すみません、このあたりは詳しくなくて」
「そっか、君は観光客?」

 早足で歩くツェッドに、男も付いて来た。やはり変な男だ。

「いえ、僕ーー私は……」
「観光客じゃないんだ。ここには君みたいに素敵な女性も住んでるんだね。意外だな」

 ツェッドは曖昧に笑ってみせる。

「ここはすごい場所だよね。42番街じゃないと、恐ろしくて女性に声もかけられないよ」
「そうですね」
「僕は仕事できてるんだ。君は大崩落の前からここに住んでるの?」

 しつこく追ってくる男が不気味になってきた。あと1本ストリートを渡れば、フアナと別れた喫茶店だ。連れがいると知れば、男もどこかへ行くだろう。

「いえ、……」
「え、最近ここに来たの? 変わってるね。一体どうして?」

 いい加減うんざりしたその時、フアナがひらひらと手を振りながらストリートの向こうから歩いてきた。

「どうも、何か?」

 フアナが男に問うと、男は苦笑いして「いいえ、道を聞いていただけです」と答えて42番街の方へ足早に帰って行く。
 ツェッドが溜息を漏らすと、フアナは呆れた顔をした。

「あの手合いをまともに相手しちゃ駄目だよ」
「なんだったんですか、あの人は。気持ち悪い」
「ナンパだよ。気付かなかったのか」

 え、とツェッドは愕然とする。ナンパといえば、兄弟子のように軽い感じの男が「へいへいねーちゃんカワイイネー」といった調子でするものだと思っていた。

「ナンパなんて初めてされました」
「え? 私が君に声をかけたのもナンパみたいなもんだろ」
「まあそうですけど」

 フアナはどこか神妙な顔で「どうだった?」とツェッドに尋ねた。

「欲しかった服は買えませんでした。品切れで」
「そっか。楽しかった?」
「え?」
「人間は楽しい?」

 思いの外真剣なフアナに、ツェッドは言葉に迷う。

「さっき、スティーブンさんから連絡があった。街で生き物の中身が入れ替わる事件が多発して騒ぎが起きてるらしい。どこかの魔導オタクが作ったトラップがばら撒かれてるんだって」
「一体何が目的で?」
「悪質なイタズラだってさ。人類が全裸で店先の魚を盗んで路地裏に排泄し、ドロドロの化物が「化物になっちまった」って泣いてるって」
「あ、悪質すぎる……」

 そのイタズラにひっかかった身だからこそ、悪質さが身にしみる。

「トラップの製造元をチェインが追ってて、多分もうすぐ私達も元に戻れる」
「そうですか、よかった」

 ツェッド、とフアナは低く囁く。

「もし、君が戻りたくないなら、戻らなくていい」
「何を……」

 フアナは珍しいほどに真面目な面持ちで、ツェッドの顔を覗き込む。大きな魚眼に、困惑した己の顔が映っていた。

「私は自分の体質と折り合いをつけることが出来なかったけど、君は器用だし、上手く人間として生きられるかもしれない」
「何を馬鹿なことを!」
「ふざけて言っているように見えるか?」

 ツェッドは押し黙る。フアナは爪で己の掌を傷付けた。流れ出た血が、不安定ながらも歪んだ球形を形作る。ツェッドは息を呑んだ。


「昨晩練習した。まだこれしか出来ないけど、まあ、希望はゼロじゃーー」

 物凄い破壊音が、その先を掻き消す。ツェッドとフアナが音の出処を振り向くと、毛の長いゴリラのような巨大な異界人が咆哮とともに手近な店の屋根を引き剥がした。
 彼らは見た目こそ恐ろしいが、基本的に温和で臆病な種族だと記憶している。それがなぜ、とツェッドは考えたが、すぐに思い至る。フアナもそれに気付いたらしく、ああと呻いた。

「いったい何と入れ替わったんだ」
「フアナは下がっていてください!」

 言うが早いかツェッドは地を蹴り、大暴れする長毛ゴリラに跳躍した。つい癖で掌に意識を集中するが、三叉槍が現れるわけもない。空の手をそのまま握り込み、拳を当てようとするが、慣れぬ体では大幅に目測を誤った。
 振り回されるだけの鋭い爪が、ツェッドの胸を裂く。肋骨の砕ける感触と、灼けつくような痛みが脳髄を貫く。食道と気管を血が逆流してきた。激痛に一瞬視界がぐらりとするが、すぐに持ち直す。
 痛みは消えていた。出血も、傷口も消えた。

