キラーハードルはレディになりたい







 昼下がりのライブラ事務所で、レオは携帯機を持ち込んでゲームに興じていた。向かいのソファで、フアナが仰向けに寝そべり、すうすうと寝息をたてている。夜の仕事までの仮眠らしい。
 普段はツェッドの水槽のある部屋で寝ていることが多いが、今日はザップとツェッドが珍しいことに揃って出払っているので、ここで眠ることにしたようだ。主が不在の部屋で勝手に昼寝をしない、という奥ゆかしさがフアナに備わっているとも思えないので、彼女はああ見えて寂しがりやなのかもしれない、とレオは思う。

 ドアの向こうから言い争う声がして、その声はどんどん大きく近くなる。姿を見なくてもわかる。とことん性格が反対方向を向いた斗流の兄弟弟子だ。

「ほんっっとに話しのわからない人ですね! 脳味噌のかわりにピーナッツバターでも詰まってるんですか!!」
「うるせー魚! ピーナッツバター詰めて揚げ焼きにしてやろうか!」
「微妙に美味しくなさそうな料理を出すのはやめてください!」

 とにかくうるさい二人に、レオは「二人とも、しー!」と唇の前で指を立てた。
 勢いよくレオの方を見た二人のうち、ツェッドはフアナの姿を見て察したのか口を閉じる。ザップはそんなことに気付く感受性を持っていないので、そのままレオに食ってかかった。

「あ? てめーも童貞だろうが! ママのおっぱいでもしゃぶってろ!!」
「なんの話だよ! いきなりすぎる!」
「へっ、いい店紹介してやろうか? 手数料三割な!」
「いりませんよ! 馬鹿じゃないですか!」
「ちょっと、二人ともお静かに!」

 ツェッドに言われ、レオとザップは無言で睨み合う。あまりの喧騒に深く寝入っていたフアナも呻きながらソファから起き上がっていた。
 まだ眠そうな、とろりとした目がレオとザップを、次いでツェッドを一瞥する。

「そーやって、あほみたいな……ことばかり」

 あくび混じりにフアナが呻く。ザップがレオの背中を強く叩いた。いてぇ、とレオが顔をしかめる。

「人類女代表として言ってやれよ、童貞をどう思うか」

 フアナは掌で顔を覆う。

「どーも思わんよ。男性に性交経験があろうと……なかろうと、…………そんなの気にするのおとこどうしだけだよ」

 フアナはふらふらと立ち上がり、水槽のある部屋の方へ足を向けた。ほとんど意識はなく、体が覚えている方向へ歩いていくような有様だ。
 開けっ放しのドアから、水槽の脇に置かれたカウチが見えた。フアナはそこに倒れ込むように寝そべる。

「ははは、レオも、お店じゃなく、私で済ませれば、いいのに……お金かからないしね……ふふふ、ふ」

 すう、と寝息が聞こえた。寝息しか聞こえなくなった。
 血界の眷属を見るような目で呆然とレオを見つめるツェッドと、息ができないほど笑うザップと、完全に硬直したレオだけが残された。

「え……?」

 ぽつり、とそれだけレオの口から漏れる。操作を忘れられたゲーム機の液晶に、大きく赤字で「GAME OVER」と表示された。


******





 翌日、いまだ現れないフアナにレオは恐々として朝のコーヒーを口にした。フアナは夜の仕事ーーというと語弊があるだろうか、ナイトクラブのバウンサーであるーーをした翌日でも、普段と変わらない時間に起床し、変わらない時間にライブラに顔を出す。休日に昼まで眠るレオには理解できないが、こんな仕事をしているとすぐに昼夜逆転する、とフアナは言っていた。

「力が強くて、死ななくて、夜起きてるって、ヴァンパイアみたいでイヤだ」

 というのが理由らしい。よくわからない理屈である。

 ともかく、昨日のクソ寝ぼけ爆弾発言以降、ツェッドが目に見えてきりきりしているので、レオも下手なことが言えない。二人とも短慮ではないし、穏便に済ませられるならば済ませたい。フアナの奇行種ぶりも理解しているので、そのことには触れないでやり過ごしている。

「レオくん、コーヒーのおかわりいかがですか」
「い、いただきます」

 とぽぽぽ、と空いたマグカップがコーヒーで満たされる。や、やりづれぇ! とレオは内心悲鳴をあげた。
 口につけたマグカップごしに、落ち着かないツェッドの姿を眺める。普段は冷静で物静かなツェッドが、目も当てられない動揺ぶりだ。ああまで心乱しているということは、ツェッドさんはやっぱりフアナさんのことが好きなのかな、とレオは思う。
 あまり、そういう話はしないので詳しくは知らないが、あの師匠の下で真面目に修行に励んでいたツェッドに、ザップのような女性関係があるとは思えない。もしも、フアナが初めて好きになる女性なのだとしたら、なんだかひどくーーーー

 ーー難易度高すぎない?

