イクシオサピエンスは電気海月の夢を見るか(2)





 妙な男に出会った。行きつけの数件のうち、最もコーヒーが美味しい喫茶店のテーブルの横を、ルーベンスの画集を抱えて通りすがったのがその男である。
 少し奥まったテーブルについた姿は、燐光のように青白かった。見た目は比較的人類に近いが、一目見てはっきりと人外のものと分かる。
 そんな奥の席に座っては、本は読めないだろう。案の定、彼は本を数ページめくっただけで読むのをやめてしまった。この店は、ただでさえ照明を落としてあるのだ。ライトの近くか、窓辺に座らなくては、文字は読めない。

 人型に近く、衣服をまとい、人語を解し、本を読む姿を見ると、なんとなく意思の疎通が可能そうに見える。だが、そんな理屈が通らないのがこの街だ。さて、どうしたものか、と考えたのだが、財布を忘れて店員相手におたつく姿がいかにも善良そうで、話しかけることを決めたのだ。

 己を“どちらかといえば人類”だと名乗る興味深い男である。ツェッド・オブライエンと名乗った。本名かは定かではない。
 話してみると、その辺をごろつく人類のチンピラやジャンキーより、よほど品のある英語を話し、内容からも彼が相当のインテリゲンチアであることが知れた。話の流れで「何事も探訪しなきゃ。好奇心を失ったら死ぬよ。隠された大地と内部と同じくらい探訪しなきゃ」と軽口を叩いたところ「……アルゼの書ですね。現代人のいったい何人に通じるんですか」と言われた。今のところ、通じたのはツェッド一人である。
 見た目は異界人なのに人類だと名乗り、一見するとBボーイのようなぶかぶかのカーゴパンツ姿にもかかわらず物腰は丁寧で、堅物なのかと思えば日々のくだらないメッセージのやりとりにも付き合ってくれる。おまけに、文面が意外と可愛い。
 そういう、意外性に意外性を塗り重ねて、謎でコーティングしたような男がツェッド・オブライエンである。

 フアナは、携帯端末がその男からメッセージを受信したと画面を光らせるのを眺め、親指で画面をスワイプした。

 ーー先日のお詫びに、昼食をご馳走させてください。

 続いて指定された店を、フアナはそのまま端末で検索する。表示された店のサイトやグルメ評論サイトをいくつか巡り、首を傾げる。
 しかし、まあ、いいか、と、メッセージに対して短く「りょーかい。たのしみ」とだけ返した。

******



 明るい白と木目調のブラウンで統一された店内には、むせかえるようなバターと焦がした砂糖の匂いが満ちていた。アンティーク調のテーブルセットは可愛らしく、其処此処に飾られた調度もどちらかといえば、少女趣味だ。
 窓辺にかけられたレースのカーテンとレモンイエローのリボンを背景に、どこか居た堪れない様子のツェッドが正面に座ったので、フアナは思わずふっと鼻から息を漏らすようにして笑ってしまった。

「まさか……ここまでコッテコテの店だとは思わなかったんです」

 行きたいと言った張本人のくせに言い訳じみて呟く。

「調べなかったの?」
「あまり女性を誘うような店には詳しくないので、ーーええ、と、職場の、若い女性に行きたい店はないか聞いてみたんですよ」
「可愛いもの好きな人なの?」
「特にそういう話を聞いたことはないんですけど」
「じゃあ、パンケーキ好き?」
「それも聞いたことはないです」
「じゃあ、なんでここって言われたんだろう。からかわれた?」
「いや、まさか、そんな……」

 端から端までクリームとフルーツ、チョコにキャラメルが山ほどのったパンケーキしか載っていないメニューに目を落としながら、君をからかいたくなる気持ちはちょっと分かる気がするけどねと言うと、ツェッドはそうですか、とやや不本意そうに答えた。

「君、真面目だから」
「真面目だとからかいたくなるんですか? 性格悪いですよ」
「真面目だとからかいたくなるというか、真面目な人がふりふりドリームランドで仏頂面してるところが見たい」
「いっそう性格悪いですよ、それ」

 うははほっとけ! とフアナは笑い、メニューの中にやっと甘くないものを見つけた。

「あ、私、これにする。ランチセット」
「……じゃあ、僕もそれで」
「うわ、つまんないこと言うなあ。せっかくだから別のものにしようよ」
「もう店内の甘い匂いだけで、甘いものには満足してしまいました」
「甘いものは苦手?」
「そういうわけではないのですけど」

 ツェッドはほんの少しだけ言い淀んだ。それは、つまり、自分に合わせてくれたのだろうと目論む。何故それを確信したのかといえば、今しがたテーブルの横を運ばれていった、30センチはクリームが山盛りになったゴージャスな皿を目で追い、ツェッドがひどく物欲しげな顔をしたからだ。

「せっかく君が選んでくれた店に来たんだから、ここの看板メニューにしようか」

 メニューの一番最初のページを指差す。「デラックスフルーツパンケーキ山盛りクリームタワー」というポップな文字に、可愛らしくもえげつないイラストが添えられていた。何がえげつないかといえば、主にクリームタワーの高さが。

