結婚しようよ!
保健委員会の当番をすっかり忘れていた乱太郎は、ばたばたと廊下を走って保健室に滑り込んだ。あまりに慌てていたものだから、明かり障子の桟に蹴躓いてつんのめる。顔から床に突っ込みそうになった乱太郎を、柔らかな腕が受け止めた。
「廊下を走っちゃだめだよ」
「ご、ごめんなさい、蛍火せんせい……」
ずれた眼鏡をかけ直しながら、乱太郎は蛍火にぺこりと頭を下げた。ぐるりと保健室の中を見渡すと、こちらも乱太郎を助けようとしたのであろう六年生の善法寺伊作が薬棚に小指をぶつけて悶絶し、一年ろ組の鶴町伏木蔵がその拍子に雪崩を起こした薬草に埋もれてじたばたしていた。
それを見た蛍火は溜息交じりに伏木蔵を立たせようと手をさしのべるが、足下に散乱する薬草に足を取られ、悲鳴を上げながら薬草の山に突っ込んでいく。
とっさのことで、乱太郎は草の山を散らしながら転ぶ蛍火を呆然と見送るしかなかった。踏まれ揉まれた青臭い薬草の匂いが部屋中に満ちる。髪や着物を草まみれにしながら、蛍火はよろよろと立ち上がった。
「君ら、本当に一回お祓いとか受けた方が良いんじゃない?」
べ、と口の中にまで入ったらしい草の切れ端を吐き出しながらそう言う。
「蛍火先生、平気ですか?」
吊り気味の印象的な双眸に涙を浮かべた伊作がそう問う。
「いやいや、君の方こそ」
対する蛍火はいささか引き気味である。忍術学園に身を置いてさして長くない蛍火でさえ伊作の不運ぶりは身をもって知っている。悪霊か何かにでも取り憑かれているのではないだろうか。
蛍火は草を払い終えると円座に座り込む。乱太郎はその隣に座り、手元を覗き込んだ。
「先生、何をしてらしたんですか?」
蛍火の目が、乱太郎を優しく見下ろす。
「薬草を干すのを手伝うかわりに、薬を少し都合してもらうつもりだったんだよ」
薬のことも聞きたいなと思ってね、と笑いながら茎から葉を外していく蛍火を、乱太郎は見上げる。
「蛍火先生、薬売りなのに、伊作先輩に薬のお話を聞くんですか?」
「薬売りの格好をしているだけで、伊作ほど詳しくはないよ」
「えっ、でも、薬は売るんですよね?」
「まあ、たまにね」
「……それって詐欺では?」
「そう言われると困っちゃうなあ」
蛍火は曖昧に笑ってまた手元に集中する。
「こらこら、幼気な忍たまを適当に誤魔化しちゃいけないよ」
部屋にいないはずの、長じた男の低い声がした。乱太郎と伏木蔵が泡を食って声の方を見ると、全身を包帯で覆った男が座っていた。背後に若い男が二人控えている。
「あ! おまえは!」
乱太郎が男を指さす。乱太郎が何か言う前に、蛍火は円座を下りると床に額ずいた。
「御疎遠に相過ごし誠に申し訳ございません。ご健勝そうで何よりのことでございます」
男――雑渡昆奈門は、蛍火にひらひらと手を振って見せた。
「私はおまえが頭を下げるような身分ではないだろう」
軽口めいた雑渡の言葉で、蛍火の笑顔に苦いものが混ざる。
「また、然様なお戯れをおっしゃる」
何か言いかけた雑渡を遮るようにして「おい!」と声を上げたのは諸泉尊奈門である。尊奈門は蛍火を指さし睨み付ける。
「おまえ、おれのことは久しぶりに会ったというのにぶん殴ったじゃないか!」
そう息巻く尊奈門に蛍火は「はァ?」と吐息とも呆れともつかぬ声を漏らす。きゃんきゃんと言い募る尊奈門を尻目に、伏木蔵が蛍火の袖を引っ張った。
「蛍火先生、曲者さんのことをご存じだったんですか?」
「ああ、うん、師の旧知だからね。何度かお世話になってる」
「聞いているのか――!」
尊奈門の頭上に拳が落とされる。頭を押さえて屈み込む尊奈門の襟首を、拳の持ち主である高坂陣内左衛門がひっつかんで立たせた。
「組頭の前だぞ。控えろ、馬鹿者」
高坂は尊奈門を下がらせ、蛍火に目をやると口の端を少し上げた。
「久しいな、一年ぶりか」
「いいえ、八月と十七日ぶりです」
にこりと笑む蛍火に、高坂はふっと笑った。
「相変わらずだな」
「あにさま――失礼、高坂殿も変わらぬ男ぶりでございますね」
幼い頃は年上の高坂をあにさまと慕ったものだが、長じてからそう呼ぶことはなかった。ただ、蛍火が高坂をそう呼ぶたびに尊奈門が膨れっ面をしていたことを思い出し、ついうっかり呼んでみたくなったのだ。
蛍火の意図を汲んだ高坂は、切れ長の目を弓なりにした。
「なんの、蛍火に兄と慕われて嬉しくないわけがない」
二人の茶番に尊奈門は生真面目にも仏頂面を作った。雑渡が肩をすくめてわざとらしく息を吐く。
「陣左、蛍火、尊奈門で遊ぶな」
「は、申し訳ございません」
雑渡の苦言に高坂は丁重に詫び、蛍火は口元に笑みを刷いて膝を正した。雑渡は蛍火の方に向き直る。