 と、レオは思うのだ。あまりにもハードルが高すぎてライバルがいないという点はプラスポイントだが。ハードルが高い、というよりも、時速120キロで自走するチェーンソーのついたハードルである。跳べないし、跳ぶ気にもならないし、跳んだら死ぬ。
 ツェッドがレオの向かいに座った。その視線はザップが置いていった風俗情報誌に落ちる。「ヘルサレムズ・ロットのナイトガイド決定版 特集 H.L.でヒューマーと××できる店!」と、ショッキングピンクのフォントが踊る。
 片付けておけばよかった! とレオは後悔した。

「き、きれいな人ばっかりで……そういうお店も悪くないですよね……はは……」

 とりあえず、フアナとどうこうするつもりはないですよアピールをしておく。
 ツェッドは雑誌のページを2、3枚めくった。

「人類の美醜はよくわからないので」
「あ、ああー、そうなんですかー……」

 逆効果だったかもしれない。何も言わないほうがよかった。
 そのとき、ドアの向こうで物音がした。よかった、これで重苦しい空気とはおさらばだ、とレオはそちらを期待の目で見るが、現れた二人組を見て表情を凍らせた。

「おはようございます」

 と、いつも通り朝の挨拶をするフアナと、フアナの肩に腕を回すザップである。

「朝からなんなんだよ君は」

 フアナはうるさそうにまとわりつくザップを振り払おうとする。ザップはその手を避け、再びフアナに絡みついた。

「いんやー、フアナちゃん、こんな面白いと思ってなかったわー。面白いというか、イケイケ?」
「腹立つな」
「俺もおこぼれに預かりたいものですよ、いやホント」

 こっちが気を遣って無かったことにしていたのに、全力で蒸し返しにかかるこのデリカシーなし男をどうにかしてほしい。
 ひゅ、と空を切る音がして、赤黒い細い糸がザップの体を簀巻にした。ぶらり、と天井から蓑虫のように吊るされる。

「テメこらクソフィッシュ! 血法をこんな私利私欲に悪用していいのか!」
「今こそ使うときだと判断しました」

 糸のようになった血液が、ザップの口元をぐるぐると覆う。いいぞいいぞー、と無責任に囃したて、しれっとソファに荷物を置いたフアナを、ツェッドがじろりと睨んだ。

「フアナ、座りなさい」
「ん? 今から座るけど……」
「座りなさい」
「え、何……」
「座りなさい」

 ツェッドさんブチ切れタイムの到来である。

 いつも飄然としたフアナであるが、激怒したツェッドを前にさすがに極めて慎重に言葉を選んだ。

「い、いやー全然覚えてないわー……ほんとにそんなこと言った?」

 酔っ払いのような台詞を言う。それがまたツェッドの逆鱗に触れたらしい。

「言いましたよ」
「そうなんだ……うっかりした……」
「うっかり? あなたの貞操観念はどうなっているんですか?」
「そんな寝言に貞操観念云々言われても」
「自分の体を大切にしようとは思わないんですか」
「丈夫だからなぁ」
「そういうことではないでしょう」
「やー……空気悪くするようなこと言っちゃったな……」

 ごめん、とフアナはレオの方に顔を向ける。参った、と言いたげな苦笑いを投げかけられた。レオもそれに苦笑で返す。

「いえ、全然、僕は気にしてないんで!」

 そもそも、フアナの言った事自体はさして気にかけていない。所詮軽口であるし、寝惚け半分の譫言である。ただ、それに激怒するツェッドがひどく恐ろしかっただけで。

「いいですか、言っていい冗談と悪い冗談があって、あなたはその垣根を反復横飛びしているような人ですけれど、今回ばかりは見過ごせない冗談でしたよ」
「そ、そこまで? まあ、うん、悪かったって」
「連携の重要な仕事なのに、風紀を乱すようなことを安易に口にするのはどうかと。ただでさえ存在するだけで風紀を乱す男がいるのに」
「私が全裸で街を練り歩いていても、ただ生きているだけのザップに風紀の乱し加減では負けると思うけど、ごめん」
「そもそもあなたには妙齢の女性であるという自覚が足りていないんですよ。まるで悪童のように跳ねまわってばかりで」
「うん、うーん、わかったって、ごめんって」