「……一人で食べるんですか?」
「いや無理でしょ」

 半分こ半分ことフアナはジェスチャーする。

「ここ、決定版ランチデートで彼氏と利用したいオシャレなカフェinヘルサレムズ・ロット上半期ナンバーワンだから、基本、2人で食べる量が出るよ」
「なんですかそれ、聞いてないです」
「君が選んだのに!?」

 どれだけその同僚を信頼しているのだろうか。

「下調べくらいしろ! 私でさえちょっとは調べたよ!」
「忙しくて」
「顔が面倒くさかったと語ってるんだよ!」
「失敬な、こんな真摯な顔をしているのに」
「いや魚顔だから表情の変化はちょっと読み取りにくい 」
「急に真剣になるのはやめてください」
「いつも真剣だよ」
「タチの悪い」

 よく言われる、と答えると、フアナは片手をあげて店員を呼んだ。

「すみません、これと、あと、コーヒーを2つ」


 テーブルに置かれた皿に、向かいのツェッドが小さく「うわ」と言ったのが聞こえた。生クリームタワーが邪魔で表情は見えなかったが。
 生クリームタワーをよけて身を乗り出すと、ツェッドはわくわくした表情でーーだんだん表情の読み方が分かってきたーーナイフとフォークを手にしていた。

「ノリノリか」
「悪いですか。早く食べないとクリームとアイスが溶けてしまいますよ」
「……ノリノリか」

 フアナもナイフとフォークを手に取る。しかし、この堂々たる甘味タワー、どこから手をつけたものかと尻込みした。

「どこから手をつけたらいいですかね」

 ツェッドはそう言いながら、容赦なく、迷いなく、タワーの頂上からまっすぐナイフで幹竹割りにした。ズバッと縦に割られるパンケーキタワーなんて初めて見る。

「ウワー!?」

 おもわず悲鳴もあがるというものだ。ツェッドはフアナの悲鳴に胡乱気な顔をした。

「なんですか」
「……いや、容赦ないなあって。うわ! すごい! 断面めっちゃ綺麗! なにこれ! クリームも全然崩れてない! 綺麗に二等分! サムライか! 何者だ君は!」
「ただのしがない半魚人です」
「反応しにくいジョークはやめろ」
「普段の僕の気持ちが少しは分かったでしょう」
「やや反省した」

 フアナはフォークの先で、あまりにも綺麗すぎてぴったりとくっついた断面をつついてみる。
 おおよそ人類には見えない外見も、こういう謎の技術も、何かしら深い理由があるのだろうが、触れないでおく。余計なことには首を突っ込まないことと、他者の秘密に必要以上の興味を持たないことが、この街で生き残るコツだ。最終的には運と腕力がモノを言うのだが。

「じゃあ、私はこっち側、フルーツが多い方! チェリーは私のだ!」
「はいはい」

 さくさくに焼けたパンケーキの表面と、ふかふかの生地にざくりとフォークを刺す。一口食べて「美味しい!」とガッツポーズをした。

「本当ですね、これ、すごく美味しい」
「生クリーム、美味しい、牛乳、牛乳の味、する。乳の味、する」
「片言になってますよ」
「美味しさのあまり言語中枢が死んだ」
「あなたから口八丁を奪ったら何が残るんです」
「美貌と頭脳、それから腕力」
「言っていて恥ずかしくありませんか」
「恥ずかしい」

 もう一口、ケーキを頬張る。

「美味しい。幸福感」
「僕、パンケーキははじめて食べました」
「いやいや、そりゃここまで豪華で美味しいのは珍しいけど」

 と、言いかけたところで、ツェッドの表情が真剣であったので口をつぐむ。どうやら本当に食べたことがないらしい。

「パフェは?」
「ないです」
「チョコレート」
「それはあります」
「モンブラン」
「登ったことはありますが」
「……くず餅」
「僕の皮膚を見ながら言うのはやめてください」
「今のはポリティカルコレクトネスに反してた」

 ごめん、と言うと、ツェッドは「いやそこまでのことでも」と両の手の平をこちらに向ける。そういう反応がちょっと面白い。
 甘いものは匂いでお腹いっぱいだと言った割に、怒涛の速度で減っていくツェッドの分を眺めていると、自分の半分にはないチョコレートアイスが乗っていることに気付いた。

「お、チョコアイス、一口くれ」
「くれ、じゃなくて、くださいでしょう」
「お母さんか! 一口ください!」
「どうぞ」
「やった」

 フォークの先にチョコレートアイスをひっかけて、口に運ぶ。濃厚なチョコレートの香りだ。

「チョコって感じがする」
「もっと頭良さそうなことは言えないんですか」
「芳醇なカカオの香りが口中に広がり、ほろ苦さと甘さが舌にねっとりとからみつくが余韻も残さずすっと消える潔さが清々しい。そもそもチョコレートの起源は紀元前2000年のメソアメリカまで遡り、神の果実と呼ばれ貨幣としてもーー」
「うるさいですよ」
「ひっどいな」

 フアナは自分の半分のパンケーキに乗った、飾り切りしたオレンジとイチゴをフォークでしめした。

「どうぞ」
「ありがとうございます」

 オレンジを口にするツェッドに「どう?」と尋ねると「オレンジです」と返された。