しょせんそんなもん
きっかけはひどく些細なことであった。
蛍火と金吾が倉庫の軒先で実技授業に使った道具を整備していたところに、土井先生に敗れた尊奈門が現れて蛍火につっかかってきた。蛍火ははいはいとそれを聞き流しながら、手を止めずに作業をする。
それを見た金吾がぽつりと疑問を口にした。
「蛍火先生と、諸泉尊奈門さん、喧嘩をしたらどっちが強いんですか?」
蛍火の手が止まり、尊奈門も黙ってしまう。
「口喧嘩なら負けないのだけどね」
と、蛍火は苦笑した。何をぅ! と血相を変える尊奈門を無視して、蛍火は続ける。
「正面切っての喧嘩ならば、尊が強いに決まっているよ。タソガレドキ忍者の尊奈門が、半端者の鉄砲撃ちに遅れをとるわけがないでしょう」
皮肉かと思えばそうでもなく、蛍火は淡々とそう言う。ふうん、と、金吾は唇を尖らせた。
「ぼくは蛍火先生に勝ってほしいけど」
「そう? じゃあ、金吾に剣術でも習おうかな」
和やかに話す二人の言葉も、顔に血の上った尊奈門には聞こえていない。尊奈門は薬缶を置けば沸騰しそうな顔をして、蛍火を指差した。
「あっ、当たり前だろ! でかいだけで女のおまえに負けるわけがあるか! 」
蛍火の眉間に皺が寄る。
「あのねぇ、金吾の手前立ててやったのにそういう言い方ってある?」
「立ててやった!? おまえに立ててもらわなくとも結構だ!」
はあ、と蛍火は溜息を付いた。それから、独り言のように零す。
「本当に、君は昔からガキで嫌になる」
「なんだと!? おまえだって昔から性格が悪い!」
どんどん熱を帯びる言い合いに、金吾はおろおろと二人を交互に見上げた。尊奈門は今度は怒りで顔を赤くし、常に穏やかな蛍火の眦にも怒気が滲んでいる。
しばらく子供っぽい言い合いを続けていた二人であるが、先の言葉通りに口喧嘩では蛍火が優勢である。追い詰められた尊奈門がとどめの一言を口にした。
「おまえの火縄銃の腕前も、どの程度か分かったものではないな!」
さっと蛍火の顔色が青褪める。言い過ぎた、と尊奈門はたじろいだ。だが、一度口にした言葉は引っ込められない。蛍火の血の気を失った唇が、きりきりと弧を描いた。
「そう。じゃあ、もう、喧嘩するしかないね」
蛍火はそう言うと、道具箱をやや乱暴に蔵へとしまう。手の埃を払いながら、蛍火は尊奈門を横目に睨んだ。
「場所は学園の射撃訓練場、時は戌の刻。忍者は夜が好きなんでしょう? 合わせてあげるよ」
「お、おい……本気か……?」
ふ、と蛍火は穏やかに笑む。が、口元が引き攣っている。
「いみじくもタソガレドキ忍者の諸泉尊奈門殿が、背が高いだけで腕前も怪しい鉄砲撃ちとは喧嘩が出来ぬと申すか」
血の気の多い尊奈門が、その言葉に逆上しないわけがない。
「いいだろう! 女だからとて容赦はしないぞ!」
蛍火は鼻を鳴らし、踵を返す。成り行きを見守っていた金吾が、呆れたように尊奈門を見上げる。
「ああいうときは、わたしの方が強いから、おまえを守ってやるって言えばいいんですよ」
「う、うるさいっ!」
*
赤い夕陽が地に隠れ、とっぷりと日の暮れた頃。空には月が輝いていて、学舎の灯りも届いていることもあり、あたりはぼんやりと明るい。
時間通りにそこへ立ち、苛々とした様子で相手を待つ尊奈門を学園の塀に腰掛け面白そうに見下ろしているのが雑渡昆奈門である。
尊奈門は周囲に蛍火に喧嘩を売られたことを打ち明けはしなかったが、そんな面白いことを見逃す雑渡ではない。
「どちらが勝つかな、なあ照星」
夜闇に向かって雑渡がそう呟くと、雑渡の隣で小さな衣擦れの気配がする。
「蛍火に二百文」
低く、照星は言った。雑渡も低く笑う。
「なるほどね、では私は尊奈門に二百文」
精鋭揃いのタソガレドキ忍軍では若造扱いされる尊奈門だが、まさか蛍火に遅れはとるまい。雑渡は横目で照星を見る。
「本当に蛍火が勝つと思うのか」
照星は常の無表情で眼下の尊奈門を眺めた。
「勝ち目のない喧嘩をするような奴じゃない」
「なるほどねぇ。……ああ、そういえば、昔も尊奈門と蛍火が喧嘩をしたことがあったな」
