イクシオサピエンスは電気海月の夢を見るか(6)





 夜のヘルサレムズ・ロットは、暗い沼のように静まり返っているか、小さな箱の中で花火を炸裂させたかのように騒がしいかの両極端である。
 フアナがバウンサーとしてゲートに立つナイトクラブも騒がしいが、それでも近隣の若者向けのクラブに比べれば静かな方である。ほんの少しの高級感がウリの店、らしい。フアナは営業中の店内に入ったことがほとんどないからよく分からないが。

 入場者のIDをチェックし、ゲートに通す。泥酔した客を断り、店先の喧嘩客を追い払う。ただそれだけの仕事だ。
 それだけ、とはいえ危険であることには変わりない。現に前任者は3ヶ月で死んだらしい。給料も、悪くない。

「フアナ、最近、明るいな」

 傍に立つ異形が、そう言った。フアナと揃いの黒服を着たそいつは、ステロイドを注射された雄牛とブルドッグの合いの子のように狂暴な外見こそしているが、その実、風船のように軽い体で、性質も穏やかだ。血管の浮き出る膨れ上がった腕から繰り出されるパンチは、まるでふわふわのぬいぐるみをぶつけられたかのような衝撃である。
 フアナだけでは見た目の威圧感に欠けるために雇われたのだ。

 フアナは笑って首をかしげる。

「そうかな」
「ああ、雰囲気が変わった」
「友人が出来たんだ」
「そうか、友達は大事だな。どんな奴だ」
「妙に博識な半魚人」
「おめえ、頭いいもんな」
「どうも」

 君は阿呆だよね、とは言わないでおく。
 昔から本が好きだった。映画も。多分、物語が好きなのだ。幼い頃は他者と己の差異をよく理解出来ていなかった。だから、色々な人と衝突し、結果、内に籠るようになった。
 他者と上手く付き合えぬフアナには、物語は救いであった。作られたお話だけでなく、美しい絵や、思想や、歴史や、神話や、そういうものの根底に流れる物語に取り憑かれていたのだ。
 そこには、己の得られぬ世界があり、光があった。
 やがて歳を経て子供らしい素直さと独尊を失ったフアナは、他者とつつがなく付き合う方法を知ったけれど、長い間物語にのめり込んでいたフアナとそうでない普通の人々の間では、其処此処に埋まらぬ齟齬があった。
 どこが、とは言えない。ただ、同じ見た目で、同じ言葉を話し、塩基配列まで同じはずの他者が、ときにぞっとするほど己と違う考え方をし、己を排斥しようとするのが、なんだかひどく、怖かった。


「しかし、半魚人たあ、フアナの人類嫌いも相当だな」
「……別に嫌いなわけじゃないんだけどなぁ」
「そうなのか? 他の連中も言ってるぜ。フアナは人類のくせに人類嫌いだって」
「えー、そんなに噂になってんの?」
「ああ、だから、こんな人類の寄り付かねぇとこで働いてんだろ?」
「まあそうなんだけど。嫌いなわけじゃないんだよ」
「じゃあなんだよ」
「怖い」
「おめえ、天下無双の剛腕のくせに、あんなひょろっこい人類がこええのか?」
「怖いよ。すごく怖い」
「おれぁツラがこええとはよく言われるけどな」
「たしかに、怖いね」

 フアナは首を振りながら笑う。

「でも、君と私は全く違うから、私にも心の準備が出来てるんだよ。人間相手だと、なんというか、分かり合えるんじゃないかと期待してしまってね、怖い」
「こええのか」
「怖い。自分と全く違う生き物が理解出来ないより、自分と同じ生き物が理解出来ない方が怖くない?」
「そうなのか」
「うん、自分がおかしいんじゃないかと思う」
「そりゃ、フアナはちぃっとおかしいな」
「君に言われても全然痛くない」

 君こそなんだよ、そんなナリでふわふわのパンチしか打てないなんて。と、フアナは黒服のはち切れそうな胸を軽く手の甲で叩く。

「しかたねぇだろ、そういう生き物なんだ」
「……そうか。そういう風に言えるのは、いいね」
「そうかあ?」
「少なくとも私は、君のそういう愚直さは好きだ」
「へっへ、あんがとよ」

