Amnesia
深い海の底から浮上するように覚醒する。まだ霞む目をこすり、ぼうとしながら辺りを見回した。生活感のない白い部屋。おそらくは病室だ。とうとうその手の施設に収容されたのか、とフアナは手首に巻かれた心拍計を外した。
ベッドを立とうとすると、小さな痛みとともに引き止められる。腕の内側に点滴が刺さっていた。ぽつぽつとチューブを落ちてくる液体と、サージカルテープだらけの腕を見下ろし溜息をつく。
ドアの向こう、廊下の方から物音が聞こえたので顔をそちらに向ける。ドアが開き、男ーー男?ーーが入ってきた。フアナはぼんやりしたまま、こちらに向かってくる男を見上げる。
何に似ているとも言い難い不思議な顔付きで、全身は半透明の青い皮膚で覆われている。人間のような体付きで、人間のような衣服を着ているが、人間であるはずがない。ヒエロムニス・ボスの絵画に描かれる異形のように、グロテスクなのにユーモラスで、それでいて妙に綺麗な生き物だ。
腰を屈めた彼の顔を、フアナは両手で頬を挟んで引き寄せる。脆そうな半透明の皮膚は、冷たくて柔らかいが、見た目よりもしっかりしていた。
「私の想像力も捨てたものじゃない」
ひんやりと心地よく、美しく光を乱反射するそれを、ためつ眇めつしながら鑑賞する。男は困惑しきった様子でされるがままになっていた。フアナはリアルな感触に「ん?」と内心首を傾げる。
どんどん頭がはっきりしてくる。どうやら夢ではないようだ。フアナの顔は目の前の男ほどではないにせよ真っ青になった。
緩んだフアナの手から、男は抜け出していく。軽く首を振り、居住まいを正した。
「まったく、心配しましたよ」
「しゃ、しゃべった……?」
丁寧で綺麗な英語である。声も穏やかで優しい。しかし姿は半魚人だ。なんだこれ、とフアナは目を丸くする。男は怪訝そうにフアナを見下ろした。
「とうとう頭がおかしくなったんですか?」
なぜか見知らぬ半魚人に辛辣に物を言われた。フアナはこめかみを押さえる。半魚人の知り合いはいない。いや、いてたまるか。
奇妙な風体とはいえ、向こうはこちらを知っている。もしかするとそういう病の人かもしれないので「人間ですか?」と問うのはあまりに無礼だ。しかし「どなたですか?」と聞くのも憚られる。このインパクトのある男をそうそう忘れるわけもない。
もしかすると、本当に己の頭がおかしくなって、妙なものが見えるようになってしまったのかもしれない。
「……フアナ?」
男は探るように名を呼ぶ。フアナは観念して男を見上げた。
「すみません、どこかでお会いしましたか?」
男は大きな魚眼をさらに大きく見開く。
「ーーーー冗談きついですよ」
「いや、本当に、あなたみたいに印象深い方、一度会ったら忘れ難いとは思うんですけど」
フアナが言うと、男は「失礼」と一言言うと、小走りに部屋を去ってしまった。やはり無礼であったろうか、とフアナは頭をひねるが、どうしても記憶の中にあれほど奇抜な知人はいなかった。
******
フアナと面談した医師によると、フアナはこの三年間ーーつまり、大崩落からこちらーーの記憶を完全に失っている、とのことだった。回復する見込みは、と問うたスティーブンに、医師は「脳髄も臓腑も吹き飛んで回復する方が奇天烈なんだ。記憶が回復するかどうかなんて瑣末な問題だし、確かなことは何一つ言えない」と呆れ気味に答えた。
ライブラ事務所で「魚のことだけならまだしも、三年間の記憶が全く無いってのは厄介だな」と言ったのはザップだった。その口振りに、レオは「ちょっと」と責めるような目でザップを睨む。しかし「確かにそうですね」と答えたのはツェッドであった。
「記憶を失ったフアナに、紐育が異界と化したことから伝えますか? いまや超常の魔物や異形が跋扈し、世界は根底からひっくり返ったと?」
