矮人






 キッチンは雑然としているが、最低限の調理器具と調味料はある。冷蔵庫の中に生鮮食品もそれなりにストックしてあった。生活力を一切感じさせないフアナであるが、自炊は苦ではないらしい。誰かと外食に行くとき以外は自分で食事を用意している、というのは嘘ではない。
 ツェッドはフライパンの上でじゅうじゅうと音をたてるフライドヌードルを皿に移す。
 フアナに影響されてか、最近、ツェッドも料理をするようになった。自分の部屋にはキッチンがないので、もっぱらフアナの部屋のキッチンに押しかけることになる。食材さえ持ち込めば、フアナは特に文句を言わない。たどたどしかった包丁使いも、今ではすっかり様になった。

 ツェッドはフライドヌードルの平皿を二枚手に持ち、ダイニングテーブルの方へ向かう。簡単にカウンターで区切られたキッチンのある独り暮らし向けの部屋は、狭くはないが広くもない。一人で暮らすには十分だが、二人いるのは折々に煩わしい。家具付きの寝室とダイニング以外は何もない賃貸物件だが、時空間転移式魔道装置を用いたレンタル倉庫を利用していて、大量の書籍や映像記録媒体、着替えや大切な物などの荷物は全てそこに預けているらしい。
 一度見せてもらったことがあるが、薄い壁に立てかけられたドアを開けると、向こうが霞むほどの空間にずらりと棚が並んでいた。いつ追い出されるか分からないから、いつ追い出されてもいいように、ということらしい。「四次元ポケットとどこでもドアの合わせ技みたいな」と言っていたのでネットで調べたところ、日本のアニメーションに出てくる夢の道具らしい。いつしかこの世界は夢さえ超越してしまった。

 皿を手にテーブルに近寄ると、フアナは中途半端に片付いたテーブルで本を読んでいた。おおかた、片付けの途中につい手に取った本に夢中になってしまったのだろう。ツェッドはテーブルの隙間に皿を置く。

「片付けておいてくださいと言っていたのに……」

 ツェッドが苦言を呈すると、フアナは本から顔も上げずにうんと生返事をした。

「出来ましたよ。冷めるでしょう」

 言うと、フアナはぱっと顔を上げる。

「え、もう? うわ、美味しそう」

 フアナは慌ててテーブルの上のものを空いたイスに下ろすとーーツェッドとしては、それを片付けとは呼ばないがーー温かい皿を自分の方に引き寄せた。

「食べていいの?」

 問うてはいるが、すでにフォークを手にしている。ツェッドも席につきながら「どうぞ」と言うと、フアナは早速食事に取りかかった。

「あ、おいし。ちゃんとフライドヌードルの味がする」
「レシピ通り作りましたから。あなたは炒めた中華麺にチリトマトソースをかけたでしょう」
「何で味付けすればいいかわからなかったんだよ」
「ウェイパー使っておけば大丈夫です」

 雑な中華料理論を口にしつつ、フライドヌードルを頬張る。店で買ったものほどのジャンキーさと油分は感じないが、ほどほどに美味しい。

「昔は、紛争地帯でも電話一本でチャイニーズデリバリーが来る、なんて言われてたけど、まさかヘルサレムズ・ロットでも中華料理が食べられるとはね」

 フアナはフォークを、ツェッドは箸を使う。

「この麺も、下のチャイニーズマーケットで買ったの?」
「ええ、ここに来る前に」

 フアナの住むマンションの一階は小さな店が軒を連ねるテナントで、まるで小さな商店街に大きなビルが捻れて覆い被さったような形をしている。おおよそ人間離れした異形が跋扈するこのビルで、純粋な人類はフアナとチャイニーズマーケットを営む老婆だけだ。

「あのおばあさん、よくやるよねえ、こんなところでさ。紛争地帯の方がまだマシだろ」

 フアナは首を振りながら呆れたように笑った。かの老婆の、年齢も知れぬ皺ばんだ顔を思い浮かべながら、ツェッドも同意する。
 ふ、と、片付けられた本や雑誌の山の上のポストカードにツェッドの目が止まった。絵画をプリントしたそれは、美術館の土産品だろう。その筆致や色合いから、おそらくバロック期の肖像画だ。
 豪奢な赤い上着にあしらわれたきらめく金の縁取りと繊細な白いレースの迫真性が、画家の力量を如実に物語っている。真っ直ぐにこちらを見るのは壮年の男だ。ただ、その体は、まるで子供のように小さい。その縮こまった小さな体に、大人の顔が据え付けられている。握りしめられたジャガイモのような拳と、人形のように放り出された短い手足が、その理知的な面差しに不釣り合いだ。
 絵の完璧さを見れば、それが画家の力量不足によるものだとは思えない。ドワーフィズムーー小人症の患者の肖像なのだろう。

これ、とツェッドが言うと、フアナはフォークを手にしたまま顔を上げた。

「あ、冷蔵庫に炭酸水があるけど」
「いえ、このポストカード」

 フアナはツェッドの示すカードを見て、ああと眉を上げた。

「セバスティアン・デ・モーラ」
「なんです?」
「その人」
「名前ですか?」
「そう」

 そんな友達みたいな紹介のしかたがあるか、とツェッドは思う。フアナは立ち上がり、冷蔵庫から青い瓶を取り出すと、栓抜きとグラスと共にツェッドに手渡した。ありがとうございます、とツェッドはそれを受け取る。

「400年前、宮廷の道化だった男の肖像」
「道化?」

 画布に留められた男の情熱的で理知的な眼差しは、道化という言葉にそぐわない気がした。

「当時の言葉で言えば、慰み者」

 ツェッドはゆっくりと記憶を辿る。伯爵の持っていた古い本の中の記述。慰み者と呼ばれ、犬猫のように愛玩された「他と異なる者」。
 ツェッドはポストカードを手に取り、その姿をまじまじと見つめる。確かにそれは「何者か」であった。じっとこちらを見つめる昏い目は、愚者でも、王の財産でもなく、確かに一人の人間のものだ。
 肉体と精神の、現実と理想の、そのあまりの隔絶が、それに対する暗い炎のような怒りが、ツェッドの掌に収まるような小さなポストカードから伝わるような気さえした。
 悲しい話だ。姿が違うというだけで、人間は人間をこういう風に扱えるのだ。
 ただ、人間を慰み者と呼ぶ時代において、彼を人間として、そのひりひりとした怒りごと美しい絵画に掬い上げた画家がいたことだけが、救いだった。

「私の好きな絵だよ。その絵はーー君に似てる」

 フアナは口元に笑みを刷き、青い瓶の蓋を開ける。ぱきん、と硬質な音がした。

「そうですか。僕は、あなたに似ていると思いました」

 暗い情熱を湛えた瞳が、強い生命力を感じさせる。その膨大なエネルギーを産んでいるのは、己の体に対するあてどない怒りだ。
 フアナは何も言わず、静かに目を伏せただけだった。それから淡く笑った。

 ツェッドはポストカードをフアナに返す。フアナはそれを受け取ると、本の山の上にひらりと置いた。

「いつか、君とこの絵を観に行きたい」

 フアナは言うと、ツェッドのグラスに炭酸水を注ぐ。ガスのはじける軽い音がする。ツェッドは次々浮き上がるそれを、ずっと見ていたいと思った。