少なくとも二人、



 ライブラ事務所のカウチにアウトドア用の無骨なショートブーツを履いた足を投げ出していたフアナは、先ほどから何度も咳き込んでいた。ツェッドは顔をしかめてそれを見下ろす。

「風邪ですか?」

 フアナは起き上がり、少し熱っぽい目をツェッドに向けると、そうかも? と首を傾げた。

「そうかも、って……。体調が悪いなら、部屋で寝ていればいいでしょう」
「寝てるよ」
「僕の部屋でね! 自分の部屋で寝てくださいよ!」

 フアナはうるさそうに顔を背ける。子供じゃないんですから、とツェッドは溜息を零した。

「自己管理がなってないんじゃないですか?」
「開口一番それか。心配してくれないの?」
「心配しても構いませんが、その親切心をあなたは素直に受け取ってくれるんですか?」
「……うーん」
「ほらね」

 ツェッドが言うと、フアナは面白そうに目を細めて笑う。笑い声は次第に咳に変わって、フアナはカウチの上で身を捩りながら咽た。顔を赤くしてぜえぜえと苦しげに息をするフアナに、さすがにツェッドもその背をさする。

「ちょっと、大丈夫ですか?」
「げほごほっ、うえ、だいじょ、ぶ、……ふえ、ひゃ、――っくしょい!!」

 盛大なくしゃみのはずみで、ツェッドはカウチを滑り落ちた。床にぺたりと座り込んだフアナが、不思議そうな瞳でツェッドを見上げる。ツェッドは己が背をさすっている人物の顔を覗き込む。フアナはカウチに座ったまま、床に座り込んだフアナとツェッドに視線を行ったり来たりさせた。困惑気な瞳が、四つもツェッドを見上げている。

 状況を呑み込めないツェッドが何か言う前に、床に転がっていたフアナがぴょんと跳ねあがった。

「無性生殖だ!!!」

 目を輝かせてそう言うが、多分違うし、そうだとしても喜ぶような話ではない。

「やったー!! クラウスさんに自慢してくる!!!」

 部屋を飛び出そうとする床フアナの襟を寸でのところで捕まえる。

「うえ、何すんだツェッド」
「待って、待って、待って待って待ってくださいって! 何もついていけてないんですって! なんですこれ!? どういうことですか!?」

 泡を喰うツェッドの傍らで、カウチフアナがむうと唸った。

「分裂だ」
「無性生殖の話はもういい!!」

 ツェッドは悲鳴をあげた。


******

「――それで、」

 スティーブン・A・スターフェイズは、もはやフアナに関するトラブルを報告しても顔すら上げなくなった。ザップのように自業自得の痴情の縺れでも、レオナルドのような不運な巻き込まれ事故でもなく、わけのわからない謎を巻き起こすフアナは基本的に「死んだら呼んでくれ」とばかりに放っておかれる。

「フアナが無性生殖したって? おめでとう、念願が叶ったな」

 ぞんざいにそう言うと、ちらと視線をあげる。そこにフアナが二人立っているのを見て、スティーブンは目頭を押さえた。

「はあ、疲れているのか。フアナが二重に見える」
「あはは、霞み目ですか、あんまり無理されませんように」

 床フアナが言う。スティーブンがにっこりと笑った。

「フアナ、いったい何を拾い食いした? ツェッド、おまえ、ちゃんとフアナの面倒をみてくれ。フアナを拾うときそう約束しただろう」

 カウチフアナがむっとして言い返す。

「いつも拾い食いしているような言い方はやめてください。あれは、あの一度だけです」

 床フアナが首を傾げる。

「ツェッド、そんな約束があったのか」
「ありませんよ。スティーブンさん、ヤケになるのはやめてください」
「すまん」

 スティーブンの携帯端末がコール音を鳴らす、スティーブンは二人――三人? ――に目配せすると、端末を耳に当てた。

「はい、スティーブン。――ああ、Dr.エステヴェス。……ええ、――なに?」

 スティーブンはフアナを横目に見て、肩を落とす。

「ああ、ちょうど、目の前に罹患者がいる」

 りかんしゃ、とツェッドがその意味を理解する前に、事務所の窓硝子がばたばたと揺れた。窓のすぐ向こうを、救急ヘリがホバリングする。
 窓ガラスが割られ、何かが放り込まれた。煙幕弾であろうか、室内を白い煙が満たす。化学薬品臭が鼻を突いた。ツェッドは口元をおさえ、身を低くする。

