Un poco!!
事務所のドアが静かに開いた。現れたのは、破れたシャツを着て、疲れきった顔をしたフアナと、フアナに背負われたボロボロのザップだった。
フアナの洋服が破れているのも、ザップが満身創痍なのも、大して珍しいものではない。だが、二人同時に、さらにザップがフアナに背負われているとなると話は別だ。留守番をしていたレオとツェッドは言葉を失い絶句する。
フアナはソファにザップをひょいと放り出し、自身もソファに腰掛けた。
「あ、ボタン取れてるじゃん……」
破れたシャツを引っ張りながら、フアナは溜息をつく。
「いやいや、ボタンはいいですよ。いったい何があったんですか」
もはや聞くのも馬鹿らしい気もするが、とりあえずレオは聞いてみる。フアナは嫌そうな顔をして、あーと言葉を濁した。
「ザップと外歩いてたら、知らない女の人にシャツを破られた」
「え、ええ……?」
大丈夫ですか? と問うと、シャツがゴミになったとうんざりした様子で返される。レオは何も言わないツェッドをちらと見た。
「どうしました?」
視線に気付いたツェッドはレオの方に顔を向ける。
「いや、ツェッドさんはフアナさんのこと心配じゃないのかなって」
「レオくん、フアナは心配したってしょうがないんですよ」
「ああー……」
フアナと仲が良いだけ含蓄がある。とにかくフアナはトラブルメーカーというべきか、巻き込まれ体質というべきか、話題には事欠かない。レオに言わせれば、その極端に頑丈な体質ゆえに、フアナは危機察知能力が死んでいるのだ。
近道だと言っては、視認できる地雷原をスキップで渡るような人間なのである。比喩ではない。先日、本当にやっていた。
事の次第はこうである。フアナは街を歩いているときに、運悪くザップに出くわした。
「おう、フアナじゃねーか。金貸して」
開口一番これである。フアナはそれを黙殺した。
「あっ、テメコラ人体模型! 先輩を無視とはいい度胸じゃねえか!」
すたすたとフアナはザップを避けて通り過ぎる。
「おい、」
「ちょっと……」
「無視すんなよぉ!」
徹底的な無視がよほど堪えたらしい。ザップは半分泣きの入った声を上げて、がばとフアナの腰に腕を回してしがみついた。しかしフアナも歩みを止めない。フアナにしてみればザップ一人を腰にぶら下げたところで、ちょっと邪魔で派手なマスコットくらいのものである。
ギャリギャリギャリ、とザップの靴底が物凄い音をたてる。ぶすぶすと煙さえあがっている。
「ぅあちゃちゃちゃ、燃える! 靴が燃える!」
「お、カグツチ?」
「ちげえよ! 第一声それかよ!」
「斗流血法カグツチ鉄血草履?」
「変な名前つけんな!」
本格的に焦げ臭いにおいを放ち始めたザップを、人体自然発火現象ーーここではさして珍しい現象ではないーーかと、通行人は遠巻きにする。その中で、足取りからすでに激しい怒りを滲ませる女がつかつかと二人に近寄ると、ヒールの高い華奢な靴で、思い切りザップの腹を蹴飛ばした。
勢い余ってぽーんと飛んでいく靴を、フアナは呆気にとられて目で追う。無惨にも地面に叩きつけられ、ごろごろと転がる靴を見て、フアナは思わずそれを拾い上げた。
「ザップ!!! この腐れ×××!!!」
不意打ちを喰らい、もんどり打って地面に転がるザップの股間に、女は裸足とはいえ全力でサッカーボールキックをきめる。ザップは声にならない悲鳴をあげ、白目を剥いた。泡までふいている。
次いで女は鬼の形相でフアナの胸倉を掴みあげた。あまりに強い力で掴みかかられたので、フアナのシャツはぶちぶちと糸の切れる音をあげる。だが、すぐ思い直したのか、女はふんと鼻を鳴らして手を離した。
フアナの鼻先に指先を突きつけ「こんなクソ男と一緒にいるとあんたまでクソになるわよ!!」と言う。ぐうの音も出ない。全くその通りだ。
女は地面で丸くなるザップの背に蹴りを入れ、フアナの知らない言葉で痛罵すると、トドメとばかりに唾を吐きかけ、フアナがおずおずと差し出す靴を受け取り、足音も高く去って行った。
まるで嵐のような出来事になすすべもなく立ち尽くしたフアナは、とりあえず足元で痙攣するザップをどうにかしようと担ぎ上げ、今に至る。
それを聞いたレオは「そんな人、置いてくればよかったのに」と言い、ツェッドも深く頷く。
「見下げ果てたゴミですね」
「き、聞こえてんぞ……魚」
切れ切れとザップがソファからツェッドを睨む。
「お、おれの……おれのマグナムは無事か? 陰毛頭、ちょっと見てくんねー?」
「誰が陰毛頭だ! ぜってーイヤだよ!」
ほんとなんでこんなクズ拾ってきたんですか! とレオがフアナに抗議すると、フアナは、んーと首を傾げた。
「でもさあ、本当のクズ男は、ああいうキーって怒るタイプの女の人は選ばないんだよ」
なんすか、それ? とレオは訝しげな顔をする。フアナは続けた。
「極限にクズな男は、裏切られても何も言えない女ばっかり引っ掛けるんだよなぁ。それに、彼女がああやって怒ったってことは、少なくとも彼女はザップの愛情を信じていたわけで、ヤリ部屋とかいうしょーもない名前の部屋を持っている割に、そのときは愛を囁いてたりするのかと思うとめっちゃウケる」
