名状しがたきプラナリアのようなもの
ライブラの事務所でコーヒーを飲んでいたレオは、ふと目の前で同じくコーヒーを口にするフアナの姿に違和感を覚えた。普段と変わらぬ姿で、普段と変わらぬカップで、普段と変わらぬ様子である。肋骨剥き出しでなければ、内臓も零れておらず、首だってきちんと付いている。だというのに、何かがいつもと違う気がする。
まじまじと不躾なほどに観察してくるレオの視線に気づいたフアナは、さすがに眉をひそめてレオの方を見た。
「なに?」
「え、ええと、なんでもな――」
そこで違和感の正体に気付いたレオは「うわ」と短く悲鳴を上げる。
「フアナさん、なんか手おかしくないですか!? なにそれ!?」
指摘されたフアナは「ああ」と片眉を上げ、カップをローテーブルに置くと右手をひらひらさせた。指が7本、ぷらぷらと揺れる。
「たまにあるんだよね」
フアナは右手をテーブルの上で広げた。中央の一番長い指を中心に、左右対称に3本ずつ指が生えている。掌の両側面に親指が生えていて、騙し絵か何かのようだ。見れば見るほど混乱する。
カウチにだらしなく寝そべっていたザップがテーブルを覗き込み呻き声をあげる。まだ昨晩の酒が抜けていないらしい。
「ぐえ、気持ち悪ィな! カニかよ!」
「一般的なカニの脚は5対10本だよ」
フアナは中央の指以外を左右に開いてザップのほうに向けると「長寿と繁栄を」と言った。ザップはおそらく悪罵を呻きながら再びカウチに沈む。
フアナの隣に座っていたツェッドが興味深そうにフアナの右手を見つめた。
「先日、両手首の先を失っていましたよね。そのときに?」
「そう。で、左手はこう」
差し出された左手には指が四本しかない。同じ長さの指が2本ずつ左右対称に生え、親指があるべき場所にはつるりと何もない。
「親指が無いのって、想像以上に不便だよ。利き手でなくてよかった」
レオは感嘆とも呆れともつかない溜息をつきながら、フアナの指を眺めた。完全に左右対称の手指は、色や質感こそ人間のものだが不思議と機械部品的な趣がある。
「なんか、こう、名状しがたいぞわぞわ感がありますね」
「分かる。欠けたり過剰だったりの状態で最適化されてるの、我ながらすごく不思議。手足の指の数が増えたり減ったりはたまにあるんだよね。多分、回復の途中で何かがバグってるんだと思う」
それを聞いたザップがカウチから青い顔を上げる。
「ああ、だからおめー頭もバグってんだよ」
「一応伝えておくけど、今のは少し傷ついた」
フアナは顔をザップに向けることもなくあしらう。それからカップの持ち手を窮屈そうにもちあげると、コーヒーを口に含んだ。
右手でカップを持つフアナにツェッドは菓子皿を無言で差し出した。左手でそれを受け取ろうとしたフアナは見事に皿を取り落とす。ラグに落ちた皿が鈍い音をたて、キャンディやチョコレートの包みが床に散らばる。
フアナはツェッドを横目で睨んだ。
「……ね、親指が無いのって不便」
「すみません、今のはつい好奇心で」
フアナは鼻を鳴らして床に散らかったお菓子を拾い上げる。親指の無い左手ではお菓子を摘まみ上げることができず、その代わり右手の2本の親指を使って一度に2粒ずつ拾い上げていく。
その様子を見てレオは目を丸くした。
「へー、意外と器用に動くんですね」
「動かそうと思えばね。でもやっぱり意識しないと難しいな。慣れてないから」
最後のチョコレートの包みを多すぎる指で開けながら、フアナは答える。
呑気な様子にツェッドは溜息をついた。
「それ、どうするんですか? 放っておいたら治るものなんですか?」
「いや、放っておいても治らないよ。また作り直すしかない」
「――つまり、」
「手首を切り落とす」
レオとツェッドは同時に苦い顔をする。
「だから大抵は何かあるのを待つかな。以前、尻から脚が生えてきたことがあったんだけど――」
淡々と続けるフアナをツェッドが遮った。
「え、なんですか? 尻から脚?」
話の腰を折られたフアナは少し唇を尖らせて「そう」と答える。
「脚っていってもおたまじゃくしの脚みたいなしょぼいやつだけどね。尻尾みたいな感じ。あのときはしばらくスカートしか穿けなくて大変だった。まあ、前に生えてこなかっただけマシだと思うことにした」
「あ、ああ、情報量が多すぎて何が何だか……」
「とにかくそのときは、猛スピードで突っ込んできた車――多分車だと思う――に撥ねられて下半身が千切れて元に戻った」
「…………そうですか、よかったですね」
「心をこめろ、ツェッド・オブライエン」
ツェッドは額に手をやり深い溜息をつく。
「病院で切除してもらえばよかったでしょう」
「ひとつ、H.L.の医者は信用ならない。ふたつ、いつか治ることが分かっているのに医者に尻を見せたくない。みっつ、保険未加入だから医療費が馬鹿みたいにかかる」
「え、無保険だったんですか」
顔を引きつらせるツェッドにフアナは苦笑いした。
「君、変なとこ世間知らずだなあ。いいか、私は移民で、H.L.在住で、そこでバウンサーなんかやってるんだよ」
