イクシオサピエンスは電気海月の夢を見るか(7)





 悲鳴と、怒号と、血のにおいをツェッドが感じたときには、フアナの首元に触手が寄り集まったかのような凶悪な何かが目にも止まらぬ速さで迫っていた。
 名を叫んだかもしれない。あぶない、よけろ、と叫んだかもしれない。だがそれは何もかも無駄で、掴んでいたはずのフアナの手は、するりとツェッドの手から滑り落ちーー、そのまま壁を伝っていた鉄パイプをまるで紙細工のように引き千切ると、ホームランバッターのように触手を薙ぎ払い、返す刀で血界の眷属の頭部を思い切り殴りつけた。
 ブツン、と聞いたこともないような音がして、勝利を確信し余裕の笑みを浮かべたままの生首が吹き飛んでいく。
 ツェッドは目の前の光景に呆気にとられ、ただ呆然と口を開けたまま立ち尽くしていた。
 血が、噴き出した。血界の眷属のものではない。避けきれなかったのか、フアナの首筋から拍動にあわせて噴水のように鮮血が噴き出す。
 フアナはそれを手で押さえると、ひどく神妙な顔でこちらを振り返った。

「まあ、その、これが種明かしというか、なんというか……私なりの適応の結果なんだけど」

 フアナが首から手を離すと、血糊こそべっとりと頬から胸まで汚しているが、水芸のような出血はすでに止まっている。
 しばし惚けていたが、ツェッドははっと我に帰ると、フアナに再び迫っていた攻撃器官を三叉槍で切りはらった。

「逃げてくださいフアナ! こいつは死なないんです!」
「なんだそれ!?」

 フアナの絶叫じみた返事が響く。ツェッドの携帯端末が呼び出し音を鳴らす。きっと、今、この場所に血界の眷属が出たという連絡だろう。それを本部が把握しているなら、応援がすぐに来るはずだ。

「僕が時間を稼ぎますから! あなたは逃げて!」

 言いながら、ツェッドは内心舌打ちする。長く伸びた触手と、うようよと湧いて出るグールに手間取り、吸血鬼本体は撤退の様子を見せている。このままだと、また取り逃がすことになる。
 フアナがぼうとその場に立ち尽くしたままなのを視界の端にとらえ、ツェッドは喉から血を吐くように叫ぶ。

「逃げろと言っているでしょう!!!」
「ツェッド! 死なないなら、死ぬまで殺す!!」

 フアナはそう叫ぶと、鉄パイプを片手に走り出した。

「ば、ばかっ……!?」

 言うが早いかフアナの腹部を触手が貫く。ツェッドの顔から血の気が失せた。
 フアナは腹の大穴を意に介した風もない。腹を貫く触手を鉄パイプを持っていない方の手で引き千切り、地面に投げ捨てると、残った触手を握りしめ、渾身の力で引っ張る。腹の傷は、まばたきのうちに塞がっていた。
 質量自体はただの人間と大して変わらぬ吸血鬼は、やすやすと宙を舞い、フアナは勝手に近付いてきたそれの頭部を、再びフルスイングで吹き飛ばした。
 地面にくずおれる吸血鬼の胴体にフアナは馬乗りになり、鉄パイプで、殴る、殴る、殴る。
 ばきょ、とか、ぐしゃ、とか、聞くに耐えない音がした。吸血鬼の再生スピードが追い付かない速さで、やたらめったらと殴り続ける。
 もはや何が何だか分からないが、ツェッドは状況を判断し、腹を括った。

「フアナ、そのままそいつを押さえてられますか?」

 フアナに背後から襲いかかろうとしていたグールを貫き、ツェッドはそう声をかける。

「こいつ! 本当に! 死なないんだ!!!」
「だから、そうだと言ったでしょう!」
「あとで説明しろ!」
「あなたもですよ!」

 ペキン、と案外軽い音がして、鉄パイプが折れて飛んでいった。一瞬攻撃の手が止まると、血界の眷属はみるみる再生していく。統率を失っていたかに見えた攻撃器官が、フアナの胸と腹を貫いた。
 げほん、と、フアナは盛大に血を吐いたが、短くなった鉄パイプを再生しかけで皮のはっていない吸血鬼の眉間に突き立てると、今度は拳でボコボコに殴り出す。もはや技も術もなく、ただの荒れ狂う暴力である。
 殴るたびにフアナの腕の骨が折れ、変形するが、再び振り上げ殴りつける頃には、元の形に戻っていた。しかし、それにも限界があるようで、拳は徐々に折れたままになり、腹に空いた穴の塞がる速度は、目に見えて遅くなる。
 ツェッドは祈るような気持ちで携帯端末をリダイヤルし、叫んだ。