「ウケますか?」
「ウケるよ」
「フアナさんの笑いどころがよくわかんないんすけど」
「なんでだよ! 面白いだろ! 笑えよ!」
「そんな無茶苦茶な!」
レオは天井を仰いだ。フアナは真剣な顔で「ザップをクズだと言うのは語弊がある。果てしないアホだと言うべきだ」と言った。どちらにせよ悪口だ。
フアナはうふふと笑うと、テーブルの上に置きっぱなしだったレオの携帯ゲーム機を手に取った。レオは血相を変えて「ストップ!」と声を張り上げる。フアナは素直に、中腰でゲームを片手にしたまま硬直する。
「え、なに?」
その姿勢のまま上目遣いにこちらを伺うフアナに、レオは気まずげに目を逸らした。
「あ、いや……そのゲーム、買ったばっかりで」
で? と固まったまま問うフアナの肩を、ツェッドが2度叩いた。
「つまり、あなたに握り潰されたくないってことですよ」
それを聞いたフアナはしばらく同じ姿勢のままであったが、合点がいったのかソファに座り直す。
どういう加減をしているのか聞いたことはないが、フアナが誤って物を壊したり人を傷付けたりしたのを見たことはない。だが、血界の眷属と真正面から殴り合うフアナの姿が目に焼き付いているばかりに、咄嗟に制止してしまった。
「こんにゃろレオ、二度とゲーム出来ないように君の手の方を握り潰してやろうか」
フアナはゲーム機をレオに投げ返す。レオは慌ててそれを受け止めた。
「ちょっと! 投げないでくださいよ!」
「窓の外に思い切り遠投してもよかったんだぞ」
「ひえ、さーせん」
フアナは唇を尖らせ、レオを睨む。レオはその視線から逃げるように話題を変えた。
「フアナさんは、ゲームやらないんですか?」
「やるよ。モータルコンバット」
「な、なんでモータルコンバット?」
「人間が簡単に千切れるの、あるあるじゃん?」
「フアナさんだけですよ」
「あと、八つ裂きになったキャラが次のステージで復活してるのを見ると安心する」
「闇が深い!」
騒ぐ二人を尻目に、ツェッドはソファでぐったりと寝そべったままのザップを覗き込んでいた。
「しかし、この兄弟子は本当に女性が途絶えませんね」
レオが顔を上げる。
「ね、クズなのに」
「クズ中のクズなんですけどね」
ねー、とレオとツェッドは首を傾げあう。フアナがふふんと足を組んだ。
「わはは、モテなき民どもよ、ザップがモテるのはクズだからさ」
「何言ってるんですか、あなたにだけはモテを語ってほしくないです」
「君はそう固いからモテないんだよ」
「僕は固いとか柔いとか以前に、半分魚なんでモテないです」
「お、その開き直りは嫌いじゃないぞ」
フアナは笑う。
「ザップはあんまりクズだから、女の人は私がついてあげなきゃって思うんだよ」
「それは一般的な意見ですか? それともあなたの意見?」
「どうかな? どっちだと思う?」
「後者ですかね」
「ほんとに?」
「ええ、あなた、たまに物凄い目であの人のこと見てるでしょう?」
「そう。私はきれいなものなら何でも好きだからね。ザップの尻も好き」
ソファでのびていたザップがうええと奇妙な声をあげる。ゾンビのようにソファから体を起こしたザップがフアナを指差した。
「気味悪いこと言うな。……あ、、でも、おめーとならエグいSMプレイも出来るよな」
しれっとザップは下劣な発言をする。フアナは楽しそうに口の端を上げた。
「ザップの尻に火の付いたロウソクを挿そう」
「やめろ! 」
「カグツチ」
「てめ、カグツチ馬鹿にしてんのか? やんのかコラ」
「私情でシナトベ贔屓なんだ」
ねー、とツェッドを見上げるフアナに、ツェッドはやれやれとばかりに首を横に振った。
フアナはぐるりとザップの方に向き直る。
「そんなにいっぺんに何人もの女の人の相手して、疲れない?」
「あ? 疲れっけど、大事な収入源だかんな」
それを聞いたレオは「うっわ、ミラクルクズ」と呟いた。
「やっぱり疲れるんだ……私も疲れたな。ランチ食べに行く人!」
ぱ、とフアナが手を挙げながら言う。レオとツェッドも手を挙げる。ザップも手を挙げたので、フアナは胡乱げにザップを睨んだ。
「君は文無しだろ」
「レオ、金貸して」
「ノータイムで俺に金借りようとすんな! 少しは迷え!」
フアナは破れたシャツの上から上着を着て、ザップを振り返る。
「ザップは留守番ね。誰か残ってないとまずいし。それじゃね」
フアナはすたすたとドアの方に向かう。レオはツェッドに耳打ちした。
「フアナさん、ザップさんの扱い上手いですよね」
というか、何者にも退かないキングオブチンピラのザップが、フアナ相手にはどうにも押し切れないところがあるように見える。
ツェッドは肩をすくめて答えた。
「クズと奇行種は相性が悪いんですよ。兄弟子は常識の枠から外れたクズですけど、フアナはそもそも常識の枠が存在しない奇行種ですから、分が悪い」
「な、なるほど……?」
説得力があるようで、何を言っているのかよく分からないが、レオは頷いておいた。