ザップは鼻を鳴らす。
「そんで、テメーは人類のためにバケモノどもと戦ってます、ってか? 腰抜かすぞ」
K.Kが指を立てた。
「誰か、その三年間の記憶を共有出来る相手はいないのかしら」
ツェッドが首を横に振る。
「職場の同僚くらいでしょう。それも入れ替わりが激しいので、三年となるととても……」
「家族は?」
「ヘルサレムズ・ロットには住んでいないようです」
参ったな、とスティーブンが額に手をやる。
「まさか今のフアナを外に放り出すわけにも行かない」
記憶を回復する方法が、ヘルサレムズ・ロットならば見つかるかもしれない、というのが一つ。もう一つは、フアナの体に存在しているであろう、ひ弱な人類を尋常を超越した身体能力と回復能力を併せ持つ強力な兵士と化す何らかの因子を、簡単に手放すわけにはいかない。たとえ地の果てまで逃がしてさえ、フアナの体質の秘密を暴こうとする者が現れない確証はない。
そうなれば、フアナは筆舌に尽くしがたい辛苦と共に、体を弄り回される。ライブラとしても、騒動の火種となりうる情報の塊であるフアナを、敵の手中に落とすわけにはいかない。その因子が人類に渡ったとしても、異界人に渡ったとしても、世界のパワーバランスは大きく崩れる。
「記憶が回復するのに一縷の望みを賭けるか、諦めて一から全てを学んでもらうかーー」
「しかし、記憶を失っていようと、フアナが我々の仲間であることには変わりない」
泰然と、だが断固としてクラウスが言った。鶴の一声である。スティーブンはやれやれとでも言いたげに肩をすくめたが、それだけだ。
「しばらくは様子見だな。フアナのことだから、数日もすればけろりと全てを思い出しそうな気もするけれどね」
スティーブンが言う。クラウスはツェッドの方に顔を向けた。
「ツェッド、君に、フアナに付いていてもらいたい」
ツェッドは、しかし……と言いよどむ。大崩落の記憶さえないフアナにとって、ツェッドは得体のしれない化物でしかない。フアナをいたずらに怖がらせるのは嫌だったし、何よりフアナに嫌悪感を抱かれるのが怖かった。
「同性で歳の近いチェインさんか、威圧感のないレオくんの方が……」
クラウスは憂いを見透かすように、静かにツェッドの目を見つめる。
「君はフアナの無二の親友だ」
「ーーそう、でしょうか」
少なくとも、今は違う。
「フアナにこの街のことを教えてやってはくれないか。出来れば、我々のことも」
ツェッドは己の足下を見つめながら、はいと小さく答えた。
病室のドアを開けると、フアナはブドウを摘んでいた手を止め、ふとこちらに目を向けた。
「ああ、」
と、フアナは声を上げる。
「さっきの」
フアナは既に着替えていて、入院着はベッドの上に放り出されていた。ツェッドはどう答えたらいいのか分からず、黙ってベッドサイドの椅子に座る。
ベッドに、大崩落を報じる3年前の新聞紙が数束、広げられていた。
「食べます?」
ひどく無造作にブドウを差し出される。
「さっき頂いたんです。色の浅黒い、派手な銀髪の男の人に」
ということは、これはギルベルトあたりが用意した軽食だろう、とあたりをつける。あの兄弟子がこんな気の利いたことをするとは思えない。
「勝手にブドウを半分くらいもぎ取って、俺も酒と薬で失った記憶を編集すれば3年分くらいになるわーって言って帰って行きましたよ」
兄弟子らしいといえば、らしい言葉だ。あれでフアナの状況を気にかけてはいるらしい。
フアナは困惑気な半笑いをツェッドに向けた。
「さっき聞きました。今は3年後なんだってーーいや、この言い方はおかしいかな。とにかく、私には3年分の記憶がなくて、その間に世界はえらいことになってたって」
ツェッドは目を伏せる。
