おんなじさびしさ




 その日、ケインの小さな胸は喜びで満ちていた。金曜日の放課後、校舎裏の乗降場に向かう足取りも軽い。一緒に帰ろうよ、と声をかけてくれる友達には、あえてクールにこう答えた。

「今日は、マ……かーちゃんが映画観に行こうって言うから」

 全速力で乗降場に走るが、見慣れた母の車は見当たらない。早く来すぎてしまったのか、それともまた仕事が入ってしまったのか。ケインの心が少し曇る。
 停まっている車を1台1台眺めていると、黄色いコンパクトカーのウインドウが開いた。

「君、ケイン?」

 知らない女の人だ。携帯端末で何かを確認しながら、ケインに声をかけてきた。

「君のお母さんの代わりに来たんだけど」

 ぎゅ、とケインは拳を握る。涙が滲むそうになるのを、唇を噛んで堪えた。

「知らない人には付いていくなって言われてるから……」
「ああ、そうなの。フアナ。よろしく」

 窓から手を差し伸べる。ケインは手を後ろに回したまま黙って首を横に振った。フアナはしばらく困ったように手を宙ぶらりんにしていたが、思い出したように携帯端末をタップする。

「フアナですけど、ーーーーああ、はい、すみません。いえ息子さんがですね、知らない人には付いていかないとーーああーはい、いや躾がよろしいことで、じゃあスピーカーにしますよ」

 はい、と携帯を差し出される。スピーカー通話にされた端末から、ドーンと大きな音が聞こえた。ケインはびっくりして目を丸くした。

「マ、ママ?」

ーーああ! ケイン! ごめんね、ママちょっと仕事が

 再び奇妙な破裂音。

ーー仕事が、立て込んでてね

 男の人の焦ったような声が聞こえて、それに対して母が「今電話中!」と怒鳴る声が聞こえた。

ーーその人、フアナっていって、ママの知り合い。変な人だけど、良い人だから、今日はフアナとデートしてあげて!

 バタバタバタ、と大勢の足音。ケインの答えも待たずに「それじゃあ、切るわね。ごめんね、愛してるわ」と母の声。こちらに向けられた通話画面が、待受画面に戻る。

「ね、良い人だって」

 フアナは片眉を上げてニヤッと笑った。

「変な人だって言ってたけど」
「難しいよね、普通に生きるのってさ」

 フアナは窓の縁に掛けていた手で、ドアをとんとんと叩く。乗って、と言われ、すっかり毒気の抜けたケインは言われるままに助手席に乗り込んだ。
 運転席のフアナをちらりと盗み見る。フアナは映画館のチラシを見ていた。裏通りにある小さな映画館で、珍しい映画や古い映画を上映している。

「あ、あのーー」
「なに?」
「ミズフアナ……」
「フアナでいい。子供に敬意を示されて喜ぶほどアホじゃない。ついでに、私はMissだよ。興味ないだろうけど」

 そういうものだろうか、とケインは首を傾げる。それから、いやいや、と気を取り直した。いちいちこちらの気を削いでくる人だ。

「家に帰る」
「映画観たらね」
「違う。今、帰る」

 ぶっきらぼうにそう言う。叱られるかな、とフアナを見ると、フアナは心底不思議そうな顔をしていた。

「なんで?」
「な、なんでって……」

 ケインは口ごもる。父や母や学校の先生ーーケインのまわりにいる大人は、ケインの気持ちをよく分かってくれる人ばかりだった。優しく寄り添ってくれて、素直になれないこともあるけど、ケインは彼らを愛している。
 だが、今、心底不思議そうな顔をして「なんで?」と問われ、ケインは困惑した。

「ママ、来られないし」
「そうだよ。だから代わりに私が来た。流石に子供を夜の映画館に一人で放り込むわけにはいかない」
「……フアナにも、迷惑だし」
「いや、ブリームン好きだから。監督の舞台挨拶とブリームンとの撮影会がある映画のチケットがあるって言われたら、是が非でも行くよね」
「えっ、ブリームン、好きなの?」
「うん」