「……あれは喧嘩というのか」
言い返さないからとしつこく彼女をからかいすぎた尊奈門が、堪忍袋の緒が切れた蛍火に馬乗りでボコボコに殴られたのである。あの頃はまだ蛍火の方が背が高く、力も強かった。背は未だ蛍火の方が高いが。
「大人しい娘だと思っていたのだが、尊奈門のおかげで本性が知れた」
公家の姫君らしく高雅であれ、控えめで淑やかであれ、という軛を外された蛍火は、思いの外気性が荒かった。
上衣を土まみれにして、顔には引掻き傷や打身を作った蛍火を見たときの驚きは忘れられない。
長じた今となっては照星による端然とあれ、沈着であれという教えを守ってはいるが――
「あいつは昔から、尊奈門相手になると自制が効かない」
溜息まじりに照星が言う。雑渡もやれやれとそれに答えた。
「それは尊奈門も一緒だ。ガキじゃあるまいし、久しぶりに会った蛍火が大人びていたからとあの浮足立ち様は見ていられん」
二人並んで肩を落としたところに、学舎の方からずらずらと大勢の人間がやってくる気配がした。気配どころの話ではない。小さな子どもがきゃあきゃあとてんで好きなことを話している。
「蛍火先生、頑張ってくださいね!」
「いざとなったらぼくらがタオルを投げますから!」
「顔はやめな! ボディにしな!」
じょろじょろとは組の生徒に囲まれた蛍火は、筒袖に裁付袴の軽装で、手にはやや寸法の短い刀を無造作に下げている。
「金吾、本当にこれ使わないとだめ? 私、刀なんて使えないよ……」
「手ぶらで行くなんて危ないでしょう!」
「意外と重いし」
「火縄銃よりは軽いですよ」
「そりゃそうだけど」
なんとも緊張感のない。すぐに尊奈門が噛み付いた。
「なっ、なんでは組の良い子達が!」
「勝手に付いてきたんだよ。これでもきり丸が観客を呼ぶというのは止めたんだからうるさく言うな」
蛍火は億劫そうに刀の鞘を金吾に預ける。
「おまえから喧嘩を売っておいて、その態度はなんだ!」
「どうせ正面切って勝てるわけないし、とはいえ生徒の手前引くに引けないし。ああ、なんであんなこと言っちゃったかなあ」
蛍火は刀を持った手をぐるりと回すとそれを構えた。金吾用の短い拵えとはいえ鋼の刀を手首で振るえる膂力は大したものだ。だが、その構えはあまりにぎこちない。
雑渡ほどの武辺者であれば、構えを見れば使い手の技量も知れる。成った使い手は得物と一体にさえ見えるものだ。蛍火はといえば、はっきり言って素人同然である。
「照星、おまえ、ほんっとうに蛍火に炮術以外教えなかったんだな」
「必要か?」
戦場で刀を手に敵と相対するようなことがあっては、非力な女の身に多少剣術の心得があろうと死ぬときは死ぬのだ。ならば炮術を練った方がいい。
「必要かはともかく、よくそんな弟子に二百文も賭けようと思ったな」
雑渡は呆れ返る。尊奈門は眦を吊り上げて蛍火を睨んだ。
「ふざけやがって! いつまでもガキだと思うなよ!」
尊奈門が刀を鞘走らせる。鋭く振り抜かれた尊奈門の刀に、蛍火の手の内の刀が弾き飛ばされる。
「あ、」
飛んで行った刀を見やり、蛍火は眉尻を下げた。
は組の生徒から悲鳴が上がる。
「蛍火先生! ちゃんと刀を握っててください!!」
「いや握ってたよ!——うひゃあ!」
返す刀を寸でのところで避け、蛍火はニ歩後ろに下がる。続けざまの二撃、三撃も回避する。
「蛍火、さすがに目はいいな」
雑渡の呟きに照星は事も無げに答えた。
「そうでなくては困る」
は組の群れから伊助が叫ぶ。
「蛍火先生! 手裏剣です! 手裏剣!!」
「持ってるわけがない!」
次いで団蔵が叫ぶ。
「蛍火先生! 撒き菱!」
「ないってば!」
蛍火の鼻先を刀が掠める。蛍火の前髪が数本落ちた。
「尊奈門相手によくもったほうだろう。止めるか?」
雑渡がゆるりと身構える。照星が何か答える前に、蛍火が叫んだ。
「ターイム! タイム!! タイム!!!」
拍子抜けした尊奈門の剣先が空を切る。
その隙に体制を立て直した蛍火は、は組の方を振り返った。