何から伝えればいいのかーー、と独り言のように呟くと、フアナは首を傾げた。
「名前じゃないですか?」
「……はい?」
「君の、名前。君は私のことを知っているかもしれないけど、私は君と会って30分くらいなんですよね」
ツェッドは閉口する。3年の記憶を失っても、フアナは変わらず自由である。
「ツェッドです。ツェッド・オブライエン」
よろしく、とフアナは片手を差し出す。ツェッドはおずおずとそれを握った。
「さっきはごめんなさい。朦朧としてて、不躾なことを」
フアナが笑いながら言うので、ツェッドは先程顔を挟まれ引っ張られたことを思い出す。首をもぎ取られるかとーー文字通りーー思った。ツェッドは首に触れながら「いいえ」と答える。
居心地の悪い沈黙が続いた。フアナは窓の外を見下ろしている。深い霧が風に吹かれていくと、その切れ間に異形の姿が覗いた。それに興味深そうに見入るフアナの横顔を、ツェッドはぼんやりと見ていた。
ぱ、とフアナがツェッドの方を向く。
「もう一度触っても?」
「ーーーーだめです」
「そうですか。残念」
以前もこんなやりとりをした気がする。
「外へ行きますか?」
「え? ああ……本当に?」
ツェッドの提案に、フアナは少し不安そうに眉をひそめ、霧深い窓の外に視線をやった。
「案内しますよ。そのために僕が来た」
「ツェッドは、私の友人になる未来なの?」
「……すみません、なんですか?」
「ごめん、なんか、時系列がごちゃごちゃで。つまり、ツェッドは3年後の私の友人で、私の友人になる予定なの?」
ややこしい話である。ツェッドは首を傾げて、そうだろうかと考えた。
「友人ではないの? 同僚?」
「同僚ですよ。同僚で、友人」
さあ、行きましょう、と踵を返すと、フアナが小走りでついてきた。
「すごく失礼な質問かもしれないから、答えたくないなら答えなくてもいいんだけど、3年後のN.Y.には君みたいな人がたくさんいるの?」
「……いいえ」
ツェッドはそうだけ呟く。どう接したらいいのか分からず、ついそっけない態度になってしまう。ツェッドは溜息をついた。
「すみません、僕も少し……混乱していて」
フアナは肩をすくめる。
「わかるよ。友人がいきなり自分の事も分からなくなったら誰だって混乱する」
「いやに冷静ですね」
「実感がわいていないだけだよ。寝て起きたら、3年が過ぎていて、紐育に……いや、元紐育に住んでいて、周りは知らない人ばかりで、しかも何? 街が魔界? 魔法? 怪物? もう何か考えることすら面倒くさい」
その口振りは確かにフアナのもので、ツェッドはほんの少しだけ安心した。
ツェッドは病院のエントランスを出る。ごう、と風の音とともに、ムカデのように無数に足の生えた巨大なヤモリが目の前を猛スピードで通り過ぎて行った。
目の前を地響きさえたてながら疾走していく奇妙な生物を見て、フアナは呆気にとられて立ち尽くす。
ねじくれた街並み、見慣れぬ文字の看板、街行く不気味な生き物が一度に目に飛び込んできて、脳の処理能力を超えたのか、頭がくらくらしてきた。
フアナを追い越しかけた蛸を逆さまにしたような生き物が、後退るフアナの肩にぶつかる。
「おい! 気をつけろ!」
フアナはその姿を口を開けたり閉じたりしながら見送った。
「……水棲生物が地上に」
「僕を見ながら言わないでください」
「君の……その、親戚か何か?」
「厳密に言えば違いますが、今のあなたには似たようなものです」
フアナは両の目を掌で塞いだ。
「いやいや……うそでしょ……」
呟くフアナの肩に、ツェッドの手が置かれる。
「ようこそ、ヘルサレムズ・ロットへ」
声音に面白がっているような響きがあったので、フアナはツェッドを見上げ、軽く睨みつける。
「ほんの少しは、ドッキリか何かだと期待していたんだけどね」