 照れ隠しなのか、肩を強めに叩かれる。ふかふかの枕をぶつけられたかのような感触がした。
 異形は紙巻タバコに火をつける。「就業中」と言うと、堅いこと言うなとあしらわれた。

「あーこの仕事やめっかなぁ」
「それがいいよ、君には向いてない」
「まあ、おれのふわふわパンチじゃ酔っ払いのガキ一人追い払えないからな」
「私もそろそろ職を変えるかなぁ。日の出とともに帰宅する生活はもううんざりだよ」
「ほんとにな。おれぁ、ハンドメイドのぬいぐるみ工場に転職しようかと思ってんだ」
「いいじゃん。君、器用だしね」
「そうだろ? その工場のハルハマナ*◯×△?□のぬいぐるみがまた素晴らしいんだ」
「なに? なんのぬいぐるみだって?」
「ハルハマナ*◯×△?□」
「……ああ、なるほどね」

 タバコをふかしているのが人類のフアナから見れば鼻の穴でしかないので、大きな鼻の穴から小さな紙巻タバコが突き出し煙を上げている光景は、若干シュールだ。

「最近この辺物騒だしな」

 タバコの煙を鼻の穴から出しながらそう言われる。ーータバコを吸いながら話せるから、意外に合理的なのかもしれない。フアナは非喫煙者であるから断定は出来ないが。

「みたいだね、この間はガス管だっけ?」
「その後ーー4日前か? 道路がいきなりへっこんじまって、結構死んだってさ」
「ギガナントカ伯爵のせいじゃないの?」
「ギガ・ギガフトマシフな」
「それ」

 とにかく、ここでは不可思議な事件にいちいち首をひねっていては、すぐに首がねじ切れる。
 ふ、とツェッドのことを思い出した。

「物騒だから引越ししろってすごく言われてるんだよね」
「親にか?」
「いや、友人に」
「いいダチじゃねぇか」
「まあ、ね」

 でも、ヘルサレムズ・ロットでちょっと住むところを変えたくらいでね、とフアナは言いかけたが、客が近付いてくる気配がしたので、口を噤んだ。眩しいネオンの逆光で、シルエットしか見えない。
 結局、その人影は客ではなかったようで、目の前を通り過ぎようとした。店先のライトでその姿が照らされ、フアナは目を丸くする。

「ツェッド?」

 呼び止められた人影ーーツェッドも驚いたような顔をしてこちらを振り向いた。驚愕の表情は、しかしすぐに怒りと焦りに塗り替えられる。ツェッドは大股でフアナの方に詰め寄った。

「こんな夜中に、危険でしょう!」

 ツェッドの剣幕にフアナはやや仰け反ったが、親指で自分の胸を2度指す。

「仕事だって」

 ツェッドは渋々といった調子で3歩下がり「冗談じゃなかったんですか……」と呟いた。

「冗談は言うけど、嘘は言わないよ」
「ずいぶん下手くそな冗談だと思ってたんですよ。だいたい、人類で女性で元研究者のあなたがどうしてバウンサーなんて勤まるんですか」
「それは話すと長くなるから今度飲みに行こう」

 フアナが言うと、ツェッドは深く溜息をつく。

「何時までです?」
「うん?」
「仕事」
「明け方になるよ」
「待ちますから。送ります」
「近いから大丈夫だって」
「送らせてください」

 ツェッドの必死な面持ちに、さしものフアナも折れた。


******





 日の長い季節であるから、霧に覆われたヘルサレムズ・ロットでも、明け方の西の空はほのかに明るい。黒服から私服に着替えたフアナは、青白い肌にネオンの光を反射させるツェッドの姿を見つけて駆け寄った。

「本当に待っててくれるとは思わなかった」
「僕だってあなたが本当にバウンサーなんて思わなかったですよ」

 しつこいな君も、とフアナは眉尻を下げる。
 歓楽街であるから、暁時とはいえ人通りはそれなりにある。先ほどから女の肩を抱く男や、足元のおぼつかぬ異界存在や、何か吐瀉物のようなものを吐く吐瀉物のような生き物や、そういう者たちとすれ違った。

