月夜と立葵



 土井先生、とその背に呼びかける。振り返った半助に駆け寄ると、蛍火は胸に抱えた紙束を差し出した。

「これ、は組から回収した宿題です」
「全員分ですか?」

 半助は目を丸くする。

「え? ええ、みんな出してくれました」

 蛍火が言うと、半助は嬉しそうに笑った。底抜けの笑顔に蛍火は少し面食らう。こういう、からりと笑う男には、あまり縁がない。

「あいつらが全員宿題を提出するなんて……!」

 ははァ、と蛍火は力無く笑う。

「それまでの苦難の道のりを、お話いたしましょうか?」
「いえ、やめておきます」

 にべもない。話せば長くなることがお互い分かっているから、致し方ないが。

「助かります、蛍火先生」
「土井先生にまで先生と呼ばれると、恐れ多くて仕方ないですよ」

 照れてはにかむ蛍火は可愛らしい。生来の柔和な顔立ちもあって、穏やかな笑みを浮かべると、火縄銃を振り回し、一年は組の良い子たちをぶん投げ、馬糞に滑って転ぶ姿を忘れさせられそうになる。

 前庭に面した廊下で立ち話に興じる二人を、じっと見つめる人影が塀の上にあった。姓を諸泉、名を尊奈門。暗い色の忍び装束を着こみ唇を固く引き結んでいるが、頭巾から覗く顔はまだ若く、厳しい表情にも関わらずどこか愛嬌が滲む。
 土井半助の出席簿とチョークに敗北を喫して以来、幾度となく雪辱を果たす機会を狙っていたが、機を逃して今日を迎える。
 尊奈門は細く息を吐くと、刀の柄に手をかけた。半助まで、尊奈門の脚力ならば塀の上から一跳びに達することができる。だが、その間に立つ女が邪魔だ。
 尊奈門は焦れて身を乗り出す。そのとき、女がくるりと振り返り、半助に並んで歩きだした。油断しきって談笑する二人に、尊奈門は今だと塀を蹴る。

「土井半助! 覚悟!」

 塀から落下する速さを味方に、半助の頭上から踊りかかる。半助が突然の闖入者に大して驚くでもなく一歩下がり、逆に蛍火が一歩前に出た。すう、と何気なく挙げられた腕を、落ちるに任せた攻撃をしかける尊奈門に避ける術はない。
 まずい、と思う前に、尊奈門は蛍火の火縄銃を扱う逞しい二の腕にラリアットをきめられ、清々しいまでに勢いよく仰向けに転ばされると、思い切り廊下の床板に後頭部を打ち、ぎゃあと言う間もなく昏倒した。

 ――その一瞬、目があったひたひたと濡れたような黒い瞳に、見覚えがあった気がした。







 夏の夜だ。むっとした熱気を涼やかな風が掃いていく。風に吹かれた白い花が揺れる。尊奈門はその花の名を知らなかったが、教えてくれた少女がいた。

「立葵というの、きれいでしょう?」

 そう言って、少女は月夜に青白くさえ見える純白の花を手折り、髪に挿す。黒い瞳が細められ、幼い唇が柔らかく微笑んだ。

 ――ああ、おれは、なんと答えたのだったか

 ゆうるりとした夢見心地から、尊奈門は後頭部の鈍痛で引きずり出された。

「い、っっつぅ……!?」

 柔らかな布団から跳ね起きると、話をしていた半助と蛍火がふと尊奈門の方を見た。尊奈門はとっさに腰に手をやるが、武器があるはずもない。

「すみません、考える前に手が出てしまって」

 眉を垂れて申し訳なさそうな顔をする女に、尊奈門ははっと古い記憶を取り戻す。

「蛍火――」

 随分と大人びたが、ぼうとした表情は記憶のままだ。蛍火は尊奈門の顔をまじまじと見ると、おや、と眉を上げた。

「どこかでお会いいたしましたか」

 その飄然とした顔にかちんと来て、尊奈門は蛍火の胸倉を掴みあげた。

「こんっの! おまえ、いきなりいなくなりやがって!」
「ぐえ、ど、どなたですか……」

 締め上げられてみるみる赤くなる蛍火を見かね、半助が割って入った。

「尊奈門、女性相手にやめないか」
「出会い頭ラリアットはいいのか!」
「そ、それは……」

 なかなかどうして分が悪い。威勢を削がれた半助に蛍火が「せーとーぼーえーですよ……」とやっと尊奈門の手を振りほどいて呻いた。

「ひどく頭を打っていますから、あまり動かない方がいいですよ」

 蛍火は乱れた襟を直し、冷えた手ぬぐいを尊奈門に差し出した。尊奈門は無言でそれを見下ろす。いつまでも手ぬぐいを受け取ろうとしない尊奈門を、蛍火が怪訝そうに覗きこんだ。

「どうしました?」

 尊奈門は、先ほどまでの血気はどこへ行ったのか、おずおずとした様子で蛍火を見返す。

「本当に、覚えていないのか」

 蛍火は困ったように笑った。その顔を、尊奈門はよく知っていた。明るい月夜に青白く光る立葵と共に思い出される。

「色々な所に行って、色々な方にお会いしましたので」

 蛍火はぽつりとそうとだけ言った。覚えていない、とは言われなかったが、尊奈門は意気消沈した様子を隠しきれずに「そうか」と呟いた。
 蛍火は手ぬぐいを尊奈門の後頭部に当てた。ふ、と鼻先を白檀の香りがかすめる。粗末な姿に似合わぬ、高雅な香がした。
 尊奈門の記憶の中の蛍火も、白檀の香りがした。蛍火はいつも、白檀を削った玉の数珠を身につけていた。
 黙り込む尊奈門に、蛍火は淡く笑んで、水の入った桶を持って立ち上がった。

「水を換えてきますね」

 戸板に手をかけ、はたと何か思い出したように尊奈門を振り返った。濡れたような瞳が細められ、赤い唇が三日月のように吊り上がる。

「あのときね、おれはそんなものに興味ない、って言っていたよ、尊」

 それだけ言うと戸板の向こうに軽やかに消える。尊奈門はしばらくの間布団の上で呆けていたが、担がれていたのだと気付いて顔色を変えた。立ち上がろうとするが、目眩と頭痛がして布団に倒れ込む。ぐらぐらする視界で戸板の方を睨み、拳で布団を叩く。

「おい! 蛍火! 帰ってこいこら! そんで一発殴らせろ!!」

 応える者はいなかったが、どこかで蛍火が笑う気配がする気がした。