Amitie
※夢主死ネタ
※ツェッドの寿命が人類よりずっと長かったら、という妄想
フアナが死んだ。
報せを受けたのは、冬のエチオピアでのことだった。およそ冬らしからぬ気候の中でツェッドはそれを聞き、砂混じりの乾いた風の音と似たような声で「ああ」と嘆息した。それから、大急ぎで仕事を片付け、帰りの飛行機を手配し、フアナの住む町に立ち寄った頃には、すでに葬儀も埋葬も終わっていた。
喪服も無ければ、真っ当な葬儀に参列できるような姿形でもないツェッドには、そもそも関係のない話ではある。だが、その最期も、死に顔さえ見ることが出来なかったことに、喉に何か詰まったような気持ちになった。
陽当たりの良い、緑豊かな墓園。真新しい白い墓石は色とりどりの花に埋もれていた。手向けの香華にしては華やかすぎる花ばかりだが、墓の主の人となりを思えばこれでもまだ常識的だろう。何事につけ突飛で頓狂で派手な物を好んだフアナには相応しかった。墓石には、確かに彼女の長ったらしいフルネームが刻まれている。
ツェッドはそこに、ヒヤシンスの花を落とす。西風が吹いて、ひときわ匂い立つ甘い香りが鼻腔を満たす。つん、と鼻の奥が痛んだ。墓石に刻まれた名を見てさえフアナの死の実感がわかずに、ツェッドは呆然とそこに立ち尽くしていた。ややもすれば、花束の下からフアナの手がぬっと突き出て、いつものように笑いながら現れそうな気がした。「死んでないよ!」などと言いながら。――本当にありそうである。その光景がまざまざと想像できて、ツェッドは笑みを噛み殺す。
黒いパーカーのフードを目深に被ったツェッドは、屈んで墓石の名をなぞった。地面に懐かしい匂いのする灰が落ちている。ツェッドの記憶が確かならば、その灰は紙巻き煙草の物でなく葉巻の物だろう。かつての仲間達も、フアナを偲びに来たのだろうか。
フアナが前線を退いてもう10年以上になる。不死に近い頑強な肉体を持っていても不老ではない。最近は後方支援や、フアナの特異な体質が必要となる作戦への参加が主な仕事だったようだ。驚くべきことに、情報収集のようなことも不得手ではなかった。奇矯だが陽気で明朗なフアナに、人は思わずぽろりと本音を零してしまうらしい。にわかには信じがたい話だが。
半ば成り行きでライブラに加盟したフアナであるが、なかなかどうしてよく働いたものである。彼女の奇妙な体質はおおよそ世間に受け入れられる物ではなかったが、牙狩りとしては重宝された。印象よりもずっと寂しがりやであったフアナにとって、それは重要だっただろう。
かつての仲間達も、続々と前線を退いている。人を動かす側になった者、悠々と隠退生活を楽しむ者、後方支援として戦場に残る者、行方不明の者、死んだ者、様々だ。ツェッドだけが変わらず、前線に立ち続けていた。正確には、その技だけは研鑽されていったが、姿は変わっていない。
数年前、髪を明るいブラウンに染めたフアナが「白髪隠しだよ。君は相変わらず老けない……というか、髪もないか」とぼやいていたのをツェッドは思い出す。
ツェッドは変わらなかった。姿も力も、一縷の老化を見せない。己の寿命がどの程度なのか分からない。少なくとも、普通の人間よりもずっと長いことは確かであった。あとどれだけの時間が己に残されているかも分からないまま、日々血界の眷属を倒し、世界の均衡を図る。
師の消息は絶えたまま長い時間がたってしまった。人間離れした師ではあったが、人間である以上死は平等に訪れる。兄弟子は自堕落に気ままに生きてはいたが、何を思ったのか数人の弟子をとった。意外なことに、どの弟子も優秀で、大なり小なり師である兄弟子を慕っているらしい。
ツェッドは弟子を持たなかった。何故だろうか。理由らしい理由はない。強いて言うならば、己の寿命が普通の人間を凌駕すると知ったときに、それを誰かに伝えようとする気持ちが薄れてしまった。いずれは、誰かに受け継いでもらう必要があるのかも知れない。
背後で人の気配がしたので、ツェッドは俯いてやり過ごそうとする。軽い足音がツェッドの背後を通り過ぎていった。ほっとしたのも束の間、小さな人影が転がり込むようにしてツェッドのもとに駆け寄ってきた。浅黒い肌の幼い少女が、濃いブラウンの大きな瞳でツェッドを見上げた。目深に被ったフードも、少女の小さな背丈の前では役に立たない。ツェッドは慌てて少女から顔をそらした。
「魚のおにーちゃん?」