「案ずるな、ツェッド」

 穏やかなスティーブンの声がした。ヘリについた拡声器から、電子音声が響く。

 ――エマージェンシー、エマージェンシー、生体兵器危機レベル4、周囲の汚染を確認、消毒を開始、罹患者を収容

 どかどかと乗り込んできた防護服の男達が、フアナを抱えてヘリに放り込む。ちょっと、と防護服の男の肩を掴むと、振り向きざま、男に首筋にガス圧式の注射針を刺され、何か薬品を注射された。煙の晴れた室内で、スティーブンも同じ処置を受けている。

「なんですか、一体」

 この数十分で何度この台詞を口にしただろうか。スティーブンは肩をすくめた。

「フアナはまた、とんでもないものを拾ったようだ」




 ――精神分裂誘起極小新生物

 それを聞いたツェッドは「なんですか?」と言いかけたのを飲みこんだ。今日はもうその台詞は在庫切れだ。
 搬送された旧ブラッドベリ総合病院の白い壁に、スライドが照射される。顕微鏡写真であろうか、インフルエンザウイルスのような不定な球状の物体が映っている。

「そう。異界のウイルスのようなものでね、感染力はそう強くないけど、ここ数日でどうしてか大発生してる」

 パソコンを操作していたルシアナが、にゅるりと分裂した。分裂した方がフアナの片割れに何か問診しているようだ。

「これは、生物の体内に入り込んで、その人格を分裂させる。このウイルスはグルメでね、そうやって、フルーツの皮を剥くようにして、その人の核となる超純粋な精神エネルギーだけを得て増殖する」

 ルシアナは二人のフアナを順に指差した。

「こっちは、冷静で知的なフアナ。それでこっちは、イカレポンチなトリックスターのフアナ。私に言わせれば、こんな両極端な性質が同居していたなんて信じがたいけど」
「よし、イカレたフアナの方は破棄してくれ」

 すかさずスティーブンが答える。ルシアナは「気持ちは分かるけど」と前置きした。分かるのか。

「それでもどちらもフアナの要素だから、排除することは出来ないんです」
「したらどうなる?」

 知的で冷静なフアナがそんなに得難いのか、スティーブンが食い下がる。ルシアナは首を横に振った。また、にゅるりとルシアナの体が分裂して、片一方は室外に走っていく。

「さあ、試した人、いないですから」

 それを聞いた床フアナ改めクレイジーフアナが、眉を上げて皮肉っぽく笑った。

「試す?」

 その言葉に、カウチフアナ改めインテリフアナが眉をひそめる。

「馬鹿だなあ、人格なんてある意味地層的に堆積されているものだよ。それはそのままその人の過去のようなものでしょう。都合が悪いからってそこだけ消えるかな」
「だからそれを試せるチャンスじゃないか!」
「カント哲学派って呼んでやろうか。生憎、私はアリストテレス大先生に倣ってテオリア重視なんだよ」
「ははは、アリスト・ファッキン・テレスせんせー」
「あれ? ケンカ売られてんの? 自分とはいえ腹が立つ」

 フアナとフアナの言い争いを聞いていると頭が痛くなる。インテリフアナが鼻を鳴らし、スティーブンの方に視線をやった。

「死ぬでしょうね」
「――は?」

 淡々と吐かれた不穏な言葉に、スティーブンは一瞬だけ表情を強張らせる。

「死ぬ。少なくとも、あなたがたの知るフアナっていう人間は死ぬ。それに、均衡を崩した精神は長くはもたないんじゃないですか。精神が死ねば、そのうち肉体も滅ぶ」

 スティーブンは額に手をやり深いため息をついた。

「おまえの冷静さ、たまに怖いとは思っていたが、やはり元のフアナの方がいいな」
「本当ですか? 私はすでにあいつをぶん殴ってやりたいと思っていますよ」

 インテリフアナがクレイジーフアナを指差すと、クレイジーフアナは笑ってひらひらと手を振る。その姿が空気に滲むようにぶれた。手を振るフアナの隣に、困った顔をしたフアナが立ち尽くしている。インテリフアナの方も、二人に分裂――この場合、厳格な生物用語としての分裂ではなく、一般的な言葉のあやとしての分裂だ――した。注射器を片手に室内に飛び込んできたルシアナの分身体が室内の一人と結合しながら声をあげる。

「まずい、ここから症状の進行は激烈です」

 ルシアナは光を透かす青色をした薬剤をスティーブンとツェッドに示した。

「これが、人格の分裂を止め、精神の統合を促す薬剤です」
「それをフアナに?」

 ツェッドが問うと、ルシアナが頷く。治療薬があるのにルシアナがすぐにそれを用いないというならば、何か面倒な理由があるのだろう。案の定、ルシアナはやや眉根を寄せて言葉を続ける。