ツェッドは肩をすくめた。
「でも、ドッキリはしたでしょう?」
「心臓止まるかと思った。……本当にドッキリじゃないの?」
「ええ、これが3年後の現実です」
3年後の現実ーーと、フアナは口中で反芻する。目の前の光景を馬鹿げていると思う気持ちと、信じざるを得ない気持ちが綯交ぜになって、どうしようもなくなる。出来るものならこの場で今すぐ失神したいくらいだが、そうもいかないので堪えるしかない。
フアナは思わず震える指でツェッドの指先を握る。怖いくらいに鋭い爪が生えているが、この現状に比べれば、物の数にも入らない。だが、ツェッドはほとんど仰け反るようにして驚いたようだった。
「な、なんですか!?」
「むりむり手繋いでて」
「どうして!?」
「いや、どうしてって聞く? この状況で?」
フアナの傍らを歩いていた、人型の蟹ーー何を言っているか自分でも分からなくなるが、そうとしか形容できないーーが、巨大なイナゴに踏みつぶされたところだった。フアナの靴を蟹味噌が汚す。ひえ、とフアナは悲鳴を噛み潰した。
見かねたのか、ツェッドはフアナの手を握り返す。無骨な爪に似合わず、優しい手付きだった。
「あなたにも人並みに怯える神経があったんですね」
「3年後の私はいったいどうなってるんだ……」
「蛸は駄目で魚はいいんですか?」
「地元ではどちらも食べるけど」
精一杯の冗句を口にするが、声が掠れている。
ツェッドは歩きながら、フアナの手を引いた。
「道を選びさえすれば、危険だらけというわけでもないんですよ。ーーそもそも、あなたはそうそう死なないでしょう」
フアナは眉をひそめた。死なないことはないだろう。フアナの顔を見たツェッドが、怪訝そうな顔をする。
「あなたの、その体質ーー」
ああ、とフアナは呻く。
「3年後の私は、このことも君に話していたんだ」
「ええ、意外ですか?」
フアナはふと視線を落とし、それからツェッドの方を見て首を横に振った。
「んー、これほど奇妙な街でなら、私もそんなに奇妙じゃないのかな」
そうであってほしい。きっと未来の自分は、それを願ってここに移住したのではないだろうか。
ツェッドが帽子屋ーー指先ほどの小さいものから、いくつも穴の空いたものまでショーウインドウに並べられているーーのある角を曲がった。腕を引っ張られ、フアナは慌ててそちらに方向転換する。
「そうですね。悪目立ちはしませんが、半身吹き飛んでも死なない人類はやはり奇妙ですよ」
聞き捨てならないフレーズがあった。いや、聞き間違いかもしれない。
「半身吹き飛ぶ?」
それは、隠語か何かなのだろうか。
ツェッドは思案げに黙りこみ、申し訳なさそうにフアナの方を振り返る。
「……まだ知らなかったんですか?」
「知らなかったよ。普通に生きていれば半身吹き飛ぶような機会ないし」
今のところ人生最大の危機は、乗用車に思い切り撥ねられて5mほど飛んでいったのに無傷だったことくらいだ。正確には無傷ではない。骨が折れた音がしたし、内蔵も破裂しただろうし、あちこちから血も出た。だが、地元では奇跡としてちょっとした有名人になってしまった。
「……よくそれでヘルサレムズ・ロットに来ようと思いましたね」
「そんなこと、今の私に言われても」
思うに、半ば自暴自棄だったのではないか。フアナは苦笑いする。
奇妙で信じ難い未来ではあるが、己のこの奇異な体質を隠し通す必要がないだけフアナにとっては上等だ。生まれてこの方世間に馴染む努力を欠かさず、息を潜めて生きてきたのだ。未来の己は、異形渦巻く魔都を見て多分何もかも嫌になったのだろう。自分のことだから、手に取るように分かる。
「ねえ、どこに向かってるの?」
「座れるところへ。あなたがよく利用していた喫茶店にでも行こうかと考えていました」