 おお、ブリームン、ブリームン、勇気の旗ー、とフアナは調子外れに歌い出す。
 その歌があまりにもめちゃくちゃな音程だったので、ケインは思わず吹き出した。

「フアナ、歌下手すぎ!」
「そうかな? そんなことないでしょ?」

 チョコミント大好き勇気のブリームン、と続きを口ずさむ。やはり、音痴だ。

「変なの、大人なのにブリームン好きなんだ」
「大人でも子供でも、素晴らしいものは素晴らしいと思っていいんだよ」

 シートベルト締めた? と、フアナは言うと、車のエンジンをかけた。車は少し動いて、ガクンと止まる。フアナはああと溜息をついた。

「エンストした。急だったから、マニュアル車しか借りられなかったんだ」

 フアナがレバーをがちゃがちゃといじると、車はのろのろ発車する。大丈夫かなぁ、とケインは少し不安に思ったし、なんだか物凄く強引に誤魔化された気もした。




 フアナに連れられたお店はケインも行ったことのない店で、夕暮れ時の店内は仄明るい光で満ちていた。店内に子供は一人もいないので、ケインは緊張して縮こまる。

「ごめん。自分が来たい店に来ちゃった」

 言いながら、フアナは席につく。ケインもおずおずと背の高い椅子によじ登った。

「この辺詳しくないしさぁ、適当に調べてきちゃったんだよね」

 メニューをケインに差し出す。ケインはそれを受け取りながら、フアナの顔を見上げた。

「近所に住んでないの?」
「うん、この辺は初めて来た」
「どこに住んでるの?」
「うん? うーん……」

 何故か言葉を濁す。隠されると一層気になって、ケインは身を乗り出した。

「どこ? 教えてよ」
「んー、ヘルサレムズ・ロット」

 口にした地名があまりに意外だったので、ケインはそれが自分を誤魔化すための嘘だと思った。

「うっそだー! 本当はどこ?」
「うそじゃないよ」
「ヘルサレムズ・ロットなんか住めるわけないよ」
「本当だって」
「ふーん、じゃあ、そういうことにしとく」

 本当のことを教えてくれる気はないのだろう。ケインは諦めて椅子に座り直す。フアナは曖昧に笑って、テーブルに肘をついた。指先がメニューを追う。

「チキン・パプリカッシュ、これ!」
「変な名前」
「へへ、一回食べてみたかったんだ」

 ケインもメニューを見るが、知らない料理の名前ばかりだ。ハンバーグも、フライドチキンも、マカロニチーズもない。何かよく分からないものを頼むのも怖く、どんな料理かを聞くのも気恥ずかしい。背伸びするような気持ちで、正体の分かりそうなサケのオムレツとシチューを頼んだ。
 注文を終えると、フアナはのべつ幕無し話し続けた。ケインの母のこと、ケインの学校のこと、隣の部屋に住んでいるおかしな隣人のこと、オーブンを焦がしたこと……大体どれも面白おかしくて、ケインはさっきまでむくれていたことも忘れて、涙を流しながら笑う。
 フアナがケインくらいの年齢のときに、サマーキャンプのリーダーと大喧嘩をして家まで100km以上歩いて帰ろうとし警察に保護された話を聞いて、ケインはひとしきり笑い、涙を拭った。それから、気になったことをふと聞いてみる。

「ねえ、フアナ。フアナってコイビトいる?」

 フアナは怪訝そうな顔をしたが、首を横に振る。

「いないけど」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「いたら、金曜日の夜は暇じゃないんだよ」
「そうなの?」

