結婚しないよ!
前を歩く蛍火の足取りは重い。いつもならば必ず乱太郎や他の生徒たちに合わせて緩められる歩度は長身に見合った速さになっている。
俯き、何も言わずに前を行く蛍火の後を、乱太郎は遠慮がちに追った。
「蛍火先生」
うん、と小さく蛍火は呟き、それからいつものように穏やかに笑みながら乱太郎の方を振り返った。
「なあに、乱太郎」
何事もなかったかのように、その表情は変わらない。
「ご結婚されるんですか?」
首を傾げて問うと、蛍火は眉を八の字にして困ったように笑う。
「しないよ、さっきも断ってたでしょう」
乱太郎は首を傾げる。どうして、蛍火先生は結婚したくないのだろう、と思った。好きな人がいるのか、悪い城であるタソガレドキ城の人と結婚するのが嫌なのか。
それをぐるぐると考えていると、見透かしたように蛍火は首を横に振る。
「違うよ、結婚したい人なんていない。もちろん、結婚したくない人もいない」
「じゃあ、どうして結婚したくないんですか?」
「難しいことを聞くんだね」
そう言ったきり、蛍火は少しの間宙を見つめていた。
「乱太郎の父上と母上は仲がいいの?」
突然、蛍火はそう尋ねた。それが今までのやりとりと何の関係があるのか分からず、乱太郎は困惑して蛍火を見上げる。
優しげな黒い瞳に促され、乱太郎はぽつぽつと答えた。
「うーん、たまに喧嘩したり、母ちゃんが父ちゃんを怒ったりしてるけど、仲はいいと思います」
蛍火は、そう、と頷く。
「私の父と母はね、あんまり仲がよくなかったよ」
「だから、蛍火先生も結婚したくないのですか?」
「うん、母は父に疎まれて――嫌われてしまうようになったのだけれど、私は母によく似ているんだよ。だから、きっと、私も結婚相手には好かれない」
乱太郎は蛍火の穏やかな笑顔を見上げる。蛍火が誰かに嫌われるところは、あまり想像できなかった。
蛍火はいつでもぽやんと見えるほどおっとりとして、優しくて、にこにこ笑っている。
言葉に詰まる乱太郎に、蛍火は肩をすくめた。
「それに、もういかず後家だしねえ。今更結婚も面倒臭くない?」
「えー、面倒臭いって、先生、そんなんでいいんですか?」
あははは、と蛍火は笑う。からかわれたのだろうか、と乱太郎は唇を尖らせた。
「それに、先生はまだまだ結婚出来ますよ」
「え、そうなの? 乱太郎くらいの歳には結婚が決まっているようなものじゃないの?」
乱太郎は目を丸くする。
「お姫様でもなければ、そこまで早くはないと思いますけど」
「そうなの?」
蛍火は乱太郎を見る。そんな真剣な目で見られては乱太郎の方が困ってしまう。乱太郎の母とて、結婚したのは蛍火と同じくらいの歳だ。
政略や家と家の繋がりにさして関心のない一介の草の者には、結婚など気の合う者が共に暮らす程度の意味しかない。
「それに、嫌なら別れちゃえばいいんだし」
「そんなに簡単なの!?」
蛍火はほとんど飛び上がるようにして驚く。
「えー、だって、嫌なのに一緒にいても仕方ないじゃないですか」
「いや、だって……そっか、……そうなんだあ……」
蛍火は放心したように呟くと、額に垂れた一筋の髪を耳にかけた。乱太郎はその様子をぼんやりと見つめる。
「蛍火先生って、火縄銃以外のことはすぽーんと何も知らなかったりしますよね」
乱太郎が言うと、蛍火は顔をしかめた。
「それ、照星師に言ってやってよ」
なーんも教えてくんないんだもんあの人、と蛍火は肩を落とす。
乱太郎は、蛍火がいつもの調子を取り戻したことに安心して、小走りに蛍火の横に並んだ。
「大丈夫ですよ、蛍火先生。もしも蛍火先生が本当に結婚出来なくても、は組の誰かが結婚してくれますって」
「それはいいかな」
間髪入れない。
「蛍火先生って、そういうところ結構容赦ないですね」
「これでも我の通し方を覚たのは最近なんだよ」
教職員長屋の前まで来た蛍火は明かり障子に手をかけながら乱太郎を振り返る。
「それじゃあ、また明日。明日は土井先生のテストだから、よく勉強するんだよ」
「はい、蛍火先生、今日は手伝ってくださってありがとうございます」
蛍火はうっすらと笑うと、乱太郎に視線を合わせる。
「こっちこそ、ありがとう」
「何がですか?」
「なんだろう……色々かな」
おかしなことを言うなあ、と蛍火を見ると、蛍火は薄暗がりの室内に入って障子をひいた。
乱太郎は一人廊下に立って、さてこの面白い話をまずはきり丸としんべヱに聞かせてやらねばと考えていた。