「ただ、その人の核となる人格を宿した分裂体に投与しないとならない」
「間違えると?」

 スティーブンが囁くようにそれを口にした。
 ルシアナは淡々と答える。

「さっき、フアナが言った通りですよ。核が変われば別人だし、最悪精神の均衡が崩れる」

 あははは、とすでに8人になったフアナのうちの誰かが笑い声をあげる。

「その見分け方は?」

 広くはない処置室に、倍々ゲームで増え続けるフアナの声が幾重にもさざめいている。

「大抵は、子供の姿をしている。5、6歳くらいの。そして、司っているのはシンプルな感情のことが多いかな」
「……それだけですか?」
「それだけ」

 ツェッドは慌てて部屋から溢れそうなほど分裂してしまったフアナの姿を一人一人確認していく。7歳くらいのフアナと、ハイティーンのフアナが、創造説と進化論で揉めているが、あれは違うだろう。おそらく。
 10歳くらいのフアナが異国語の童謡のような歌を延々と歌いながらくるくるとその場で回っている。あれはどうだろう。年齢が高すぎる気もするが。
 ツェッドはおそるおそる尋ねてみる。

「ちなみに、治療の成功確率はどのくらいなんですか?」

 ルシアナは口元に手をやって視線を宙に向けた。

「そうね……おおよそだけど、人類では8――」

 少なくとも、8割は保証されているのか、とツェッドは胸をなで下ろす。だが、ルシアナは無情に先を続けた。

「パーセントかな」

 え? と、ツェッドはいっそ冷静になって聞き返した。

「はちぱーせんと、ですか?」
「うん、8%」
「成功確率、8%?」
「そうだよ」

 ツェッドは愕然とし、次いで脱力して傍らにいた15歳くらいのフアナに苦言を呈した。

「もう、本当に、そろそろ見捨てますよ」

 フアナは笑ってツェッドの頬を摘むと、ウインクを一つ残して人混みに消える。むむ、とルシアナが眼鏡のフレームに手を当てた。

「あれは、セクシーなラティーナのフアナ!」
「そんなのまであるんですか……」

 探せば色々あるものだ。ただの変人だと思っていたが。
 ルシアナはくるりとツェッドの方に向き直った。

「このウイルス自体は、感染力も増殖力も強くない。発症前のワクチン投与と、たとえ発症しても投薬治療で十分に押さえ込める。ただ、核となる人格なんて、本人にだってよく分からないでしょ。初対面の医療従事者になんて皆目見当もつかない。だから、それっぽい人格を捕まえて投薬するしかないんだよ」
「それで、成功率が8%ですか?」
「まあね、研究が進めばもう少し改善すると思うけど。ただ、単純な生存確率ならもっと高いよ。別人になってしまうだけで」

 ルシアナは、手にしていた注射器をツェッドに手渡す。ツェッドはそれを片手で受け取った。己の肌より濃い青に手のひらが透ける。

「だから、君が選んだ方が良い」

 ツェッドは瞠目し、真剣な面持ちでそう言うルシアナを見つめた。

「――でも、」
「少なくとも、この院内でフアナのことを一番分かっているのは君だよ」

 それは、多分そうだろう。手の中の注射器を見下ろすと、成り行きを黙って見ていたスティーブンが座っていたパイプ椅子で脚を組み直した。膝に、3歳くらいのフアナが纏わり付いている。

「そうだな。それに、ライブラとしてはフアナの能力さえ確保できれば、別人だろうが構わないしね。ほら、もういっそこの子を核にしたらいいんじゃないか。素直で可愛いし」

 スティーブンは幼いフアナを抱き上げる。きゃーと楽しそうな嬌声があがった。幼いフアナはご機嫌な笑顔でスティーブンの傷のある頬にキスをした。スティーブンも目を細めて、幼子らしいふくふくの頬にキスをし、頭を撫でる。楽しそうだ。
 ツェッドはこれは当てにならないとばかりにフアナの群れの方を見る。