 フアナは店員に合図し、ガス入りの水を頼んだ。

「うん。金曜日の夜はコイビトと過ごすから」
「えー、金曜日の夜はだいたい友人といるけどね」
「どんな人?」
「魚」

 ケインは、また冗談かとフアナの顔を見つめる。いたって真面目な顔をしていたので、ケインは思わず目を丸くした。

「フアナ、ペットをトモダチとか言い出したらヤバイってTVで言ってた」
「ペットじゃないよ、失礼だな」

 フアナは店員から水のボトルを受け取り、2つのグラスに注ぐ。片方をケインの方に押して、片方に口を付けた。
 友人は魚で、ペットでもなくて、じゃあどういうことなんだろう、とケインは首を傾げる。

「泳ぎが上手いの?」
「上手いよ。信じられないくらい上手い」
「だから”魚”なの?」
「魚だから上手いんだよ」

 よく分からないが、とりあえず頷いておく。

「その人とは、仲良いの?」
「良いよ、多分ね」
「どういう人? フアナみたいに面白い人?」
「面白い人だとは思うけど、私とは似ても似つかないなぁ。真面目で、きちんとしてる」
「でも魚なの?」
「魚だよ」

 どういう人なんだろう、とケインは想像する。真面目で、きちんとした人で、多分フアナと同じ年くらいの女の人だ。きっと、音楽のパム先生みたいな人だろう。
 でも魚なのか、とケインは考え直す。想像の中のパム先生の首から上が、魚に変わった。それはおかしい。

「全然、どういう人か分からない」

 フアナは肩を揺らして笑った。

「どうしてそんなに知りたいの?」

 どうしてだろう、とケインは思う。ただ、この不思議な大人のことをもっと知りたいと思ったのだ。破裂したアップルパイや、引っ越したその日に床が抜けたこと以上を知りたいと思った。

「面白いから」

 だが、そんなことを口に出来るわけもなく、そうだけ言う。そのとき、ウエイターがケインの前にサケのオムレツのとシチューを置いた。オムレツは淡い照明の下で黄金色をしていて、シチューも美味しそうな香りがする。フアナの前にはオレンジ色のソースがかかったチキンが運ばれて、フアナはフォークに手を伸ばす。
 それを小さく切り、口に運びながら、フアナは切れ切れと友人の話をした。

「どんな人か……そうだなあ、きれいな人だよ」

「優しくて、強いけど、寂しがりやだ……うん、あと、たまに、口煩いかな」

「趣味は大体合うんだけど……彼の服の趣味はよく分からない」

 オムレツを突きながら聞いていたケインは、はたと顔を上げる。

「男の人なの?」
「そうだよ」

 ケインは混乱する。頭の中の魚のパム先生が、男の人になった。シチューを口にし、首をひねる。

「それって、コイビトじゃん」
「そう?」
「違うの?」

 うーん、とフアナは一瞬フォークを持つ手を止める。チキンの欠片をフォークの先に刺し、ソースを絡めて口に運ぶ。飲みこんだ後、しばらく考えた様子で、再びケインを見る。

「それ、君のお母さんに聞けって言われたのか?」

 ケインが何のことか分からずきょとんとフアナを見つめると、フアナは「や、なんでもない、ごめん」とひらひら手を振った。

「ケインは、恋人いるの?」

 ケインはぶんぶんと首を横に振る。

「いないよ、子供だから」
「そっか。私もいないよ」

 でも、とケインは唇を尖らせる。

「その、魚の友達のこと、好きでしょ?」

 その友達のことを話すときのフアナの顔は、父と話すときの母の顔に似ていた。だから、そういうものなのだと思った。

「好きだよ」
「じゃあ、コイビトじゃないの?」
「でも、ケインも友達は好きでしょ? 恋人なの?」

 ケインはしばらく考えたが、首を振る。

「好きだよ。でもコイビトじゃない」
「どうして?」
「ハグしてキスしないから」

 ケインが言うと、フアナは目を丸くして、次いで声を上げて笑った。一人で咽るほど笑い、ひいひい言いながら水を飲む。ケインはむっとして黙りこんだ。

「ご、ごめん、うひひっ……そっか、ハグしてキスすれば恋人なんだ!」
「ちがうよ」
「えっ、ちがうの? 今まで聞いた中で一番分かりやすくていいと思ったのに!」
「ちがうよ! ハグしてキスして、それでハッピーだと思ったらコイビトなんだよ!」

