To say Good bye is to die a little





 誰もいない室内に、水槽の中を満たした水を透かした陽光がゆらゆらと落ちている。ツェッドはそれをぼんやりと眺めながら、水の中で漂っていた。
 珍しく誰もいない事務所は静かで、水面が揺れる音と時折空調が唸る音以外は、何も聞こえない。久しぶりの穏やかな休日を堪能していると、ひどく無遠慮にドアが開いた。
 確かめるまでもなくフアナだろうと、ツェッドはのろのろとそちらに視線を向ける。だが、その姿を見て目を剥いた。
 足取りは覚束なく、ドア脇の大きな植木鉢にぶつかり、艶々とした葉が床に散らばる。シャツと上着を小脇に抱え、上半身はタンクトップしか身につけていない。下着同然の姿で、フアナはほとんど倒れ込むようにしてソファにへたり込んだ。
 ツェッドは慌てて水槽から上がり、床が濡れるのも構わずフアナに駆け寄った。

「フアナ!?」
「うっす」

 ひどく気の抜けた返事をされる。それほど深刻ではなさそうで、ツェッドはとりあえず安堵した。

「どうしたんですか」

 顔にかかった髪を払ってやると、フアナはううと呻いてツェッドを見上げる。

「身体検査で、」
「ああ」

 ツェッドは頷く。フアナの体質の原因を探ろうと、牙狩り本部は躍起になっているらしい。それはそうだろう。もしもそれを牙狩りの精鋭が持つこと能えば、戦力の増強どころの話では済まない。
 本部から求められる調査の内容はおおよそ非人道的な内容もあって、クラウスとスティーブンがそれを突っぱねるのに苦慮していると聞く。

「何かあったんですか?」

 フアナの手に触れる。いつもは熱く感じるフアナの体温が、ほとんど感じられなくてぞっとした。
 きゅ、とフアナはツェッドの手を握り返す。

「よくわかんない。くるくる丸めた紙みたいなものを、変な色の薬と飲まされたから、そのせいかも」
「何を飲まされるかくらい把握しておきましょうよ……」
「興味ないから」

 フアナは子供じみて顔を背ける。陽気で話好きで、いることからいらないことまで話してしまうフアナであるが、自分の体質と、その検査の内容については知りたがらなかったし、話そうとしない。

「あれ、なんでツェッドがここにいるんだ?」

 フアナは唐突に、目を丸くしてそう言った。はあ? とツェッドは胡乱げな声をあげてしまう。

「んん? さっきまで病院に……」

 ああー! とフアナは大きな声を上げてソファから跳ね起き、うええと呻いてまたソファに倒れた。忙しないことである。心配する気持ちも失せそうだ。

「なんなんですか、一体……」

 フアナは嘆きとも悲鳴ともつかない声を漏らしながら、両手で顔を押さえた。

「変な物飲んだら体調の悪さがマックスになって……」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃなかった。死ぬかと思った」
「それで、帰されたんですか?」
「いや、怖くなって帰ってきちゃった」
「え?」
「検査機器ブッ壊して」
「は?」
「壁ぶち破って」
「はい???」

 思い出したー! とフアナはソファの上で悶絶する。何をやっているんだこの人は、とツェッドは溜息をつくと同時に、何をされているんだこの人は、と怖くなる。
 ツェッドはフアナの額に手をやる。熱はない。握っている手にも体温が戻ってきている。

「君の部屋か……」

 フアナは呟く。「そうですよ」とツェッドはやや呆れ気味に答えた。答えながら、とりあえずカーゴパンツを履く。

「前に君に聞いた。死にかけたときどうだったかって」
「ああ、ありましたね」
「私はね、ここに来なきゃと思ったよ」

 そうですか、とだけツェッドは言った。

「死んだ人が幽霊になって家族に会いに来るのって、こんな感じなのかもしれない」
「縁起でもない」

 ツェッドはフアナの傍らに座る。フアナはごろりとツェッドの膝に頭を預けて横になった。フアナの顔に、ツェッドから滴る水滴がぽとぽとと垂れる。

「重いんですけど」
「えー?」
「邪魔なんですけど」
「んー?」

 フアナはくすくすと笑って聞こえないふりをする。
 ツェッドは溜息一つでそれを許した。膝の上にあるフアナの顔の、血色を取り戻しつつある頬を爪でつつく。

「刺さる刺さる」
「刺しませんよ」

 柔らかな肉は触れれば傷付きそうで、どこからあの尋常ならざる腕力と回復力が湧き出ているのか不思議なほどだ。
 ぎゅー、と頬に爪を立ててみる。フアナは悲鳴を上げて飛び上がった。