「この街で人間の食べられるものがあるんだ」
フアナは道端のホットドッグスタンドで売っているホットドッグのパンからミミズのようなものが飛び出し、通行人に襲い掛かっているのを眺める。
フアナはツェッドを見上げた。同僚で友人と名乗るこの男は、抑えた口振りの割に、己が失った記憶と奇妙な街並みに混乱する姿を見ては、失望したような、悲しいような顔をする。
そういう顔をされても困る。こちらとしてはタイムトラベルでもしたようなものだ。だが、何故かひどく、悪いことをしたような気分になる。
「ごめん」
とりあえず謝っておくと、ツェッドの手が強張るのが分かった。
「何も覚えていなくて、ごめん」
「謝るようなことではないでしょう」
「……そうなのかな? まあ、うん、そうなんだろうけど」
謝りたくなったのだ。自分でもよく分からないが。
「そういえば、どうして記憶が無くなったの? 頭を打ったとか?」
何気なく問うと、ツェッドは一瞬言い淀んだが、さらりと答えた。
「頭部を丸ごと吹き飛ばされたんですよ」
「……は?」
「いつものあなたなら、頭の一つや二つ飛ばされたところでどうということはないのですが、今回は重傷を負っていましたからね」
「まじで? 頭飛んでったの? ぽーんと?」
「肉片も残らないほど吹き飛ばされたので、ぽーんというよりはバシャッて感じでした」
「なにそれ? この街にはミキサーのゾンビがいるのか?」
「まあ、その話は追々しますよ。とりあえず、入りましょう」
ツェッドが示したのは、裏通りにひっそりとある寂れた喫茶店であった。
異界人向けの謎のメニューを頼んでもいいかと尋ねるフアナをなんとかして押し留め、ツェッドはコーヒーを2杯頼んだ。
コーヒーが運ばれるまで、きょろきょろとあたりを見回すフアナを眺める。確かにフアナであるのにフアナではなくて、なんだか変な気分だ。ツェッドの知っているフアナは大抵のことでは驚かないが、目の前のフアナはツェッドに驚き、街並みに驚き、異界人に驚き、と目まぐるしい。嫌だと思うわけではないが、なんとなく落ち着かない。
「……気分はどうですか?」
あたりを見回すのにも飽きたらしいフアナにそう声をかけると、フアナは視線をツェッドに向けた。
「気分?」
「ええ、大丈夫ですか?」
「どうだろう……体調は普通だけど、でも元気いっぱいかというと、そんなことはない。記憶もないし、混乱もしてる」
それはそうだろう。馬鹿げたことを聞いてしまった。会話が続かないツェッドのかわりに、フアナはテーブルに肘をつき、それに寄りかかりながら眉根を寄せた。
「人生のネタバレをされた気分だ。3年後のことなんて、別に知りたくなかったよ」
そういうものだろうか。ツェッドは古びた木のテーブルの、艶やかな表面に目を落とす。フアナは皮肉げに笑った。
「今の私は順風満帆ーーってほどじゃないけど、大学卒業の目処がたって、大学院に通いながら雇ってくれる研究施設にインターンに行ってるとこ。自分の体のことを研究する、っていうのは、まあ、半分諦めてるけど、半分は諦めてない。でも、3年後の私がここに住んでいるってことは、全部諦めて投げ出しちゃったってことでしょ? まさか、ここで何か研究してる?」
ツェッドは言葉に詰まる。本当のことを言うか、嘘をつくか迷ったが、観念して首を横に振る。そうだよねぇ、とフアナは気の抜けた声で答えた。
「いいけどさぁ、別に。私の、この努力と苦労は3年後には無駄になってるわけね……」
「無駄ということはないでしょうけど」
フアナは溜息をついた。
「ああー、じゃあもう来週のプロフェッサー・ラーマンの試験さぼっちゃおうかなぁ」
「正確には3年前の来週ですけどね」
「そっか。ややこしい」