「ええと、10歳以上のフアナはこっちで、小さいフアナはこっちに――ああ! 誰も聞いてやしない!」

 どの人格も人の話を聞かないのは共通しているらしい。数人がこちらに耳を傾けているが、あれらは候補から除外して良いだろう。我ながら、どうしてこんな奴と気があってしまったのか悲しくなる。
 ツェッドは意を決してフアナの群れの中に飛び込む。視界の端に見えたスティーブンが幼いフアナを膝に抱いてセルフィーで記念撮影をしていた。本当に楽しそうだ。
 幼い姿、というヒントだけでおおよその見当を付けていく。壁に貼られた人類や異界人の解剖図ポスターを熱心に見つめるフアナ、年上のフアナに遊んでもらって喜ぶフアナ、それと、さっきからツェッドの後を追いかけてじっと見つめてくるフアナ。
 ツェッドは、少女に視線を合わせて屈み込む。

「どうしました?」

 フアナは、大きな瞳をますます大きく見開いた。何か答えを言うより前に、小さな手のひらがツェッドの頬にぺたりと触れる。すごーい、と感嘆の声が上がった。

「おにいさん、つるつるしてるのね。不思議ね」

 フアナは興味津々といった様子で、ツェッドの頬や腕の鰭をつついて回る。細い指先がくすぐったい。

「とってもきれい! おにいさんは、魚なの?」

 フアナはずいとツェッドの顔をのぞき込んだ。幼いフアナの澄んだ瞳に、己の顔が映っていた。ツェッドは気圧され気味に答える。

「え、ええ……、半分だけですが」
「あと半分は?」
「……人間ですよ」

 多分ね、と付け加えるツェッドの胸に、フアナが歓声を上げて頭突きをした。ぐ、と息が詰まる。分裂したせいなのか、幼いためなのか、年相応のパワーであるのが救いだ。
 首に腕を回され、ぎゅうと抱きしめられる。

「人間なら、結婚できるね!」
「はい!?」

 思わず声の裏返るツェッドのことは気にせず、フアナはツェッドの手を握る。

「わたしが大人になったら、結婚してね。お願い」
「ど、な、……え?」

 喜んで、と答えないツェッドに、フアナは不満げに唇を尖らせる。

「申し出は嬉しいのですけれど、いったいどうして?」

 ツェッドが問うと、フアナはきょとんと目を丸くした。

「好きだから。きれいだもの」

 首を傾げてそう言う。ツェッドは緩む顔を押さえた。

 ――か、かわいい……! なんですかこのいい子は!!

 めちゃくちゃに可愛いわけだが。フアナ得意の謎理論ではあるが、無垢で幼い少女から発せられるとこんなに可愛いとは思わなかった。というか、フアナはこのくらいの歳から発想が進歩していないのではないか。それは如何なものか。
 他に幼い姿のフアナもいないようであるし、フアナに一番近いフアナはこの子のように思える。いや、もう、可愛いから違っていてもこの子でいいのではないか。可愛いし。
 ツェッドもスティーブンのことをどうこう言えない。

 しかし、核はおそらくこの子で間違いなさそうだ。さすがというべきか、幼くともその印象は強烈である。
 ツェッドは、後ろ手に注射器を持ち直す。

「ええと、フアナ、少しの間、目を閉じていてもらえますか?」

 フアナはぱっと目を輝かせる。

「ちかいのキスね!」
「え? ……ええ、いや、うーん?」

 フアナは瞳を閉じて、うーと唇を突きだす。その顔があまりに可愛らしくて、ツェッドは思わずポケットから携帯端末を取出し、カメラを起動する。数回撮影ボタンを押した後、ふと液晶の端に映る少女に気が付いた。
 年の頃は、7歳かそのくらいだろうか。部屋の隅で、誰とも関わろうとせず固く口を引き結んでいる。画面越しにあった目は、ふいと逸らされた。
ツェッドは携帯端末をポケットに戻し、その子に歩み寄る。

「ちかよらないで」

 少女は言った。拗ねた口ぶりに聞こえたが、表情は弱々しい。目だけがひりひりとした怒りを湛えている。
 ツェッドは溜息をつく。何への怒りか? そんなもの、聞かなくたって分かっている。

「なぜ?」

 ツェッドの問いかけに、幼いフアナは唇を噛む。

「なんでも」
「あなたが、僕を傷つけてしまうから?」

 フアナはツェッドを睨んだ。

「ちがう」

 ツェッドは床に膝をついて、その顔を見つめる。

「あなたの体が、思うようにならないから?」

 ――まったく、僕はなんて馬鹿なんだろう。
 ツェッドは苦々しい気持ちを抱えながら、小さくて柔らかい手を握る。怯えたように引っ込められそうになる手を、優しく、だが強く握って押しとどめる。
フアナの本質が見たまま陽気で奇矯なだけだったら、ツェッドはここまで彼女に惹かれていない。