 フアナは「そういうもの?」とケインに尋ねた。笑顔ではあったが、真剣な面持ちだ。ケインは慎重に頷く。フアナは「そっか」と言い、ちらと腕時計に目をやる。

「話してる場合じゃなかった。ううん、すごく、ためになったけど、でもそろそろ映画館に行かなきゃ。急いで食べよう」


 それから2人は無言で食事を終わらせ、車に飛び乗ると、今度こそエンストせずに出発した。
 映画館は思いの外席が空いていて、真ん中の少し後側の良い席に座ることができた。
 映画監督の挨拶があって、それはケインにはあまりに退屈すぎたのだが、フアナは熱心に聞いているようだった。それから、照明が落ちて、上映が始まる。ケインはスクリーンに釘付けになった。他の子供と一緒にブリームンに声援を送り、面白いシーンで笑い、恐ろしい敵に悲鳴とブーイングの声を上げる。
 映画が終わる頃にはすっかり疲れ果て、それでも大画面で動くブリームンを観ることのできた感動と興奮できらきらしながら大きく拍手をする。

「ねえ、フアナーー」

 面白かったね! と言おうとフアナの方を振り向いて、ケインはぎょっとした。フアナは掌を両目にあててぐすぐすと泣いている。なんで、とケインはおろおろする。体調でも悪いのだろうか。
 フアナは手を顔から離すと、鼻をすすりながらケインの方を向いた。

「めっちゃ良かった……!」

 感極まって泣いていただけらしい。そんなに好きなのか、とケインは驚くのと同時に笑ってしまう。

「泣くほどじゃないじゃん!」
「いや、泣くよこんなの……ぐすっ」

 ケインは呆れて肩を落とす。他の家族連れがぞろぞろと席を立ち上がった。劇場スタッフが「ブリームンと記念撮影をしたい方はエントランスホールの方へどうぞ」と声をかけていたので、ケインはフアナの手を引く。

「ねえ、早く行こ!」
「 写真は宝物になるなあ」

 エントランスホールは家族連れがブリームンの着ぐるみを取り囲んでいる。ケインがフアナの手を引っ張って記念撮影の列に並ぼうとすると、ブリームンのずんぐりとした姿の後ろから、武装した男が飛び出し、マシンガンの銃口を天井に向けた。
 バララララ、と激しい銃声とともに悲鳴が上がる。ケインは声を上げるより先にフアナに床に押し倒されていた。フアナに覆い被さられ、ケインは何が起こったのかも分からないまま途方に暮れる。フアナの髪と服から、バニラの甘い香りがした。
 どかどかと複数の硬い足音がする。ねえ、とフアナの体を軽く叩くと「し!」と耳元で囁かれる。悲鳴と子供の泣き声が聞こえた。

「我々は人類が擁する大都市紐育への化物共への侵攻に抗議するものである! 我々は政府の弱腰を叱咤し、化物に人類の鉄槌を叩き込むことを約束する! 政府との交渉のため、おまえたちに協力を願いたい!」