少女はそうツェッドを呼んだ。その呼び名と、利発そうな瞳に覚えがあって、ツェッドははっとした。
「アミティエ?」
ぽつりと名を呼ぶと、少女――アミティエは嬉しそうにぱっと笑った。明け透けな笑顔がフアナによく似ていて、胸が詰まった。
アミティエは抱えていたダリアの花束を墓前に供える。赤やオレンジの大輪の花は、冬の済んだ空によく映えた。アミティエはオリーブグリーンのマフラーに顔を埋め、ツェッドの方をちらと見た。
「よくおばあちゃんが魚のおにーちゃんの話をしてくれたよ」
ツェッドは苦笑する。
「そうですか。どういう話を?」
「んー、色々。ねえ、巨大アザラシに捕まって、フライにされそうになったことがあるって本当?」
「本当ですけど……」
何もそんな話をしなくたっていいだろうに。ツェッドが墓石を睨むと、アミティエはくすくすと笑った。それから、ふと笑顔が曇る。
「おばあちゃん、死んじゃったのね」
答えあぐね、ツェッドは小さく頷いただけだった。それから、柔らかな髪を切りそろえられた肩を見下ろす。
「フアナ……、おばあちゃんのことは、好きでしたか?」
ツェッドが問うと、アミティエは大きく頷く。
「うん。面白くて、大好きだった」
でも、とアミティエは言葉を続ける。
「変な人だよね」
それを聞いて、ツェッドは思わず吹き出す。孫娘に対しても、フアナはフアナらしさを失わなかったらしい。
「友達のおばあちゃんとは違うのね。他のおばあちゃんは、のんびりしてるの。昔話とかしてくれて」
「そうなのですか?」
「うん。でも、おばあちゃんは、変なお話ばっかりしてくれた。人が膨れて破裂しちゃう危ない薬の話とか、牛を丸呑みするくらい大きなカメレオンの話とか」
それは、幼子にする話として適切なのだろうか。
「あと、おばあちゃん、変なものを作ったりしてママに怒られてた。1回、電子レンジが爆発して、ガレージの屋根が飛んでいっちゃって、大変だったの」
いい歳をして一体何をやっているんだ、とツェッドは思わず頭を抱える。
「変なことばっかり言ってて、わたしね、おばあちゃんが嘘をついてるんだと思ったの。魚のおにーちゃんのことも、おばあちゃんの作り話だと思ってた」
濃い睫毛に縁取られた大きな瞳が、ツェッドをきらきらと見つめた。ツェッドはくすぐったいような気持ちで肩をすくめる。まさか自分が幼い少女の憧れになる日が来るとは思わなかった。
フアナは子供を――血のつながった子を持たなかった。本人に詳しく聞いたわけではないが、おそらくはその体質が遺伝することを恐れてのことだろう。牙狩り本部からは再三の打診があったらしい。フアナはそれにひどく憤り、それこそ一人で牙狩りを強襲しかねないほどだった。
実験動物にされると分かっていて子供を産む馬鹿がどこにいるんだ、と怒るフアナにツェッドは思わず「フアナにもそういう倫理的な感情があったのか」と思ってしまった。
結局、フアナは二人の孤児を引き取った。血界の眷属に家族を奪われた子供達とおっかなびっくり始まった家族生活は、誰一人血縁ではないという不思議なものだった。おまけに、半魚人がしょっちゅう出入りしている。
血縁どころか人種も異なる彼女達である。思春期にはパドマ――アミティエの母で、フアナの娘――が「私だけ肌の色が違うのがいや」と涙ながらにフアナに悩みを打ち明けたところフアナは目を丸くして「肌の色!? パドマ、君ねえ、ツェッドを見なよ」と言った。そして、さすがフアナの娘と言うべきであろうか、パドマも「それもそうだ」と納得してしまった。ツェッドとしては、複雑な気分である。
パドマの、アミティエよりワントーン暗い色をした肌の顔で、にこにこと笑う姿を思い出す。初めて会った頃は、大人しくて物静かな子だった。もともとそういう子であったのか、家族を失った体験がそうさせたのかまでは分からない。
だが、子供よりよほど子供っぽいフアナに揉まれているうちに、どんどんはきはきとしてしっかりした女性に育っていった。親がしっかりしているからと言って子供がしっかりするとは限らないが、逆もまたしかりであるようだ。
「ねえ、魚のおにーちゃん」
「なんです?」
「おにーちゃんは、おばあちゃんのこと、好きだった?」
ツェッドはこみ上げてくるものを飲み下しながら、震える声で「ええ」と言った。
「大切な人でした。多分、世界で一番」
この幼い少女に果たして分かるものだろうか。アミティエは母によく似た大きな瞳を2、3度瞬かせた。