「……ちがう」

 幼い唇がわななく。
 ツェッドにはフアナの抱える世界と己自身へのあてどなく遣る瀬無い怒りが、まるで自分自身のものであるかのように感じられたのだ。

「あなたが、世界で一人ぼっちだから?」

 ちがう、と答える声が震える。ちがう、ちがう、ちがう、と己に言い聞かせるように、フアナは何度も呟いた。
 ツェッドはその小さな体を抱きしめる。フアナの昔の姿などではない。ウイルスによる病巣のようなものだ。そんなことは分かっている。ただ、そうしたかった。それだけだ。

「そうですよ。あなたは一人ぼっちなんかじゃない」

 抱きしめた体の細い首筋に、注射器を当てる。ぱしゅ、と小さくガスが押し出される音がした。


******

「ねえ! ちょっと! フアナが子供になっちゃったって本当!?」

 ライブラ事務所でK・Kが黄色い声を上げる。本を読むツェッドの膝に足を投げ出して寝ていたフアナが呻き声をあげて目を覚ました。
 その姿を見て、K・Kは露骨に肩を落とす。

「いつも通りじゃないの!」
「へ? ごめん?」

 寝ぼけ半分のフアナが前髪を掻き上げた。フアナが起き上がる拍子に蹴飛ばされ、ツェッドはちょっと! と抗議の声を上げる。

「うわ、ごめん――起き抜けに謝ってばっかりだなあ。いったい何事」
「何事も何もないわよ! フアナが子供になっちゃって、それがまたソーキュートだっていうから飛んできたのに!」
「どこからそんなガセネタを」
「どこからって――」

 K・Kは携帯端末をフアナに見せる。そこに映るキス待ち顔の幼い己の顔に、フアナは目を丸くする。

「ワォ、こんなことになっていたとは……」
「え? なに?」
「いや、うーん、説明すると長くなるんだけど」

 言葉に迷うフアナの鼻先に、ツェッドの端末が突きつけられる。

「わたしはー、おおきくなったらー、おにーさんと結婚することをー、ちかいます!」

 ムービーの中で高らかに宣言するのは、どう見ても己である。姿は幼いが。それを見たK・Kは全力ではしゃぎ、フアナはヒイィとか細い悲鳴を上げた。

「愛情表現は結婚だけとは限らないんだぞ! しっかりしろ私!」

 言うべきことはそれなのか。

「写真ならスティーブンさんも同じようなものを持っていますよ。このフアナより、もう少し幼いフアナの」
「なんですって!」

 K・Kの視線が鋭くスティーブンの方へ向く。とんだとばっちりにスティーブンは身をのけぞらせた。

「ほら、今すぐ出しなさいよ腹黒男。きゃわゆいちびフアナの写真は公共財産よ!」
「そんな馬鹿な」

 フアナのささやかな抗議は聞こえなかったことにされる。

「い、いや、僕の写真は……」
「出、し、な、さ、い!」

 スティーブンは渋々スーツの胸ポケットから端末をだし、画面をK・Kの方に向けた。K・Kが悲鳴じみた声を上げる。

「い、いやー! フアナを抱いてるあんた、あまりにも犯罪者じゃない!?」
「いくらなんでもそれはひどくないか?」
「ひどくないわよ! きゃー、だめよフアナ! こんな男にそんなに無防備にすり寄っちゃ!」
「え? 私? ――あ、私か」

 エキサイトするK・Kにツェッドが油を注ぐ。

「スティーブンさん、小さいフアナがあまりにも可愛いから、プリミティブフアナを亡き者にしてその子に挿げ替えようとしてましたよね」
「ちょっと! それ本当なの!? この冷血ペド野郎!」
「ま、待ってくれ! あれは本当に冗談だったんだって!ツェッド、意外と根に持っているのか!? あれは、フアナのことならおまえに任せておけば安心だから――K・K! なんで勝手に画像を共有してるんだ!」
「でも気持ちはわかっちゃうー。ちびフアナあまりにかわいいわー。チェインにも送ってあげよ」
「ああ、私の痴態が……」

 フアナは頭を抱えて溜息をついていた。これで少しは懲りてくれるといいのだが、とツェッドは思う。きっとそんな日は来ないが。
 顔を上げたフアナとふと目が合う。あの子のように奥底に怒りを秘めた目をしていたが、弱々しく逸らされることはない。フアナはその目を三日月のように細めて笑うと、軽くウインクして投げキッスをツェッドに向けた。ツェッドはまだフアナのほんの一面しか知らない。普段はしないその仕草は、妙に様になっていた。