 男の怒鳴り声が聞こえ、ケインはびくりと体を震わせる。フアナが小さく「H.L.でやれよ、アホか」と呟いた。
 フアナは優しく、ケインの背をなでながら耳元で囁く。

「ケイン、目も耳も塞いで、声を出さず、隠れていられるか?」

 ケインはこくこくと頷く。フアナの様子があまりにも変わらないので、少し落ち着いた。フアナは「よし」と頷き、ケインの肩に手を置く。

「あと、これは君のママには内緒な」

 軽やかにウインクして笑うと、フアナはケインをカウンターの中に押し込む。ケインは言われたとおり目を瞑り、耳を塞ぎ、カウンターの影に丸くなって息を殺した。




 カウンターを乗り越えたフアナは、大演説を終えた男にいっきに距離を詰めた。武装した男は4人、武器は全てメイドイン人類だ。今日日、アンティークとしての価値しかない。 

「おい! 動くな!」

 向けられた銃口を握り、上にひねる。グミ菓子同然に折れ曲がった銃口を見て、男は目を見開き何かを言いかけたが、それより早くフアナは男の胸倉を掴みあげ、壁にぶん投げる。
 交通事故のように吹き飛んだ男は、壁にぶつかってずるずると床に落ちる。思いの外勢い良くぶつかったので、フアナは「あ、やば」とそちらに視線をやる。
 普通の人類って、あんなに脆かったっけ? と内心首を傾げる。だが、床に伸びた男の指先がかすかに動いた。よかった。死んではいないらしい。

 とりあえず、安心して二人目の顎に裏拳をいれ昏倒させる。かなり手加減したつもりなのだが、顎が外れてしまっていた。

「うわ、ごめん」

 とりあえず謝っておく。多分、聞こえていないが。
 窓の前にいる男が、マシンガンを構える。距離を詰めるより、引き金を引く方が早いだろう。鉛玉の十や二十どうということはないが、ケインにそんな物騒なものを見せたくないし、今日のために着てきたお気に入りのシャツが汚れるのも嫌だ。だが、そうも言っていられない。痛みに備えて息を止め、一歩前に踏み出すのと、窓硝子が激しく割れるのと、男が銃を取り落とすのは、ほぼ同時だった。
 フアナは男の顔面を掴み、踏み込みの勢いのまま床に叩きつける。後頭部を強く打った男の体が仰向けにバウンドする。男の掌には小さな穴が空き、どくどくと血が流れていた。擦り切れたカーペットの床に弾丸が食い込んでいる。
 どうやら「お迎え」が間に合ったらしい。それにしても一体どこから、と窓の外を見るが、その姿が見つかるはずもない。感嘆の息を吐きながら、ドアの前で呆然と立ち尽くす男に歩み寄る。一人取り残された男は、わなわなと震えながら床に崩れ落ちる。血走った目がフアナを見上げた。

「異界の化物め……!」
「残念、濃縮還元人類100%だよ」

 男からハンドガンを取り上げ、カートリッジから弾丸を床にばらばらと落とす。ついでに銃身も握って潰しておく。こういう阿呆がいるから、K.Kは家族との約束を守れないし、ケインは寂しい思いをしているし、加えてスティーブンの睡眠時間も削られるのだ。
 フアナは腹が立って、潰れたハンドガンを放り捨てると、男の鳩尾を踏み抜く。呻いて丸くなる男に「サークル活動は内輪でやってろ」と呟いた。

 鎖で封鎖されたドアを構わず蹴破ると、映画館内の人質が出入り口に殺到する。その人達に押し出されながら、フアナは人の流れに逆らって館内に駆け込む見慣れた赤いコートを視界の端に捉えた。
 押されるままに映画館の外に出ると、パトランプの光とサイレンの音がビルの谷間に満ちていた。警察が来る前にこの場を離れよう、とフアナは足早に無事を確かめ合う親子の群れから離れる。映画館のエントランスに監視カメラはなかったはずだ。あったとしても、スティーブンあたりがなんとかしてくれるだろう。
 小走りに借り物の車に駆け寄ると、暗い運転席にブカブカのパーカーのフードを目深に被った男が座っていた。