「26番街、D3地区で交戦中! 目標の足止めに成功しているが保ちそうにありません!」

 返事はない。その代わり、轟音とともに赤毛の男が、獣のように踊りかかってきた。

 ーーブレングリード流血闘術、推して参る




 血界の眷属の“密封”が済んだあと、唐突に昏倒したフアナの体はひどい有様であった。腹の穴は塞ぎきらず血が滲み、胸は半ばミンチのようになり肋骨がてんで好きな方向に飛び出している。拳は切れ、皮膚が裂け、骨が飛び出し、内出血でどす黒く腫れ上がっていた。

 救急ヘリで搬入されたフアナは大勢の医師や看護師とともに処置室に送られ、閉じていくドアをツェッドは地獄の蓋が閉まっていくような気持ちで見ていた。
 廊下のベンチに座り込み、組んだ指をひたすら見つめる。ものの5分もしないうちに、ドアの上の「処置中」のランプが消えたのを見て、ツェッドは息を詰まらせる。
 まさか、そんな、フアナに限ってーー

 ツェッドは悲壮な顔をして出てきた医師に恥も外聞もなく詰め寄った。

「フアナは、フアナは助かりますか!?」
「……処置のしようがなく」
「そ、そんな……」
「傷がないのです。これでは治療のしようがありません」
「…………は?」

 中年の医師は眼鏡を手の甲で押し上げ、傍の看護師から受け取ったカルテをめくった。

「外傷なし、脈拍、血圧ともに正常、軽い脱水症状が見られたので点滴だけしていますが……」

 医師の言葉の途中に、フアナが点滴ホルダーを片手に自らの足で処置室を出てきた。それを見た医師が苦笑いする。

「この部屋から歩いて出る患者は初めてですよ。この街のめちゃくちゃさには慣れたつもりでしたけど、ねぇ……」

 フアナがひらひらと呑気に手をふってくるので、ツェッドはいっきに脱力した。

 とりあえず一晩は様子見ということで入院することになり、フアナはパジャマ姿で白いベッドに横になっていた。ベッドの脇でツェッドがリンゴをむく。
 しゃりしゃりと淀みなく削がれていくリンゴの赤い皮を眺めながら、フアナは居心地悪そうな顔をした。

「……リンゴくらい自分でむけるよ」
「いいんです。これくらいさせてください」
「じゃあ食べさせて」
「甘えたことを言わないでください。いい大人が恥ずかしくないんですか」

 あー、と口を開けるフアナを一蹴すると、フアナは眉間に皺を寄せた。

「そんなばっさり切り捨てることないじゃん……」
「あなたがあほなことを言うからでしょう」

 はいはい、とフアナは皿に手を伸ばし、リンゴを取ってかじった。
 疲れきった瞳でシーツを眺めながらリンゴをかじるフアナの横顔を、ツェッドはまじまじと見つめる。フアナは、やはり居心地悪そうな顔をして、ツェッドを睨み返した。

「そんな顔するくらいなら聞けよ!」
「……話したくないなら、言わなくてもいいんです」

 もし、フアナがそれを知って欲しくないなら、今日のことは出来る限り見なかったことにして、今まで通りの関係でいたいのだ。フアナのことを知りたいとは思ったが、無理強いはしたくない。

「話したくないわけじゃないんだ。秘密でもなんでもない。ヘルサレムズ・ロットでは隠してないからね。きっかけがなかっただけで」

 フアナは、先ほど撫で切りにされ、噴水のように出血していた頸部を指先でかく。

「ただ、人類にしては力が強くて死ににくいんだよ」

 それだけ、と嘯くフアナに、ツェッドははあと曖昧な相槌をうつ。

「何その反応!」
「……説明がざっくりしすぎててどう反応したらいいやら」
「私だって7歳の頃からそう思ってた。ハァーイ、マリソル、あたし、昨日、ケーキ作ってたらうっかり鍋を引き千切っちゃって、ママに怒られたの、って言ったときのマリソルの反応、聞きたい?」
「いえ、やめておきます」
「私の人生なのに、私に対する説明が皆無なんだよ。どうにかしてくれ」

 力なく自嘲するフアナを、ツェッドはおそるおそる抱きしめる。消毒薬のにおいがした。

「……いきなりどうした」
「…………いえ、こういうときはこう慰めるものか、と」
「慰められてるの?」
「そのつもりでしたが」
「なぜ」
「…………自分のことが分からないのは辛いでしょう」

 言うと、やや緊張していたフアナの体は、くたりとツェッドに寄り掛かった。

「まあ、少しは」

 理解できず、理解されず、手本も規範もなく、同じ種族に囲まれながら常に異端である、というのは、どういう孤独なのだろう。

「何か、きっかけがあったわけじゃないんだ。両親は紛れもなく人類で、私も人類なのだけれど」

 くぐもった声でフアナは呟く。

「いいじゃないですか。僕なんて人類ですらない」
「私はいっそ自分が人外だと言われた方が納得できたよ」
「じゃあ交換してくださいよ」
「一丁、頭でもぶつけてみるか」
「僕の頭が破砕するのでお断りです」

