イクシオサピエンスは電気海月の夢を見るか(3)








フアナ:やばい [15:38]

ーー何が?[16:42]

フアナ:すごい本買った。1950年代からの心霊写真集[16:58]

ーーそれは……面白いんですか?(・・;)[17:12]

フアナ:少なくとも私は[17:18]

ーーそうですか。よかったですね[17:22]

フアナ:一緒に見なきゃ[17:24]

ーーなんでですか?[17:26]

フアナ:一人だと怖いからです[17:26]

フアナ:お願いいたします[17:26]

フアナ:ご一考ください[17:26]

ーーいいですけど[17:33]

フアナ:やったー[17:38]

フアナ:お酒好き?[17:39]

ーー嫌いではないですよ(*゚▽゚*)[17:42]

フアナから着信があります[17:43]


「飲み行くかー」


 そういうことになった。


******




 若者向けの安い飲み屋の薄い酒をいっきにあおるフアナの白い喉が、オレンジの光を反射した。

「よし、軽く脳の働きを鈍らせたし、心霊写真鑑賞会といきますか!」

 素直に、変な人だと思った。あの日、喫茶店で「普通の人だ」と思った自分を殴ってやりたい。
 しかし、その奇矯な言動を除けばごく普通の人類でしかないフアナが、よく二年あまりもヘルサレムズ・ロットで暮らしているものだ。
 理由を、手段を、聞きたくないわけではない。だが、フアナがツェッドのことを一切聞かないものであるから、ツェッドもフアナのことを聞けずにいた。
 最初は、その突き放し方が心地よかった。だが、今では、ほんの少しだけ、自分のことを知って欲しいと思う。仲間にさえ話したことのない、己のことを。

「うーぉお、この時代の幽霊は自己主張はげしいなぁ! 見てこれ! あんまりはっきり写ってて、逆に全く怖くない!」

 うははは! と頓狂な笑い声をあげながら、フアナはツェッドにセピアの写真を示す。タキシードを着込んだ髭の男と、白いドレスを着た女が三人写っている。
 写真のキャプションを手で隠しながら、フアナがその写真をずいとツェッドの方に押してきた。

「さて、どれが幽霊でしょう?」

 ツェッドは写真の四人を順に見比べる。かすれた古い写真なので、どれも幽霊に見える。その中でも、いっそう生気のない表情に見える女を指差した。

「これですか?」
「残念! 正解は真ん中の男以外全員幽霊でしたー! やーい!」
「勝ち誇っているところ悪いのですが、全く悔しくありませんね」
「わははは!」

 笑い、フアナは二杯目のグラスを空ける。ペースが早いものだから、ツェッドもつられて飲んでしまう。
 そうであるから、写真集を読み終わり、それぞれ二回ずつお手洗いに立つ頃には、二人ともしたたかに酔いが回っていた。
 鼻歌まじりに本の奥付を指でいじるフアナは、それでも話す言葉は明瞭で顔色も変わらない。だが、所作が全体的にとろついている。

「いや面白かった」

 そう言うと、また一口、酒を口に含む。その様子をぼうと見ていると、フアナはわずかに右眉を上げた。

「君には退屈だった?」
「いえ、ただ、あなたがオカルトに興味があるのが意外だっただけで」
「いいじゃん。オカルト、好き。君は幽霊がいると思う?」

 唐突に問われ、ツェッドはどう答えるべきか迷った。

「……どうでしょうか。あまり、信じてはいないかもしれません」
「君、こんな、なんでもありの街で、日々超科学や魔術を目の当たりにしながら、おばけは信じないのか」
「あなたは信じているのですね」
「いや、びみょー」

 その答えは、話の流れ的にあり得ないだろう。というツェッドの視線を感じ取ったのか、フアナは本とグラスを置き、両の手を降参というように挙げると釈明をはじめた。

「幽霊とかおばけとか霊魂とか精霊とか、まあ、なんでもいいんだけど、そういう面白おかしい怪談を信仰してるわけじゃないんだ。ただ、ヘルサレムズ・ロットはなんでもありだし、臓器移植も培養も、果ては生物無生物に命を吹き込むことまで出来るけど、命そのものを作ることは出来ないんだよ。精巧な人工臓器を精緻に組み上げても、意思を持って動き出すことはない。じゃあ、そこに、何かあるんじゃないかなと思う。それが、幽霊とか、霊魂とか、そういうものなのかなって」