「忘れていました。便利な体ですね」

 ツェッドはひとりごち、ゴリラに向き直る。
 どうしたものか、と思案した。この体は、手加減だとか、捕縛だとか、そういうものにはとことん向いていない。特に扱い慣れていないツェッドにはひどく難しい。元は大人しい生物を原型も留めず吹き飛ばすのも忍びない。

「ツェッド!」

 フアナが叫んだ。

「押さえてろ!」
「押さえる!?」

 ツェッドは反射的に迫り来る爪を抱えるようにして受け止める。脇腹を爪先が掠め、一瞬ちりっと痛みが走った。受け止めた鋭く硬そうな爪が、己の腕の中でみしりと音を立てて割れる。そんなに力を入れたつもりはないのだが。
 身動きの取れなくなったゴリラの背を、フアナは三歩で駆け上がる。ゴリラの肩の上に立ち、辛うじて棒の形を保った血液で、その後頭部を思い切り殴りつけた。
 血法とも呼べぬ、雑な技だ。師匠が見たら怒り狂うだろう。血界の眷属の爪すら切れない。だが、鍛えられたツェッドの肉体での、場慣れたフアナの思い切りのいいフルスイングは、巨大な長毛ゴリラを昏倒させるのには十分だった。

 倒れるゴリラの上から、フアナが飛び降りる。慣れぬ体のせいか、着地に失敗して地面に転がった。

「フアナ!」

 ツェッドはフアナに駆け寄る。フアナはよろよろと立ち上がり、右手をツェッドの方に差し出した。掌から湧き出るように血が溢れている。

「無事ですか?」
「うわ、あ、血が止まらないんだけど!」

 フアナは真っ青なーーもともと青いがーー顔で悲鳴をあげた。
 血法が暴走したらしい。制御の仕方も分からず大量の血液を使用したためだろう。掌の小さな傷から、蛇口のように血が噴き出している。

「落ち着いて、大丈夫ですから」

 震えるフアナの肩に手を置く。傷を塞ぐように、掌を重ね合わせた。

「深く息をして。集中して。さっきは上手く扱えていたでしょう」

 フアナが息をする気配がした。エアギルスの音が高くなる。出血の勢いが少し弱くなった。

「ツェッド! フアナ!」

 空から滲み出すように現れたチェインが、ツェッドに小さな装置を手渡す。対人地雷のような形をしたそれが、今回の騒動の原因だと察しがついた。

「スイッチを入れれば、一番近くにいる生物と精神が入れ替わる。ツェッドの体が出血多量で死ぬ前に、早くしたほうがいい」

 それだけ言うと、チェインは溶けるように消えた。巻き込まれないように離れたところへ退避したのだろう。
 ツェッドは苦笑いして、装置のスイッチに指を当てる。血を失い朦朧としたフアナが、物言いたげにツェッドを見上げる。

「死んだら元も子もないでしょう」

 固いスイッチを押した瞬間、ふつん、とテレビのチャンネルを変えたときのような感覚がして、ツェッドの視界が一気にぼやけた。勝手知ったる体の感覚を楽しむ間もなく、ツェッドは暴走した血液を抑えると、そのまま意識を手放した。


******



 