「いった!? マジで刺さる!」
「死なないのに痛いって意味なくないですか?」
「知らんわ! ふざけんな!」

 言いながらフアナはツェッドの膝で寝直す。そこまで言うならどけばいいのに、とツェッドは思うのだが。
 頬に残った爪痕は、うっすらへこんで赤くなっていた。なるほど、この程度だと”治らない”ようだ。


 フアナはまだやはり体調が本調子でないのか、ぼんやりした目でツェッドを見上げる。それを、少しだけ色っぽいと思った。
 ツェッド自身の性的な指向は人間に向いてはいるが、実際生身の人類とどうこうとなると話は別だ。あまりに姿が違いすぎて躊躇われる。兄弟子が多種多様な異界人のポルノグラフィティを持ちながら、恋人はいつも人類か亜人であるのと一緒だ。ついでに、レオが触手と人類のコミックスをーーこの話はやめておこう。 
 なので、自分がフアナに対してそう感じるのは珍しい、とツェッドは他人事のように思う。そう思う自分に妙な気分さえした。
 そもそもフアナは普段から陽性で頓狂で突拍子がなさすぎるのだ。少し毒でも盛って大人しくさせたほうが可愛げがあるのかもしれない。
 それは冗談にしても、だ。すっかり弱ったフアナの額に手をやりながら、ツェッドはわずかに顔をしかめる。フアナは呑気に「つめたくてきもちいい」と寝言のように呟いていた。

 もしも、フアナが己と出会わなければ、フアナはこんな目にあう必要はなかった。実験動物さながらにありとあらゆるデータをとられることも、度々体のほとんどを失うような大怪我をすることもなく、奇妙な街で奇妙なバウンサーとして、そこそこ波乱に満ちた平穏な生活を送っていたのではないか。
 申し訳ない、と、思う。だが、止めたツェッドを無視して15秒でライブラ入りを決めたフアナを思うと、申し訳ないと思うのも釈然としない。

「フアナ、」

 名を呼ぶと、フアナはツェッドの手の下で返事をした。

「もし、あなたがこうなっていることに、僕が責任を感じているとしたら、どうしますか」

 ツェッドが言うと、フアナは間髪入れずに「殴るね」と答える。

「一切の加減せず殴る」
「殺す気ですね」

 フアナの表情は見えないが、声音に怒気が滲んでいた。怒気、というには淡いだろうか、不貞腐れたような、不機嫌そうな響きである。

「あのさあ、私が、嫌なことを無為に我慢するタイプに見えるか?」
「いいえ、全く」
「じゃあ、二度と言うな」

 ツェッドは膝の上に広がるフアナの髪をぼうと見つめる。フアナがここにいる理由は、本来存在しない。
 そう、ぽつりと思わず口をつく。フアナの唇が一瞬わなないた。

「君は?」
「なんです?」
「君は、どうしてここにいるの?」

 どうして、と。問われ、ツェッドは言葉に詰まった。師匠に置いていかれたから。本当に、それだけだろうか。師の目もない今、ツェッドはどこに行くことも出来る。だが、それをしないのは、己が人間ではない故に外界で暮らせないから、だけではない。
 ツェッドは、すいと目を閉じる。

「ここが僕の居場所だから、では、駄目ですか」
「知らないよ。そんなの君が決めることだ」

 フアナは吐息混じりに言い、言葉を続けた。

「同じように、私は君がいるからここにいるんだよ。それ以上の理由がいるか?」
「……さあ、あなたが決めたことですから」

 ふふ、とフアナは浅く笑う。ならば、とツェッドは問うた。ならば、己が死んだらどうするのか、と。フアナの笑い声がぴたりと止まった。

「そうだなあ……想像できないけど」

 しておいた方がいいとは思うのだが。ツェッドは黙って続きを促す。

「ライブラを敵に回してみるかな」
「……本気じゃないですよね?」
「本気じゃないよ。そんな焦らなくてもいいじゃん」

 フアナの口の端が吊り上がる。ツェッドは溜息をついた。フアナならやりかねない、と思わせるのが恐ろしい。

「先のことは分からない。そうだな、スタントマンなんか向いてるんじゃないかな」
「確かに。CGいらずですね」

 あえて距離をおく情があるのも知っている。多分、師もそうなのだろう。フアナの心身の安全を思えば、そうするのが正しいのかもしれない。
 だが、ツェッドにはそれを思い切れなかった。
 ツェッドがフアナの顔から手を離すと、フアナは眩しそうに目を細めた。フアナはツェッドの顔をじいと見ると、一言だけ囁いた。