 フアナは、はたと何かを思い出したかのような顔をした。

「あれ? 私がヘルサレムズ・ロットに来る前、何をしてたか言ってた?」
「いいえ」
「研究所職員」
「なんのです?」
「生命工学。まあ雑用と単調な実験ばかりしてたけどね。バイオ土方だよ。だから、生きてる私と、死んでる臓器人形の違いには、結構興味があるかな」

 それは、意外である。なんとなく、フアナは科学からかけ離れた人間に感じていた。

「でも、大崩落が起きて、諸々の高度な科学技術が流れ込んできて、こりゃ人類が逆立ちしたって追いつけないなと思ったし、自分の研究に意義が見出せなくなって、まあ、仕事の単調さにも飽き飽きしてたし、仕事は辞めてこっちに来た。それに、異界のわけのわからん生き物に囲まれていた方が、息がしやすい」

 何と答えたらいいか分からず、ツェッドは黙ってフアナを見つめた。

「あ? ああ、待って、なんの話だった? そうか、幽霊の話か」

 いやなんか急に昔話なんて始めちゃったなー恥ずかしい、とフアナは笑う。話題が変わりそうになり、ツェッドは咄嗟に口を開いた。

「僕はーー」

 口火を切ったはいいものの、何から話したらいいかわからず、ツェッドは手の内のグラスをしばらく見下ろしていた。フアナが何か話し出してくれないかとわずかに期待したが、フアナは黙って先を促すようにツェッドを見ている。真摯な視線が、今は、痛い。

「僕、はーー」

 その先が、続かない。

「うん」

 フアナが小さく相槌をうった。

「作られたんです」
「ほう」

 フアナは興味深そうに姿勢をただした。だが、それ以上は何も言わない。

「異界の存在に。人類と魚類の交配種として」
「なるほど。そういうことね」

 何がなるほどなのか、そういうことがどういうことなのかは分からなかったが、フアナは呟くと、黙って手を差し出してきた。

「……なんですか、その手は」
「いや、ちょっと、手、触っていい?」
「…………は?」

 ツェッドはおそるおそる右手を差し出す。その青白い指先を、フアナは軽く握った。基礎体温が違うせいか、ひどく熱く感じる。

「何してるんですか?」
「手、綺麗だ」
「はあ……」

 フアナの手が、ツェッドの指をなぞり、握った。

「指が長くて、手の平が大きい。青くて透き通ってて、ああ、これ、水かき?」
「そうでーーちょっと、くすぐったいんですけど」
「あー、指、長いなー。綺麗だ」
「さっきも聞きました」
「効率的に水を掻くためかね」
「知りませんよ」
「素晴らしい。機能美だ」
「触りすぎです」

 手の甲を撫でさすってくるフアナの手を叩き落とそうとすると、フアナはするりとそれを避けて、ツェッドの手を握った。

「君、すごく綺麗だ。好き」
「……は?」

 なんだそれは。

「君を作った人、どういうつもりで作ったか知らんけど、すごいセンスある」
「そうですか」
「綺麗だ。美しいと思うよ。なあ、私はね、人類は異界のものに科学や魔術や、腕力でさえ負けているけれど、美しいものを作ることと、美しいものを愛でることにかけては、他の追随を許さないと思う。だから、君を作ったのが異界の存在だというのは、なんだか、すごく、ーーすごく、嫉妬してる」

 ふざけているのかと思ったが、その目が真剣そのもので、ツェッドは彼女の手を振り払うことができなかった。話している内容こそ意味不明なものであるが、夜も更けて飲み屋のテーブルで手を握る男女ーー男女、だ。一応ーーが、どう見られるか、ツェッドは気が気でない。

「綺麗だなー。いいなー。腕も、綺麗。何それ、ちょっと触らせてよ」
「……どうぞ」

 そろり、と、それこそ高価な美術品でも触るように、ツェッドの前腕にフアナは触れる。

「鍛えてる? スポーツとかやってるの?」
「……そんなようなものです」
「水泳?」
「イメージだけでものを言うのはやめていただきたい」

 ちがうのか、とフアナは独りごちる。

「顔」
「次はなんですか」
「顔、触っていい?」
「ダメです」
「ケチか」
「そういう問題じゃないでしょう」
「おねがい」
「ダメです」
「なあなあ」
「ダメですよ」
「ちがう。手、かじってみていい?」
「くず餅じゃありません!」