酸鼻極まるとまで言われた己の人生に、裸足で乗り込んできた。お互い共有できない孤独を抱えながら、それでも無理矢理この水かきのある手をとってくれた。力強くて、奇妙で、不思議な人。
己が思い鬱ぐときに隣にいるのはいつでもフアナだった。フアナの複雑怪奇な思考を根気よく聞いてやれるのは己だけだった。それなのに、ツェッドが尽きる気配のない己の寿命について不安を口にしたとき、フアナが心の底から不思議そうな顔をして「へああ?」とひどく間の抜けた声をあげたのを、その眉の角度から声の調子まで、全て覚えている。
「いいじゃん、長生き。かつて世界中の権力者が追い求めた不老長寿」
おどけたように肩をすくめながら、フアナはツェッドの淹れた茶を飲んだ。
「あのですね、僕は真面目に話をしているんですよ」
先の見えない恐怖。仲間達が先に死んでいく寂しさ。そして、フアナを失うこと。
フアナは鼻を鳴らして、空のマグカップをぷらぷらとツェッドの方に向けた。
「なんで私に死なれるのが嫌なの?」
「な、なんでって……」
そんなこと、フアナが一番よく分かっているだろうに。反駁しかけたツェッドに、フアナは手のひらを向けた。それから、ベビーベッドで寝ていたアミティエを慣れない動作で――何しろ、赤ん坊の世話は初めてなのだから――抱き上げると、呆れ顔で溜息をついた。
「そりゃ、知り合いがみんな死んでいくのは悲しいだろうよ。子供の頃、近所の100歳を越えてたカルロス爺さんもそう言ってた。でもさ――」
すやすやと眠っていたはずのアミティエが、火のついたように泣き出す。フアナはおたおたと腕の中の小さな赤ん坊を揺り動かした。
「でも、私だってまだ死ぬ予定はないし、……ああ、泣かないでよー、それに、ツェッドには、――うあー、パドマごめーん!! アミ泣かしちゃったー! たすけてー!」
結局、フアナは己に何と言おうとしたのか。
それから、血界の眷属に大きな動きがあって、フアナとはしばらく会う機会がなかった。メッセージのやりとりはしていたが、そういえばしばらく返事がないな、と思っていた矢先に訃報が飛び込んできた。
フアナは死んだ。記憶の中の皮肉っぽく笑うフアナの姿と、ひんやりと鎮座した墓石とが、うまく繋がらない。ツェッドは墓石の前に膝をついた。喉の奥から悲鳴めいた嗚咽が漏れる。
「なんで……、早すぎるでしょう。まだ死ぬ予定はないと言ったじゃないですか……」
眼の奥が熱くなる。小さな子供にみっともない姿を見られることも構っていられない。身体の機能上、涙が溢れることがないことだけが救いだった。
「あなたを失ったら、僕は――」
――また、ひとりだ
ツェッドが絞り出すように呟くのと、背後から押されて墓石に顔からぶつかったのは、ほとんど同時だった。
痛む顔をおさえながら、何が起こったのかも分からずに体を起こしたツェッドを、アミティエはにこにこと笑って見下ろした。
「おばあちゃんがね、言ったの。もしおばあちゃんがいなくなって、魚のおにーちゃんがめそめそしていたら、尻を蹴っ飛ばしてやりなさいって」
幼気な子供になんということを教えるのだろう。アミティエがフアナの体質を受け継いだ子ではなくてよかった。
アミティエは、カラフルな献花に埋もれて目を丸くするツェッドに、屈託なく手を伸ばした。いつかのフアナと同じように。
「ねえ、おうち行こう。ママも喜ぶよ。おじちゃんも喜ぶと思う。それから、産まれたばかりの弟にも紹介しなきゃ。わたしね、おばあちゃんに魚のおに―ちゃんの話を聞いて絵を描いてたの。見る?」
小さな手がぐいぐいとツェッドを立ち上がらせ、引っ張っていく。その手は小さいが、熱くて力強い。ツェッドはされるがままになりながら、ふと尋ねた。
「ツェッドです。僕の名前。フアナ――おばあちゃんに聞いていなかったんですか?」
「ううん。聞いてたよ。でも、おにーちゃんがそうだって言わないから」
ツェッドは苦笑して、小さな手を握り返す。鋭い鰭や爪で傷つけないように、優しく。
「では、これからはそう呼んでくれますか?」
「うん。ツェッド、早く行こうってば」
そうだ、フアナはあの後、大泣きする孫と、フアナに文句を言いながら赤ん坊をあやす娘と、ぬいぐるみを片手におろおろする息子に囲まれながら「君、こんなにうるさいのに囲まれて、まさか一人になるだなんて言うなよ!」と笑ったのだ。