ツェッドはフアナの顔を見つめる。フアナとふと目があったので、慌てて逸らした。疚しいことがあるわけではない。しかし、体がとっさに動いてしまう。
フアナが浅く息を吐く気配がした。あのさ、とフアナが話を切り出す。
「私は間違いなくフアナだけど、多分君の知ってるフアナとは違うんだと思う。このまま3年経っても、君が望む私にはなれないかもしれない」
ええ、とツェッドは頷いた。そんなことは分かっている。だが、それが怖かった。
「でも、私は私なんだよ。基本的に趣味嗜好は変わらない。さっき携帯見たら、君とのメッセージのやりとりと、君と遊びに行った写真ばっかりでちょっとひいた。君ら仲良すぎない? いや、私なんだけどさ。ーーだから、多分、私も君を好きになる」
ツェッドは手の甲を見つめる。フアナのものとは違う青い手の甲だ。
フアナの言葉は、記憶を失ってさえ直截だ。かつて姿形の違う己に躊躇せずフアナが手を差し伸べたように、己も記憶を失った彼女に手を差し伸べるべきではないか。
多分、それは彼女が己にしたことよりも、もっとずっと簡単なはずだ。
「というか、もう結構好き」
「……はい?」
「きれいだし、優しいし」
「は?」
「青いし」
「馬鹿にしてます?」
してないよ、とフアナは勢いよく手を横に振る。ツェッドはその手を取った。緊張したように強張る手を、両手で包む。ツェッドは俯き、その手を祈るように額のあたりに寄せた。
「すみません、僕も混乱して、素っ気ない態度になってしまって」
「仕方ないよ、私だって混乱してる」
「僕があなたに惹かれたのは、僕とあなたが、似て非なる孤独を抱えていたからで、」
「ーーうん」
「僕の孤独に触れられるのは、あなたしかいないんです。たとえ、記憶がなくとも」
「うん」
「だから、もし、あなたが嫌でなければ、ーー僕ともう一度、友人になってはくれませんか」
一息に、それだけ言う。ツェッドの手が緩く握り返されたが、答えはなかった。ツェッドが恐る恐るフアナの顔を上目遣いに見ると、フアナは口をぽかんと開けたまま、無表情で宙を見ていた。
「ーーフアナ?」
「ごめん、思い出した」
フアナが何を言っているか分からず、ツェッドは硬直する。
フアナは先程と変わらぬ顔に、ほんの少しの外連味を滲ませた表情をしていた。それを見て、ツェッドは膝から崩れ落ちそうになる。
それは、完全にツェッドの知るフアナの表情だった。
「……フアナ?」
「いやっ、ごめん、ほんとごめん! わざとじゃないんだって、このタイミングは! 本当に今! まさに今思い出したの!」
握っていた手を、深い溜め息とともに己の額に押し当てる。強く握ると、フアナは小さく呻いた。
「ツェッド、痛いよ」
「まったく、どうしてあなたはいつも僕に心配ばかりかけるんですか?」
「わかんない。趣味なのかな?」
いつもは抗議する軽口も、今はただ嬉しい。
「ほんとに、あなたは……あなたって人は……」
フアナはツェッドに握られていない方の手で、ツェッドの頬に触れ、にやりと笑った。
「ただいま、ツェッド」
「おかえりなさい、と言うべきですか?」
「さあ?」
コーヒーが運ばれてきたので、フアナの手を開放する。フアナはコーヒーカップを受け取ると「ブレンドコーヒーじゃなくて紅茶がよかった」と嘯いた。
ツェッドはカップをソーサーから取り、顔の前に掲げる。
「では、フアナの記憶が戻ったことを祝して」
「そして我等の新たな友情に?」
フアナは茶化して片目を瞑って見せた。
ツェッドは急に恥ずかしくなり、フアナを睨む。フアナは肩をすくめた。
「そんな顔するなよぅ。嬉しかったんだから、はい乾杯」
かちん、とカップが硬質な音をたてる。喫茶店は相変わらずヘルサレムズ・ロットにしては静かで、薄暗い店内に霧で拡散した陽光がさしていた。