「それにしても、おまえが忍術学園に身を寄せていたとはね。尊奈門に聞いて驚いたよ」
「まさか、雑渡殿はとうにご存じであったでしょう」
蛍火はおっとりと世辞めいたことを言う。夜の海のような黒い瞳がすうと雑渡を見やった。雑渡は鼻を鳴らして、芝居がかった仕草で降参とばかりに手を上げて見せた。
「まったく、敵わんな。しかし、そういう物言いは照星に似てきたんじゃないか」
「光栄です」
「褒めてないよ」
やれやれ、と雑渡は伏木蔵を膝に抱く。
「それで、」
爛れた皮膚にぽかりと浮いた隻眼に見据えられ、蛍火は殊更に笑みを深くする。
「蛍火、結婚は?」
唐突にそう問われ、蛍火は目を白黒させる。
「……はい?」
「いや、だから、結婚の予定は?」
真剣な調子で同じことを問われ、蛍火はむっつりと首を横に振った。
「ありませんが」
「あ、そう。恋人は? 誰かいい人いないの?」
黙って成り行きを見ていた乱太郎が口を挟む。
「ドクササコの凄腕忍者の部下とはどうなったんですか?」
「別にどうもこうもないよ」
余計なことを言うな、と蛍火が乱太郎に視線をやると、乱太郎は承知したとばかりに目を輝かせる。
「あ! ごめんなさい! 虎若のところで結婚する予定なんですよね!」
「そんな予定はない!」
蛍火は頭を抱えて天井を仰ぐ。雑渡はそのやりとりを眺めながらにやにやと笑っていた。
「それなりにモテるようで、おじさんは安心したよ」
「ええ……誰目線なんですか、それ」
蛍火は項垂れながらそう言う。雑渡は目元の笑みをすうと消す。
「まあ、単刀直入に言うと、蛍火、うちの者と結婚しない?」
雑渡の言葉に乱太郎は目を丸くし、伏木蔵はすごいスリル〜と呟く。蛍火はああと呻いたきり何も言わない。沈黙に耐えかねた伊作が「ええっと、……おめでとうございます?」と自信なさげに言う。
「ちっともめでたくないんだよねえ」
溜息のように蛍火は肩を落とした。構わずに雑渡は言葉を続ける。
「歳の頃からいえば、陣左か。優秀な忍だし、見ての通りの男前だ。おまえも懐いていたしな」
蛍火がちらりと高坂の方を見ると、話はついていたのだろう、特に驚いた様子もなく、無言で雑渡の背を見つめていた。
蛍火はゆるゆると首を振る。
「ご冗談を。高坂殿ならば嫁の来手がいくらでもあるでしょう。流れ者の私なんぞがそこに収まっては、里の娘達に殺されてしまう」
「ふうん、じゃあ、椎良か反屋か……ああ、陣内はどうだ。子沢山は保証されるぞ。しかしあいつは愛妻家だからな」
「勘弁してください。山本殿の御内儀に顔向けが出来ない」
「仕方が無いな。では、私でどうだ」
「雑渡殿……」
なおも言葉を継ごうとする雑渡に声を上げたのは尊奈門であった。
「なっ、なんですか!? 蛍火が!? タソガレドキに!? 嫁!? 高坂さんと!? え、いや、組頭と!?!?」
顔を赤くしたり青くしたり忙しい尊奈門に、雑渡はうるさそうに手を振る。
「黙ってろ、尊奈門。だから今日は付いてくるなと言ったんだ」
「い、いや、でも、年の頃なら私が一番――!!」
言いかけて口をつぐんだ尊奈門に、雑渡はにんまりと笑った。
「おまえに蛍火が御せるか」
次いで、高坂が鼻で笑う。
「蛍火が嫁になったら、おまえは使い物にならなくなるだろう」
蛍火が片眉を上げる。
「尊と夫婦になるくらいならば師匠と結婚するよ」
「蛍火、それは照星に失礼だろう」
「あ、今のはご内密に」
和やかに笑い合う雑渡と蛍火に尊奈門はしびれを切らしたように首を振る。
「なんだって急にそんな話に!」
「なんでって。蛍火だって年頃だし、このまま照星に付いていたら本当に結婚できないよ。あいつは本物の火縄銃馬鹿だから――あ、蛍火、今のは照星には言わないでくれ」
「師が火縄銃馬鹿だなんてこと、私が一番存じておりますよ」
尊奈門の方に顔を向けたまま、雑渡は言う。
「私も照星の弟子であるおまえのことは、何かと気にかけているんだよ」
雑渡の言葉に、蛍火は低く笑い声を漏らした。
「私の目を見ておっしゃってはくださらないのですね」
雑渡はそれには答えず、円座に座り直す。
「冗談で言っているわけではない。双方悪くない話だろう。それは分かるな?」
「ええ、お心遣いには痛み入ります。ですが、この件は謹んでお断り申し上げる」
雑渡はしばし蛍火を見つめる。それから溜息交じりに胡座をかいた脚に肘をつく。
「理由を尋ねた方が良いか?」
「いいえ、雑渡殿のお考えの通りでございます」
「そうか」
雑渡は後ろの二人に合図をすると席を立つ。
「手を止めさせてしまって悪かったね、また様子を見に来よう」
廊下へ続く木戸を開けながら、雑渡は「心変わりをしてくれるように祈っているよ」と言った。