「さよらなら少し死ぬことだよ」
「”Partir, c'est mourir un peu”?」

 ツェッドが答えると、フアナは顔をしかめる。

「君、私が話すこと全てに出典と脚注をつける気か?」

 Wikipediaかよ、とフアナは毒づき、小さくあくびをした。

「ツェッド、このまま寝ていい?」
「駄目です」
「よっ、歩く水枕!」
「邪魔です」

 フアナは名残惜しそうにツェッドの膝に頬を摺り寄せ、弾みをつけて立ち上がる。鼻先をフアナの頭が掠めた。

「危ないでしょう」
「大丈夫。君、反射神経いいもん」

 フアナは笑い、ツェッドの向かいに座ると上着を被った。クッションの形を整え、頭を乗せると、眠たげにツェッドを見上げる。

「君が責任を感じるのもいいけど、私によってかけられる多大な迷惑を思えばとんとんだろ」

 ツェッドはしばらくそれについて考え、確かにそのとおりだとの結論に達し、フアナの方を見ると、フアナは小さな寝息をたてていた。まったく、とツェッドは溜息をつく。
 携帯端末が着信音を鳴らしたので、手にとって発信者を確認する。スティーブン・A・スターフェイズと表示された画面を見て、おおかたフアナの行方を尋ねる連絡だろうとあたりをつけ、受信ボタンをタップした。




******


おまけ


 事務所でフアナが紅茶を片手に呟いた。

「名前がほしい」
「なんすかフアナさん。哲学か何かですか? そういう話はツェッドさんとしててください」

 レオが言うと、フアナはそうじゃないと首を横に振る。

「君の目は”神々の義眼”だろ、ザップとツェッドは斗流血法、私もそういう名前がほしい」

 つまり、その奇妙な体質に名前をつけたい、ということだろうか。
 本を繰っていたツェッドがふと手を止める。

「僕は親しみを込めて化物と呼んでますけど」
「うわーいありがとう」

 フアナは芝居がかってはしゃいで見せると、真顔でツェッドを睨んだ。相変わらず仲が良いようで何よりだ。
 ギルベルトさん、とフアナは部屋の隅に佇んでいたギルベルトに視線を向ける。ギルベルトは顔をフアナの方に向けた。

「私も再生者って名乗っていいですか?」
「名乗るのは構いませんが、フアナさんは再生者ではないでしょう」
「再生者ではないのに再生者と名乗るのは問題がありますか?」
「問題があるかないかで言えば、あるのではないですかな?」

 そうですか、とフアナは言ったきり、宙を見つめて動かなくなる。

「でも、名前ほしくない?」

 誰に言うでもなくフアナが呟く。煙草の火を揉み消したザップがそれに答えた。

「ナメック星人でいいだろ」
「地球人だし。口から卵も産まないし」
「じゃあ、人体模型」
「別に私人体模型じゃないしね」
「内臓標本」
「いや、だからさ、この体質の結果、そういう状態になるんであって、体質そのものの名前としてはどうなの?」
「理屈っぽい女だな!」

 めんどくせぇ! とザップは足を投げ出しソファにふんぞり返る。ザップの案を逐一丁寧に理由を添えて却下しているだけフアナは偉いとレオは思う。
 フアナはレオの方を向く。

「レオは何か案ある?」
「ええ……なんだろ、ビックリ人間とか……?」

 フアナが無表情でレオのことを見つめるので、レオは慌てて前言を撤回する。

「すみません、今の無しで」
「よかった。ある意味ザップ以下のセンスで心配した」

 そこまでか!? とレオは嘆息する。

「今のところ、ツェッドの”化物”が暫定1位なんだけど」

 それでいいのだろうか。

「化物と名乗るのはいや」

 やはりいやなのか。
 話の成り行きを黙って聞いていたクラウスが口を開く。

「フアナの能力に名前がついていようといまいと、君が我々の大切な同胞であることには変わらない」

 フアナは渋々と、だがすこしだけ嬉しそうに「はあ、」と中途半端な返事をして、その話は仕舞いになった。