「不審、極まれりだな」
「いいから、早く乗ってください!」

 フアナが助手席に滑り込むと、車は滑らかに動き出す。

「K.Kと一緒にあなたを迎えに来てみればこれですよ! 騒ぎを起こさずにいられないんですか!」
「私が起こしたわけじゃない」

 細い路地に曲がる車の車窓から、触れられそうなほど近くにあるビルの壁を見る。よくぶつからないものだ。

「ツェッド、免許は?」
「持っていません。持っているわけないでしょう」
「無免許運転」

 フアナが言うと、ツェッドはハンドルを切りながら横目でフアナを睨んだ。

「あなたが免許を所持している時点で免許の信頼性なんてあってないようなものですよ」
「そこまで言う?」
「陸運局は何をしてるんでしょうね」
「知らないよ」

 遠ざかっていくサイレンの音を聞きながら、フアナは座席を少し倒す。今日は雲一つない快晴であったから、市街地を抜ければ星がよく見えるだろう。

「星を見に行こう」
「また唐突な」
「いいじゃん。行こうよ」
「いいですけど、どこなら見られるんですか?」

 フアナは車窓を過ぎて行く町並みを眺める。久しぶりに、真っ当な街を見た。人類製の超旧式な武器を持った男が4人いるだけで、人々が慌てふためき警察が大勢飛んでくる。

「さあ? 高いところ?」
「……帰りますよ」
「そんな御無体な。とりあえず街から離れれば、星は見えるんじゃないかな?」

 フアナはツェッドの横顔を見つめた。フードの向こうの鼻先だけが見える。夜の車内なのだからそんなに厳重でなくてもいいのに、と思うが、そうもいかないのだろう。



 周囲の圧力に屈し、じゃあもう恋人になってしまおうかと二人で話したことは何度かある。実際に付き合ってみたことも一度ーーものの30分も保たなかったがーーある。しかし、結局しっくりこなくて、付き合っているんだろうと言われながらだらだらと友人をしている。それで不便を感じることはない。会いたいときに会い、触れたければ触れられる。
 フアナはツェッドの頬に指を突き立てる。ぶに、と人間と異なる感触とともに、指先がツェッドの頬に沈んだ。

「運転の邪魔です」

 ぴしゃりと言われ、フアナは窓の外に目を戻した。街が遠ざかっていく。
 人類でも異形でもないツェッドは、寄る辺のない己の立場の危うさと、そしてその孤独を痛感している。友人や恋人がいてもどうしようもない孤独はある。フアナもそうだ。
 家族がいて、友人もいて、学歴も仕事もあって、無数の同類に囲まれてなお、フアナは孤独だった。人間らしからぬ体質がそうせしめた。古今東西類似の症例もなく、名前すら付けられない、常軌を逸した”体質”は、フアナの周囲に見えない線を引くのには十分すぎた。
 世界に一人も同類の存在しない孤独と、無数の同類に囲まれて異物である孤独と。二人は似ていて、正反対だった。

 一緒にいたいと思うのは、無意識の同情なのかもしれない。こいつよりはマシだと思いたいだけかもしれない。たとえそういう理由だとしても、フアナはツェッドの孤独の行方を見ていたいのだ。
 それが恋だというのなら、恋でもいい。何だっていい。己の存在にさえ名前が付いていないのに、付随する諸々の名前なんてどうだってよかった。
 背中合わせの傷を抱えた者同士が集まったところで、傷の舐めあいにもならない。だが、ひとりぼっちとひとりぼっちが寄り添えば、かろうじて二人にはなる。ツェッドとフアナはそういう関係で、それ以上にもそれ以下にもなれない。

「あ」

 窓硝子に、ぽつりぽつりと水滴がつく。深い藍色だった空には、あっという間に暗い雲が立ち込め、さあさあと雨が降ってきた。
 霧雨の小さな粒が、フロントガラスを曇らせていく。ツェッドはワイパーを動かした。

