紅茶、水溜り、眼鏡



 寒さの緩みはじめた二月の末のことだ。かつて文明の粋を極めた摩天楼は、異界の干渉によりひねこび湿度を帯び有象無象の巣と化していた。そのあわいを、春の気配に誘われた人々が背を丸め、コートのポケットに手を入れながらそぼそぼと歩き回っている。日差しは柔らかく、風はまだ刺すように冷たい、そういう季節だ。
 フアナはレンズの入っていない眼鏡の位置を何度も手でずらしながら、雨上がりのヘルサレムズ・ロットの路地裏を徘徊していた。傍らを歩くツェッドが携帯端末でスティーブンからの連絡を確認している。
「やっぱり、レンズが入っていないのが駄目なんじゃないかと思うんだよね」
 フアナは縁しかない眼鏡に指を通して見せながら、ツェッドを見上げる。ツェッドは肩を竦めた。
「そんなこと言ったって、度の入っていない眼鏡なんか用意がなかったんですからしかたないんじゃないですか」
 薬局で買った老眼鏡のレンズを外した即席伊達眼鏡を、フアナは気に入っていないらしい。
 明け方にライブラの主要な女性メンバーを召集したスティーブンが疲れた顔で任務の説明をする。最近ヘルサレムズ・ロットでは女性の失踪が相次いでいる。女性の素性に一貫性はなく、失踪者には異界人のマダムから人類の浮浪者までいる。共通点があるとすれば、失踪者が出るのは必ず雨が降った後であることと、失踪者が眼鏡をかけていることだけだ。
 ヘルサレムズ・ロットでは行方不明者など日常茶飯事であり、特別に捜査が行われるようなことはほぼない。だが、スティーブンがほのめかすには、ちょっと顔が利く何者かの娘が失踪したらしく、ライブラにお鉢が回ってきたという次第らしい。
 そういうわけで、眼鏡をかけた女性メンバーを囮に、雨上がり紐育失踪事件一斉調査が行われることになった。フアナも急拵えの伊達眼鏡を支給され、露地裏を宛てもなくうろつかされている。
 ツェッドはいかにも不慣れな様子でフレームをずり上げたり下ろしたりするフアナの横顔に「普段は眼鏡をしないんですか」と尋ねた。フアナはツェッドを顧みることすらせず「知ってるだろ」と答える。そりゃまあそうですけど、とツェッドは足元の水溜りを避けた。少なくともツェッドの知っている範囲でフアナが眼鏡をかけていたことはない。ということは、フアナが日常生活で眼鏡をかけていることは九割方ないということだ。
「視力、いいんですか?」
 フアナはタコスのケータリングカーの看板から垂れる雫を眺める。
「いい方だと思うよ。前に視力測ったときは三.〇だった」
「狩猟民族の方?」
 ”いい方”というのは謙遜が過ぎるのではないか。フアナは首を傾げる。
「でも最近測ってないからなあ……今は四.〇くらいかも」
「この話の流れで、視力が向上してることってあるんですね」
 おもしろ体質びっくり人間であるフアナに、たかが視力云々で言い募る事柄など大して無いのだが、雨上がりの当てどない散歩は退屈だった。
「君の毛穴まで見えてる」
「ないものを見ようとしないでください」
「それで、君は?」
 フアナがブーツで水溜りを横切ろうとするので、ツェッドはフアナの腕を引き水溜りを回避させる。信用がない、とフアナはぼやいた。信用も何も、今まさに水溜りに進入しようとしていた。
「視力ですか?」
「そう」
「必要なだけは見えてます」
 厳密には眼球の構造が人類とは異なるので、見え方も異なっているらしい。ふうん、とフアナは言うと、かけていた眼鏡を外してツェッドに差し出す。ツェッドは顔をしかめた。
「任務中ですよ」
「どうやら私は標的の好みじゃないらしい」
 ツェッドはセルフレームの垢抜けない眼鏡を手に取る。身に着けたことがない矯正器具に、興味がないと言えば嘘だった。ツェッドはフアナを真似てそれを顔に当てるが、位置が全く固定できないことに気が付く。戸惑うツェッドを見たフアナが、くっと目蓋を上げた。
「あ、君、耳がなかったんだ」
「眼鏡って耳で固定してたんですね」
 耳も鼻梁もないツェッドの顔には、眼鏡を固定するパーツが一つもない。落ち着く場所のない眼鏡は手で支えていないとすかすかと落ちそうになる。フアナが口元に手をやり何か考えながらツェッドの顔を覗き込む。
「レオみたいなゴーグルなら使えるんじゃない?」
「別に、必要はないで――」
 水溜まりを巻き上げながらケータリングカーが吹き飛ばされ、横転する。二人は同時にその場から飛び退り、ケータリングカーを吹き飛ばした存在を視認する。路上の大きな水溜りから、太いケーブルを何本も束ねたような触手と、針金を寄せ集め捩じったような鋭い鉤爪がブーケのように飛び出し、明確な意思を持ってこちらに襲い掛かってきていた。