 ツェッドはようやくフアナを手から引き剥がした。

「なんだよー、触らせろ!」
「なんで触らせなきゃないんですか」
「好きだから。触りたいと思ったから」

 ツェッドはフアナの面持ちにぐっと言葉を詰まらせたが、はあと溜息をついた。

「フアナ」
「なに」
「酔ってますね」
「割と」


 チェックを済ませ、外に出る。夜空は相変わらず霧に覆われていて、星の光の一つも見えない。そのかわり、正体の分からぬ不気味な光が、そこかしこで瞬いていた。

 フアナの足取りはややふわふわしているが、それなりにしっかり自立している。それなのに、ツェッドの手を離そうとしない。

「いいね、ひんやりして、形も綺麗で、私は海を実際に見たことはあんまりないんだけど、海を人の形にしたら君みたいなのかもね」
「もういいでしょう。今日で僕はもう一生分褒められた気分です」
「だめだよ。美しいものに美しいと言うのは人類の義務だよ。そうでしょ? 好きなものに好きと言わないと、そんなのは嘘だ。そんな、硝子越しの人生みたいなの、一つも面白くない」

 そうでしょ、と、言われても困る。

「ああ、もう、ほら、寄っかかってこないでください。ちゃんと歩いて」
「あー!だめだ!」
「今度はなんです!」

 もはやフアナの一挙手一投足に戦々恐々である。急にフアナが大きな声をあげたので、ツェッドはびくりと肩を震わせた。

「酔ってる」
「そうでしょうね!」
「そして酔いがさめてきた」
「それでですか?」

 うるせぇ、とフアナはツェッドの手を振り払い、額に手をやった。
 こんな酔っ払いに、あんな話をするんじゃなかった、とツェッドは思う。これでは、明日、話の内容を覚えているかも定かではない。

「あんな話、するつもりじゃなかった」

 掠れた声で、フアナは言った。己の内心を見透かされたのかとぎょっとしたが、フアナは額に手をやったまま、続ける。

「いやほんと、恥ずかしい。異界の科学力を見て、自分の仕事を投げ出すなんて。他の研究者は、異界の技術も取り入れてる。人類独自の技術を生み出そうとしてる人もいる。私は、私だけは、諦めたんだ。ほんと、だめ。もー、諦めは人を殺すんだよ」

 手で隠れて、表情は窺えない。

「私は、ヘルサレムズ・ロットに来て、暮らしやすいと思った。でも、来るべきじゃなかったのかもしれない。なんだか、負けた気がする」
「何にですか」
「うーん、自分? もしくは世間」

 はぁ、と息を吐く音が聞こえた。額から離れた手が、またツェッドの手にゆるく触れる。

「誰かに触れていると、生きているって実感する」
「そういうものですか」
「うん、人間らしい仕事を捨てて、ヘルサレムズ・ロットで動物みたいに生きることを選んだとき、人類としての私は死んだんだと思う」
「……今は、仕事は何を?」
「ナイトクラブのバウンサー」
「バウンサー!?」

 それは意外すぎた。そもそも勤まるのかすら知れない。こんな、威圧感のいの字も無いような外見で、人類の女の身で、魑魅魍魎が跋扈するヘルサレムズ・ロットで用心棒など、可能なのだろうか。

「嘘でしょう」
「嘘じゃないよ。良くない客をボコボコにするだけのゴリラでも出来る簡単なお仕事」

 それはゴリラに失礼か、とフアナは空笑った。やはり冗談だったのか、とツェッドは肩を落とす。

「ああ、私、こっちだ。じゃあね、楽しかった」
「一人で大丈夫ですか? 送りましょうか?」
「送り狼か」
「違いますよ」
「送りオオカミウオか」

 呆れて黙り込むツェッドに、フアナはひらひらと手を振った。

「大丈夫だよ、君よりずっと長くここに住んでる」
「……そうですか」
「また、ね。今度は君のことを聞きたい」
「話したでしょう」
「もっと」

 それじゃあ、ばいばい、と霧の向こうに消えかけたフアナを、ツェッドは呼び止めた。振り返るフアナはけぶる霧で薄れて見える。

「一度死んだのなら、なんでも出来るでしょう。昔の自分はどうにも出来ませんが、今の自分とこれからの自分は変えられる」

 虚空に向かって話しているような気さえした。濃い霧が蠢いて、フアナの低い笑い声が、かすかに聞こえる。そうだね、と、答える声が、夜陰に溢れて消えた。