「勝手に冗談扱いするなんてひどいや」

 見た目だけで他者を推し量れないのがヘルサレムズ・ロットではあるけれど、目立った武器もなく、人類だと名乗る女が弱者とみなされるのは致し方ない部分もあるのだが。

「でも、君の職場もなかなか怪しそうだから、おあいこだよ」

 急に住む場所にケチをつけだしたり、危険だと言い出したり、かといってその事故の話になると口を噤んだり、職場に現れたり、怪しいことだらけだ。
 そう言うと、ツェッドはそういえばと話題を変えた。逃げたな、とフアナはツェッドの横顔を見上げる。嘘や誤魔化しが、とことん下手であるようだ。

「恋人なのかと聞かれました」
「君と私が?」
「ええ」
「なんて答えたの?」
「友人だ、と」
「なるほどね」

 何気無く答えたのだが、ツェッドはひどく不安そうな顔をして、こちらを覗き込んできた。

「いけませんでしたか?」
「そんなことないけど」

 ツェッドはしばらく黙り込み、向かいから来る酔漢を軽い足取りで避けた。

「世間一般的には、恋人なのでしょうか」

 そう問われ、フアナは目を丸くしてツェッドを見返した。彼が、そういうことを気にするタチだとはあまり思っていなかった。

「どうなんだろう」

 食事をして、話をして、時には映画を観てその感想を論じて、恋人といえば恋人なのかもしれない。

「でも、もし私が男で、ーーいや、君が女でもどっちでもいいんだけど、そうしたら、そんなこと言われないと思うんだよね」
「そうでしょうね」
「なんで異性だと言われるのかな」
「……どうしてでしょう」

 いやだね、と誰に言うでもなく呟くも、そうですね、と独り言のように返された。

「僕はフアナのことを好ましく思っていますけど、それが人類が異性に向ける感情と同じなのか、よく分からないんです」
「うん」
「僕は人類じゃないから」
「そうだね」
「同族がいないから、規範も手本もない」
「不便だ」
「そして、なんだか、ひどくーー」
「孤独だ」

 フアナが言葉を継ぐと、ツェッドはええと嘆息した。

「人類でも異界存在でもない僕は、結局どちらも理解出来ないままなのでしょうか」

 ぽつり、と呟かれた言葉に、フアナはゆるゆると首を横に振る。

「それは違うね。私は人類で、私の周りは人類が掃いて捨てるほどいたけど、私が理解出来た人はほとんどいなかったし、私を理解した人は皆無だった」

 ツェッドは小さく笑った。

「フアナは、少し変わっていますから」

 その言葉に、ずくん、と胸の奥が痛むような気持ちになる。

「どこが変わってると思う?」

 思わず詰問口調になると、ツェッドは口ごもった。

「どこ、と言われても。言動ですかね」
「何か変わったことをしているつもりも、話しているつもりもないんだけどね」

 変わっていると言われるのは、好きではない。何か自分が異物のような気がするから。

「皮膚を隔てた2個の生き物である限り、人と人は完全に分かり合えないよ。脳に直接電極でも埋め込まないとさ」

 同じ種族で同じ環境に育ち同じ教育を受け、なんとなく分かったような気になるだけだ。
 ツェッドは言葉を選ぶようなそぶりを見せ、訥々と言葉を連ねていく。

「僕はフアナと種族すら違いますし、変な人類だなと思ってますけど、それでもあなたのことを理解したいと思っています。理解し、出来たら、寄り添いたいと」

 フアナは、一瞬瞠目し、次いで小さく呻いた。

「うわずるい」
「何がですか!?」

 人がせっかく真面目に話してるのに! と憤るツェッドの手をとる。ツェッドはぎょっとしたように口を閉ざした。

「今のは、すごく嬉しかった」
「……それで、なんで手を握ってくるんですか」
「嬉しかったから」

 ひんやりと冷たい指先を強く握る。握った手を目の上の高さまで持ち上げた。

「ここから一つになれば、お互いの考えていることが完全にわかるのにね」
「それじゃあ結局一人になってしまうから、寂しいことには変わらないでしょう」

 確かに、とフアナは笑う。

「ジレンマだ」

 言うのと同時に、どこかから盛大な悲鳴が聞こえた。