「フアナ!」
 任務の目標は、誘拐犯の確保だ。殺してしまっては誘拐された女性たちの行方が分からなくなる。フアナは鉤爪の先端を掴むと、渾身の力で水溜りから鉤爪の元を引っ張り出そうとする。だが、鉤爪はびくともせず、フアナの前腕と胸元をずたずたに引き裂きながら引っ込められた。触手と鉤爪がずるずると水溜りに戻るのを見て、ツェッドは血槍を構え直す。
「ツェッド!」
 フアナがツェッドに向けて何かを投げる。ツェッドがキャッチしたそれは、回避の拍子に濡れたアスファルトに落とされた眼鏡だった。ツェッドは「遊んでる場合じゃないでしょう」「別に大切なものじゃないんですから」と言いかけたが「かけろ! 早く!」と鋭く叫ばれ、咄嗟に顔に押し当てる。途端に、水溜りに戻りかけていた触手が勢いよくツェッドに襲い掛かる。ツェッドはその先端を切り払ったが、急速に自己回復した触手が次々と襲ってくる。
 フアナは鉤爪を叩き折りながら、笑いだしそうな困ったような妙な表情をした。鉤爪には回復能力は無いらしい。
「私は好みじゃなかったけど、君は好みみたいだ!」
「なんです!?」
 ツェッドは次々に襲い掛かってくる触手を切り捨てるが、片手で眼鏡を固定したままでは普段の動きよりも精彩に欠ける。
 フアナは鉤爪を避けながらツェッドの足元に滑り込むと、尻ポケットからツェッドの携帯端末を掠めとる。
「自分のものは!?」
「忘れてきた」
 フアナはツェッドの左手から迫る触手を引き千切り、指紋認証パネルに自身の人差し指を押し付ける。液晶がぱっと明るくなった。
「な、なんでロック解除されるんですか」
「登録しておいたから」
「……そうですか」
「私のスマホも君の指紋で開くようになってる」
「もういいです」
 フアナはツェッドの携帯端末でスティーブンに通話を開始する。ツェッドはそれを横目にフアナの首を掻き切ろうとする鉤爪を強く跳ね上げた。
「フアナです。おそらく標的と思われる異界存在に会敵。攻撃性は高いです……いいえ、私は平気です。ツェッドが眼鏡フェチ触手のお眼鏡に適ったようで……そうそう、眼鏡だけにって、はは」
「手短にお願いできます!?」
 和やかに雑談に入りかけたフアナに苦言を呈する。フアナは携帯端末に耳を押し当てながらツェッドに片目を瞑って見せる。
「足止めは出来ていますが、確保は難しそうです。全貌不明の巨体で、引っ張り出そうとしましたが大きすぎて手に負えません。……オーケーです、誘導します」
 フアナは通話を終了すると、ツェッドのポケットに携帯端末を滑り込ませる。
「ライタイ広場まで誘導する。スティーブンが捕縛方法を模索中。もたせろ、色男」
「……なんか、いまいち気が乗りませんね」
「眼鏡ツェッドの魅力が分かるなんて、触手のくせに見る目がある」
「言い方……」
 ツェッドは、腹部に迫る鉤爪を横着して受けようとしたフアナの襟首を掴み攻撃の軌道から外す。乱暴に襟首を引っ張られたフアナは「うえ」と悲鳴を漏らした。ツェッドは溜息をつく。
「誕生日だっていうのに、なんて日でしょうね」
 軽口めいてぼやくと、フアナが「え!」と素っ頓狂な声を上げた。
「うそ! 今日二月二十九日!? うわ、マジか! 忘れてた! 言ってよ!」
「今言いました」
「遅い! 数日前からそれとなくにおわせてくれ!」
「なんでそんな恥ずかしいことしなきゃならないんです」
 二人は言い合いを続けながら、目標地点に向けて走り出す。二手に分かれ、攻撃を分散させるのは無しだ。攻撃はツェッドに集中している。ツェッドの眼鏡で敵を釣りつつ、片手の塞がったツェッドが対処しにくい攻撃をフアナが防ぐことにした。その程度の連携は、いちいち作戦を共有せずにこなせる程度には場数を踏んでいる。
 走りながらフアナは再びツェッドから携帯端末を奪うと、どこかに通話を始める。
「あ、ビュゼ? フアナだけど……今日、十九時からいいかな? 席だけでいいから。そう、二人。……よかった、ありがとう! 出来ればでいいんだけど、ちょっとしたバースデーケーキお願いできるかな? 小さいのがいい。……やった! 急でごめん! 愛してる! それじゃあ!」
 フアナは端末をツェッドに戻し「ディナー奢る」と言った。
「今やるべきことですか?」
「すぐやらないと忘れるんだよ!」