 ツェッドさんそのくらいで、というレオの制止は聞き入れられなかった。

「そういう闊達で自由な発想はあなたの長所ではありますが、それに人を巻き込むというのはーー」

 ツェッドのお説教を、フアナが片手で制した。フアナの掌が、ツェッドの口をぎっちりと覆う。むぐ、とツェッドの淀みない説教が途切れた。

「ーーそもそも、私がセックスの相手に誰を選び誘おうと君に口を出される筋合いがあるか?」

 ひぃ、とレオは口内で小さな悲鳴を漏らした。だからそのくらいでと止めたのだ。
 フアナは駄々っ子のような顔をして、ツェッドに向き直る。ツェッドの表情も一層険しいものになった。

「君が怒っているのは、不用意に性的な発言をしたことか、その気もないのにレオを誘ったことか、どっちだ」

 ツェッドがフアナの手を口元から引き剥がす。

「どちらも、です」

 ふん、とフアナは鼻を鳴らした。

「前者に関しては、君を不愉快な気分にさせたことは私としても残念だけど、話の流れじゃないか。売り言葉に買い言葉だろ。ここまで責められることか」
「あの馬鹿兄弟子と同レベルで言い返して恥ずかしくないんですか」
「ない。恥ずかしかったとして君に責められる謂れはない。君がザップを蛇蝎のごとく嫌っているからって私にまで強要するのか」
「そういうわけでは……」
「後者に関しては、あながちその気がないわけじゃない。寝惚けてたって、そんな残酷なことは言わない」

 レオは空のマグカップを取り落とした。ゴトン、ゴロゴロと音を立ててカップが床を転がる。レオはそれを拾う気にもなれなかった。このまま息を止めていたら、チェインのように溶けて消えられないだろうか。

「……は?」

 怒り心頭であったツェッドは一周回ってもはや冷静になったようで、ひどく空虚な声でそうとだけ言った。

「もしもレオが真剣に悩んでいるなら、やぶさかじゃないよ。そりゃプロほど手慣れてないけど、ヘルサレムズ・ロットの風俗街はレオには危険すぎる。お金もかからないしね。レオは妹さんへの仕送りでいつもかつかつだから」
「……本気で言ってるんですか?」

 穏やかな声でツェッドが問う。
 レオは己の膝をただただ眺めながら、時間が過ぎるのを待っていた。というか、僕が童貞だというのは決定事項なんだ、誰も疑義を挟まないけど……とぼんやりと考える。

「本気じゃないと怒られて、今度は本気だと怒られるのか。理不尽だなぁ」

 深々と、ツェッドが溜息をつくのが聞こえた。



 そうですか、わかりました。と、ツェッドは腕を組んだ。

「では、このことがクラウスさんの耳に入っても、あなたは勿論平気ですよね」

 ーーなんでクラウスさん?

 突然出てきた我らがリーダーの名に、レオは首を傾げる。

「やだ!!! だめだよ!!! なんでそんなこと言うの!!!」

 フアナは不遜にツェッドを睨み付けていた顔を完全な困り顔にして、引き攣るような悲鳴を上げた。その変わりように、レオも、簀巻のザップも目を丸くする。

「クラウスさんに有性生殖する未進化生物と思われるくらいならおまえを殺して私も死ぬからな!!!」
「もうそんな馬鹿げたことを口にしませんか?」
「しない! から! 言うな!」
「そうですか。それではこの話はおしまいです」

 ツェッドはやれやれと肩を落とし、ザップを拘束していた血法を解いた。どさり、とザップが床に落ちる。

「ぶえ、クッソ! マジおまえいつか泣かすわ!! あとフアナ! レオにヤらせるくらいならーー」
「ザップ」

 何を言うかだいたい予想できるザップの発言を、フアナは静かに遮った。

「そのことは二度と蒸し返すな。それがまた人の口に上ることがあった日には、ザップ、君の皮と肉を全て素手で毟りとる」

 顔が本気である。さらにそれが可能なだけの握力がフアナにはある。さすがにザップも口を閉ざした。

「一体なんなんですか、これ」

 疲れきった様子のツェッドにレオが問うと、ツェッドは苦笑気味に答える。

「フアナはクラウスさんが淑女扱いしてくださることにいたく感激しているんですよ。だから、その扱いに報いることが出来るよう、彼女なりに努力はしているようなのですが……」
「はー……」

 レオは吐息に似た相槌を打つ。

「フアナさんにとって淑女は無性生殖するものなんですか?」
「さあ、どうなんでしょうね。彼女の考えていることは分かりません」
「え! ツェッドさんにすら分からないんですか! 救いがないですね!」
「そこまで言わないであげてください……」

 そう言って困ったように笑うツェッドは、やはりどこまでも優しいのだろう。苦労するなあ、とレオは心中ツェッドに手を合わせた。