 目を覚ますと消毒液の匂いがした。白い天井をぼんやりと見上げる。病院か、とまだ覚醒しきらない頭で考えた。
 
「ツェッド」

 声の方を見ると、悲しそうな、申し訳なさそうな、そしてどこか不機嫌そうなフアナがツェッドを見つめていた。

「ああ、おはようございます」
「そんな軽い感じで……」
「ただの貧血でしょう。修行時代は日常茶飯事でしたよ。病院に連れて行ってもらえるだけ御の字です」

 ツェッドは体を起こす。フアナはまだ納得いかない様子で黙り込んでいた。

「そんな顔をしないでください」
「どんな顔?」
「何もかも私が悪かったごめんなさい、って顔です」

 フアナは両手で顔を覆い、そのまま髪をかきあげた。

「何もかも私が悪かった、ごめんなさい」

 不機嫌そうな顔のままそう言うので、ツェッドは思わず吹き出して笑ってしまう。

「笑うなよ……」
「す、すみません」

 謝りながらも、笑いは止まらない。
 フアナはむっつりとした表情で、据え付けのサイドテーブルに肘をついてそれに寄り掛かった。

「自分の体で、すぐ治るって分かってても、君がやられたのを見てワーっとなっちゃって……」
「だから僕は日頃から、無闇矢鱈に敵に突っ込んでぐちゃぐちゃになる戦法はやめろとあなたに言っていたじゃないですか」
「うう……ごめん」
「すぐ治るとはいえ少し痛いと聞いてはいましたが、予想よりずっと痛かったですよ。もっと控えたらどうですか」
「……善処します」

 いつになく素直なフアナが面白くて、もっと言ってやろうかと思ったが、さすがにそこでやめておく。

「でも、あの場を打開する方法は他になかったし、異界人の彼も、僕も助かりました。街の被害も最小限で済んだ。もう、それでいいでしょう?」

 フアナは渋々といった体で、小さく頷いた。

「でも、戻ってしまった。君はそれでよかったの?」

 フアナは自身の胸と、ツェッドの胸を順に指しながら小声で言う。ふう、とツェッドは息を吐いた。

「ええ、問題ありません」
「本当に?」
「勿論。僕は長年連れ添ったこの体に愛着があるし、それに、同種はいなくても同士はいる。あなたも含めて」

 フアナは一瞬目を丸くし、次いで、そっか、と呟く。

「余計なお世話をしてしまった」
「でも、気持ちは嬉しかった。本当に」
「うふふ、うん」

 フアナがやっと笑ったので、ツェッドは安堵した。やはりフアナは、掴みどころなく笑っているのが一番似合う。
 ガシャーン、とほとんど破壊音に似た音がして、病室のドアが開く。ニヤニヤ笑うザップと、ちょっと! 病院ですよ! と窘めるレオが転がり込むように病室に入ってきた。

「オラ、魚類! へっへ、やっと魚類と呼べるぜ! 血法が暴走して貧血だって? 鍛え方が足りねぇんだよなぁ!!」

 ぎゃははは、とザップがけたたましい笑い声をあげる。そうは言ってもね、とレオはツェッドに耳打ちした。

「心配してたみたいですよ」
「そうでしたか、素直にはなれないようですが、ご心配をおかけして申し訳ありません」
「そんっ、う、うるせー!!」

 ザップが横柄にベッドに腰掛け、ツェッドから顔を背ける。フアナも呆れ顔で成り行きを眺めていた。

 人間の体を手に入れられることを、惜しいと思わないわけがない。それでも、フアナの体を奪うような真似はしたくなかったし、斗流を裏切ることもしたくない。何より、フアナが美しいと言ってくれる、仲間が頼りにしてくれるこの体を、ツェッドは少しずつ厭うことが出来なくなっていた。
 ツェッドは喧騒をよそに掌に貼られた小さな絆創膏を見下ろし、ふっと笑う。外はもう夕暮れで、病室の大きな窓から赤い光が差し込み己の青い皮膚を照らしていた。


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 ある日、事務所に現れたフアナの姿に「あれ」と言ったのはチェインだった。

「そんなワンピース持ってた?」

 一面に色とりどりの大小の蝶がプリントされた華やかなワンピースだ。一度見たら忘れられないインパクトがある。
 フアナはスカートの裾を軽く持ち上げ、笑った。

「これ? 昨日買った」
「ええー、いいなー。すてきー。こういうパッとしたの、似合うよ。もっと着なよ」
「実は、これ、街を歩いてたら行ったことのない店の前で、たまたま表に出てたそこの店員の女性に「あなたが探していたワンピース、入荷しましたよ」って言われて、誰ですかって言えないし、いらないですとも言えなくて、つい買っちゃったんだよね」
「え! 何それ? 新手のセールスか何か?」
「さあ。不思議」
「よ、よくそんなあやしげなもの買ったね……」
「素敵だったから、うっかり。これも何かの縁かな、と」

 フアナは持ち上げていた裾を離す。柔らかな生地がひらひらと揺れて、プリントの蝶が羽ばたいているようだった。