 勢いのままにフアナは鉤爪を裏拳で破砕する。任務は忘れていないようで何よりだ。フアナは触手が溢れる水溜りを見ながら「舗装が壊れてはいないみたいだ」と呟く。ツェッドは鼻を鳴らす。触手は距離を放すと一度消え、近い水溜りから再び現れる。地下に潜んでいるわけではなく、水溜りをゲートに異界から出入りしているようだ。
「先に行っていて」
 フアナは言うなり、戦線を離脱する。何か考えがあるのかとフアナの行き先を目で追うと、フアナは道端の花屋で花を買っていた。え、今? とツェッドは苦言を呈するのも忘れてその姿を目で追う。フアナが指差す花の入った大きなポリバケツから、鉤爪が飛び出す。花屋が悲鳴を上げ、引き裂かれた花がばらばらと路上に散らばった。
「うわ、すみません。これバケツごと買います」
 フアナは十分な紙幣を花屋に押し付け、無傷のラナンキュラスを数本拾うと、走ってツェッドに追いつく。
「……もう何も言いません」
「分かってる、花屋に悪いことした」
 フアナはバケツからうねうねと溢れ出し、あたりを窺うようにのたうつ触手を見て目を細める。
「ツェッド、ライタイ広場より本部の方が近い」
「それがどうしました」
「考えがある! 本部まで誘導する!」
 フアナは言うなり進路を変更した。ツェッドは慌ててフアナの後を追う。
「考えというのは?」
「バケツから出てきた触手、サイズが小さかった」
 それを聞いたツェッドはすぐに合点がいった。
「上手くいきますか」
「君の魅力次第だ」
「責任重大ですね」
 二人は路地裏をいっきに駆け抜け、ライブラ事務所のあるストリートに向かう。ツェッドはスティーブンに電話し、異界存在とともに事務所のセキュリティを通過させてほしいことと、コップ一杯の水を用意してほしいことを連絡する。確信ありげなツェッドの声に、スティーブンは多くを聞かずにそれを了承した。
 舗装の悪い路地裏と違い、比較的道路状況のいいストリートに水溜りは少ない。あってもごく小さいものだ。そこから現れる触手は、明らかに路地裏で会敵したものよりも小ぶりだ。
 走りながらフアナが「まずい、この先、水溜りが無いかも」と呻く。道端に倒れた異界人の血だまりから溢れ出る触手を見て、ツェッドは背後の消火栓を破壊する。突然大量に噴き出た水から、文字通り水を得た魚のように巨大な触手が躍り出る。
「さすが! でもやりすぎ!」
「大は小を兼ねるって言うでしょう」
「何にでも適性サイズはあるだろ」
 水詮から噴き出す水を浴びながらライブラ事務所に続く階段を駆け下り、ドアを勢い良く開け事務所内に転がり込む。ドアを開け放ったままフアナが「水は!」と叫ぶと、待ってましたとばかりにギルベルトがトレーに載せた紅茶を差し出してきた。フアナは目を丸くする。
「え、紅茶?」
「飲み物をと仰せつかっていましたので」
「いや違います、水がほしくて……」
 ギルベルトとフアナはしばし真顔で見つめ合う。ギルベルトが素早く「失礼しました、水を持ってまいります」と言いかけるのと同時に、紅茶の水面が漣立ち、イソギンチャクのように小さな触手がカップから溢れだす。フアナはそれを掴み、カップから引きずり出す。ずるずるずるずる、とイソギンチャクを背負ったヤドカリのような姿の異界存在が引っ張り出され、フアナの手に絡みつきながらじたばたしていた。
 一部始終を見ていたスティーブンが拍子抜けたような顔で「そいつが眼鏡フェチ触手か?」と言うので、フアナは無言でヤドカリをスティーブンに投げ渡した。
 ずぶ濡れのフアナは髪の水分を絞りながら、ツェッドによろよろと近付く。手の内で若干よれたラナンキュラスの花を、フアナはツェッドの胸元に押し付ける。
「誕生日おめでとう」
「……どうもありがとうございます」
「あと連絡はもっと正確にしてくれ」
「それはすみません」
 書斎からそっと顔を出したクラウスが、ツェッドに可愛らしいバースデーカードを握らせた。それを受け取ったツェッドはクラウスに丁重に礼をした後、フアナに向かって「忘れていたのはあなただけです」と言う。フアナは「ごめんて」と濡れて重くなった上着を脱いだ。


 *


 その後、イソギンチャクヤドカリにはライブラお抱えエリート尋問官による適性な「取り調べ」が行われ、誘拐された女性たちの所在はすぐに知れた。女性たちは全員無事で、誰一人怪我もしていなかった。唯一誤算であったのは、眼鏡フェチ触手はあれでなかなかどうして情熱的な紳士であったらしく、何人かの被害者は触手のもとに残り眼鏡ハーレムの一員となることを望んだらしい。
 それを聞いたフアナがスティーブンに「顔の広いお偉いさんのお嬢さんは?」と尋ねると、スティーブンは苦笑を浮かべて首を傾げるだけだった。