「雨が降ってきてしまった」
「これじゃあ星は見えませんね」
「でも、せっかく車あるし、どこか遊びに行きたいよね」
「僕は別に。ここじゃ顔も出せませんし」

 ああ、とフアナは低く答える。なんだか、気持ちが萎えてしまった。道端のドライブインに車を停め、フロントガラスに水玉が増えていくのを眺める。

「どうでしたか、今日は」
「ん?」

 唐突に問われフアナは戸惑ったが、少し考えれば久しぶりに娑婆に出た気分はどうだと聞かれたということくらい分かった。フアナは今日のことを思い返す。

「化物って言われた」

 それが、一番印象的だった。ツェッドは「もっといい思い出はないんですか」と呆れたように言った。フアナが答える。

「あるよ。チキンパプリカッシュを食べた。H.L.じゃハンガリー料理なんて食べられない。それに、ケインとも仲良くなれた。映画も良かったし、監督のコメンタリーも聞いてきた」
「楽しかったようで何よりです」
「でも、このタイミングであんな事件起こるか? ツェッドには何故か怒られるし」
「それに関しては、標的にした映画館にたまたま化物が居合わせたテロリストに同情しますよ」
「確かに。けど、半魚人に言われる筋合いはない」
「あ、僕、さっきコンビニでうっかりフード外しちゃったら、良いマスクだなって言われました」
「まじか! 私より馴染んでるじゃん」

 フアナは笑う。雨音もしないような細かい雨が、夜の空に満ちていた。ツェッドが溜息をつく。

「霧なら見飽きてるんですけどね」

 うん、とフアナは小さく答えた。薄い硝子の向こう側に街灯を反射する霧雨が淡くきらめいていて、こちら側では暗い車内で人外と化物が静かに息をする。
 ふ、と、フアナは隣の暗い影を見た。

「ねえ、ツェッド」
「なんですか」
「ハグして、キスしていい?」

 言いながら、フアナは笑い声を漏らす。多分、怒られるだろう。でも、なんとなく言わずにはいられない。
 だから「いいですよ」とツェッドが答え、フアナの背に腕が回されても、フアナはぼうとしたままだった。
 かさりとしたパーカーの生地が、頬のあたりを撫でる。唇に、ひんやりとしたものが触れた。フアナが唖然としたままツェッドの顔を覗き込むと、ツェッドは常の淡々とした無表情でフアナを見つめ返した。

「いいですか、人を驚かせるのは何もあなたの専売特許じゃない」
「あ、はい」

 フアナはぽかんとしたまま人形のように首肯する。

「で、どうでしたか?」

 ツェッドが座席に座り直しながら尋ねた。むう、とフアナは一瞬の感触を思い出す。

「んー……ゼラチン質?」
「それから?」
「ええ、と、冷たい」
「それから?」
「えー、まだ? そうだな……そもそも君、唇無いよね?」
「ありませんね」
「よし、じゃあもう一回!」
「なんでですか、いやです」
「おねがい!」
「いやです」
「けちだな!」

 フアナはツェッドの頬にグリグリと指を刺す。無言で払い落とされた。

「君はどうだった?」

 フアナが仕返しとばかりに問うと、ツェッドはふと考え込むような素振りを見せ、次いでフアナの方を見た。

「想像と違いましたね」
「ええー、どういう想像してたんだよ」
「いや、こう、もっとすごいかと」
「……タンパク質とタンパク質がぶつかったところで、ねえ?」

 フアナが肩をすくめる。所詮、二つの肉でしかない。
 フアナは財布を取り、車のドアを開ける。霧雨が顔を濡らした。

「どこへ?」
「口直しに飲み物買ってくる」
「ああ、僕の分もお願いします」
「はいよ」

 車を降り、ドアを閉めかけた手を止める。車内をのぞき込んで、フードを被ったツェッドに「ねえ」と声をかける。

「迎えに来てくれてありがとう」

 ツェッドは何も言わずにひらひらと水掻きのある手を振った。フアナは口の端だけで笑って、車のドアを閉めた。