「ええっ!!! こんな状態からでも入れる保険があるんですか!!!」
レオの茶々にフアナは思い切り噴き出す。腹を抱えてひとしきり笑うと、レオにキャンディを投げつける。キャンディはレオの額にぶつかり、膝の上に落ちた。
「あ、あと、髪がすごく伸びちゃって大変だったこともあったなあ」
その状態に覚えのあったツェッドは驚愕の声を上げる。
「え! あれ、そういうことだったんですか。あなたが何も言わないから、またおかしな実験でもしたのかと思いましたよ」
「だって君が何も聞かないから」
「あのですね……いや、もういい、何でもありません」
「なんだよう、シナトベで髪切ってって頼んだことまだ怒ってるの?」
「怒っていません。呆れ果てているんです」
そこまで話すと、フアナは「あ!」と声を上げる。それだけでツェッドはひどく嫌そうな顔を隠しもせず「いやです」と即答した。
フアナはむうと唸る。
「まだ何も言ってない」
「駄目です」
「ねえ、ツェッド」
「絶対にいやです」
「シナトベで手首切ってほしいんだけど」
「諦めない人だな! 本当に尊敬しますよ!」
お願い! とフアナは7本指の手と4本指の手を合わせてツェッドを拝む。
「こんなこと君にしか頼めないし」
「あなたはそう言えば僕が何でも快諾すると思っていませんか?」
「そんなことない。君が私のお願いを快諾してくれたことがあったか?」
「あなたは僕が快諾できるような依頼をしてくれたことがあるんですか?」
フアナは両手首をぶらぶらさせながらこれ見よがしに拗ねて見せる。
「別にいいんだけどね。手首くらい次のお仕事でいくらでも駄目になる」
「なんだか不穏で不適切で不健康な台詞ですね。慣れた口ぶりなのがまた不吉」
「慣れてるから。でも自分で切り落とすのはなあ……」
フアナは顔をしかめると、おそるおそるといった様子で右手で左手首をつかむ。フアナであれば飴菓子を折るのと同様にたやすくそれを折り取ることができるだろう。
レオとツェッドは思わず固唾を飲んでそれを見守る。数度深呼吸したフアナは情けない声をあげながら手足を投げ出す。
「やっぱり無理! ツェッドー! そのへんのナイフとかでもいいからさあ!」
「普段は瀕死も厭わぬ血みどろ一番槍が、手首を切り落とすのがどうしてそんなに怖いんですか?」
「おっ、君もたいがい慣れてきたな」
というか、とレオは二人のやりとりに口を挟む。
「フアナさん、このあいだ取れかけた腕を「邪魔!」って自分で引き千切ってませんでした? そのあとその腕でチンピラをぶん殴ってましたよね」
「それは、ほら……多分テンション上がってたから……」
「じゃあ、今もまたテンション上げてバサッといっちゃったらいいんじゃないですか?」
「え、ええ……レオ、天才じゃん」
ちょっと! とツェッドが天井を仰いだ。
「今から僕、ものすごくまっとうなことを言いますよ。産業医に切ってもらえばいいでしょう」
レオとフアナが揃って「ああ」と呟く。
「確かに、今なら普通に医者が利用できる」
「よかったですね、スティーブンさんに相談するといいですよ」
「うん、そうする。わー、私外傷で医者にかかるの初めて」
「なんでウキウキしてるんですか」
フアナは勢いよく立ち上がると、書類に向かっていたスティーブンに歩み寄る。
「お忙しいところ失礼しますスティーブンさん。今ちょっといいですか?」
スティーブンは苦笑しながら書類から顔を上げた。
「ああ。経緯は全部丸聞こえだよ。とりあえず、手を見せてくれるかい、フアナ」
フアナは素直に両の手を差し出す。スティーブンはその手をまとめて握った。
スティーブンの骨ばった大きな手に包まれたフアナの手は一瞬で凍りつく。スティーブンは凍り付いたフアナの手を分厚く固い樫材のデスクに叩きつけた。
氷塊が砕け散り、フアナはただただ目を丸くする。「ふわ」と間の抜けた声だけがぽかんと開かれた口から零れ落ちる。
「悪いな、フアナ。うちの医療費はザップが圧迫している。恨むならザップを恨んでくれ」
「えっ? ああ、あー、大丈夫です。むしろ医者に行く手間が省けて助かりました……?」
フアナは微妙に釈然としないような顔をしながら5本指の生えた両手をぶらぶらさせた。手の裏表を検分して、ああと声を上げる。
「すみません、小指の爪がないんでもう一度だけお願いできます?」
差し出された左手の小指を、スティーブンは無言で握った。周囲に冷気が漂う。ぼきん、と音を立てて小指が折れた。
生えた小指をフアナは満足げに見つめる。
「ありがとうございます。また何かあったらお願いします」
「尻に足が生えたときは病院へ行ってくれ」
「そのときは下半身を切り落としてくれればいいんですけど」
「病院へ、行ってくれ」
「……はあ」
フアナはソファに戻ると、手のひらをツェッドの方に向けて「解決した」と嬉しそうに笑った。
ツェッドは、それでいいのかと一瞬思ったのだが、とりあえず「よかったですね」とだけ言う。今度またフアナの指が増えたり減ったりするようなことがあったら、自分がどうにかしてやるしかないと心に決めた。