 もぞもぞとフアナがもがくので、ツェッドは腕を開く。
 その気になれば、力任せに振りほどくことも出来るのに、その加減の仕方はいじらしい。

「じゃあ、次は、君のことを聞いていいの?」

 いつになく真剣な目で見つめられ、ツェッドは口ごもった。



 僕の、ーーと、言いかけたところで、病室のドアがノックされる。フアナは苦笑気味にツェッドに目配せし、どうぞとそれに応えた。

「それに関しては俺が説明させてもらうよ」

 先ほどの話の内容を聞いていたのか、ドアを開けて現れたスティーブンが柔和な笑みをたたえてそう言った。
 フアナは突然現れたスーツの男に、怪訝そうな顔をする。

「失礼、どなたです?」
「スティーブン・A・スターフェイズ。彼の、まあ、端的に言えば上司かな」

 ツェッドの肩を叩きながら言うと、フアナはさらに怪訝そうな顔をした。それはそうだろう。常識的に考えて、事故で入院したところに友人の上司が見舞いに来る道理はない。

「ライブラという名を聞いたことは」

 唐突な問いに、フアナは眉をひそめる。

「ありますが……」

 それがなんだ、この人はどうしたんだ、と言いたげな視線をフアナはツェッドに向けてくる。ツェッドはそれに、いいから聞けと視線で返した。

「簡単に言うと異世界の浸食を防ぐことを目的とした秘密結社なのだけど」
「ひみつけっしゃ」

 ひどく胡散臭げな顔をするフアナに、スティーブンは眉尻を下げる。

「呼び方はなんでもいいんだ。本題に入るが、俺が今日来た目的は、端的に言えば君のスカウトと保護の申し出だ」
「……なるほど」
「血界の眷属に対抗し得る戦力は常に不足していてね、猫の手も借りたい有様なんだ。さらに問題なのは、君が特殊な訓練を積んだわけでもない生粋の人類だということ。君の遺伝子情報に、巨額の金が動く事態もあり得る。そうすれば、どんな手段を使っても君に協力を要請する輩が出るだろう」

 生死も問われないだろうね、とスティーブンはこともなげに言う。

「ははァ、それはなんとも……」
「考えてくれるかな」

 有無を言わさぬ笑みに、フアナはシーツを無意識に手繰り寄せる。

「ミスタ・スターフェイズ、質問を?」
「もちろん」

 フアナは己の胸とツェッドを、順に指す。

「断れば、どうなります?」

 スティーブンはツェッドにちらと視線をやると、ああと吐息交じりに答えた。

「そうだね。俺たちはあちこちに恨みを買っているから、彼がライブラの構成員だと知ってしまった以上、不用意な接触は君に危険が及ぶ」

 それを聞いたツェッドは何か反駁しようと顔をあげたが、フアナは、んふふと笑い声を漏らした。

「こういう風に、どんな手段を使っても協力を要請されるわけですか」

 皮肉気に唇の端をあげ、そう言うと、スティーブンは何も答えずにこりと笑った。

「じゃあ、やります。ひみつけっしゃ」
「ちょっと、何を考えてるんですか!」
「君と居たいと考えている」
「ありがとうございます! ばか! そうじゃないでしょう!」
「今の私には一番キク脅迫だった。君の上司、控えめに言ってえげつないな」

 失礼、とフアナがスティーブンに笑みを向けると、スティーブンは苦笑いを返した。

「決めるにしたって、もう少し考えなさい!」
「いや、考えた考えた。すげー考えた結果」
「15秒で答えた人間のセリフですか!」

 わははは! とフアナは悪戯が成功した子供のように笑う。
 ツェッドはフアナの瞳を見つめた。

「死と隣り合わせですよ」
「死神には嫌われてる」
「危険なんです」
「分かってるよ」
「分かってない!」
「分かっている。君よりここの生活は長いんだ」
「比じゃないんだ! 血界の眷属を見たでしょう!」
「うるせー、なんなんだ君は。もう私に会いたくないのか」
「そうじゃないですけど……」

 フアナは、難しい顔をして、人差し指でツェッドにもっと寄れとジェスチャーする。

「耳貸して。……いや君、耳どこだよ!?」
「なんなんですか、ここですよ、はいはい、貸します」

 どうぞ、と言うと、フアナはツェッドの耳に口元を寄せる。

「もう一人はいやだ」

 フアナはそうだけ言って、ベッドヘッドボードに寄りかかった。

「……今の、耳打ちの必要ありました?」
「あるよ! スーパー恥ずかしいじゃん!」
「僕、あなたの恥ずかしい基準がよくわからないんですけど」

 盛り上がっているところ悪いんだけど、とスティーブンが割って入る。

「話はまとまった?」
「ええ、これからよろしくお願いします」
「それは良かった。歓迎するよ、ようこそライブラへ」