「だから! 私に剣は無理だって言ったじゃない! プランB! プランBでいいでしょう!?」
は組陣営から不満気な声が上がる。
「ええー、せっかく金吾が剣術の稽古をつけてあげたのに!」
「一刻や二刻稽古したくらいで勝てるわけない!」
「蛍火先生は負けっぱなしでいいんてすか!」
「剣法家じゃないからね!」
「蛍火先生の持ち味を活かしていきましょ!」
「私、狙撃手だよ!? 相対する前に脳天撃ち抜かれる尊が見たいの!?」
蛍火は「もう!」と月を仰ぎ、溜息をつく。
それから尊奈門に視線を向けた。律儀に刀を下ろして待っていた尊奈門を見て苦笑し、尊奈門に向かい合うように歩を進める。
「それじゃあ、仕切り直しということで」
「そんなめちゃくちゃな喧嘩があるか!」
尊奈門の怒号に、蛍火は肩をすくめて笑った。その、目尻が垂れる柔らかな笑い顔に尊奈門は弱い。多少酷い目に遭わされても、まあいいかなぁと思わされてしまう。
剣を構え直そうとしない尊奈門に蛍火は眉を上げる。
「続けないの?」
「あ、いや……仕切り直しというからには、火縄銃を持ち出すのではないかと。おまえの火縄銃の腕前を見せてくれるんだろう?」
尊奈門が言うと、蛍火はふと笑った。
「見せるものでもないし、見せるつもりもない」
空いた手をぶらりと下げたまま、蛍火は言う。また尊奈門の頭に血が上った。
「そうかよ! 後悔するな!」
尊奈門は剣を構え直し、力強く踏み込んだ。――と、踏みしめたはずの地面がぽかりと崩れ、暗い穴の底に悲鳴とともに尊奈門の姿が消える。
「だから、はじめからこうしていれば良かったんだよ」
穴の底からばちんと音がして、どこかからしゅるしゅると縄の滑る音がする。穴の上にかかった枝から、どさどさと何かが落ちた。尊奈門のくぐもった呻き声が聞こえる。
蛍火はのんびりと穴の縁に歩み寄ると中を覗き、顔をしかめた。
「兵太夫、三治郎、ちとやりすぎ」
蛍火が呟くのと同時に、穴の底からばすんと小さな破裂音がする。穴からもうと煙が立ち昇った。ひどく目鼻を刺激する粉煙である。
「……本当にやりすぎだって」
蛍火は穴の縁から「おーい」と底の方へ声をかけた。げほげほとひどい咳と、涙声の悪態を耳にして、蛍火は苦笑いする。
「お、おまえっ! こんな卑怯なやり方……無効試合だ!!!」
「最初に君ら忍者に合わせると言ったでしょう」
「だ、だからって……!」
「むしろ、武術の心得もない女を真正面から叩きのめそうとしてたの? それはちょっとどうかと思うよ」
蛍火の言い分に尊奈門は目から鼻からだらだらと涙やら鼻水やらを流しながら呆気にとられた。
おまえから売った喧嘩だぞ! と叫びたかったが、あとからあとから溢れてくる涙と鼻水に邪魔される。ぶひゃ、ぶしゃ、と尊奈門が不細工なくしゃみを連発していると、蛍火が身を乗り出して手を差し伸べてきた。
尊奈門は不承不承その手を取り、穴の壁をよじ登る。土まみれで目鼻から止めどなく水分を流している尊奈門に、蛍火は申し訳無さそうに眉根を寄せて手拭いを差し出した。
「ごめんよ、ここまでするつもりはなかった」
それから、蛍火は傍らの生徒達に何事か言い含める。は組の面々は一斉に学舎の方へ駆けていった。
「今回のこと、悪いとは思っているよ。でも、君も悪いよ。ひどいことを言う」
「……うるさい」
喉元まで出かかった謝罪は、苦し紛れの強がりとして口をつく。ただ一言「俺も悪かった」という言葉が、どうしても言えない。
だが、蛍火は尊奈門の顔を一瞥して「いいよ。痛み分けだ」と言った。
「湯を貸してもらえないか聞いてきてもらっているから、顔くらい洗っていきなよ」
「に、忍術学園で湯など借りられるか!」
尊奈門が手拭いで顔を拭きながら唇を固く引き結ぶと、蛍火は「そう」と言うきりである。
蛍火はちらと尊奈門の顔を見た。
「まあ、別にいいけど」
それを、尊奈門は湯のことだと思った。
「川で水でも浴びていく」
だからそう答えたのだが、蛍火は目を弓なりにして尊奈門を見返す。
「そうじゃない。私が言ったのはね、尊はこんな目に合わされても、私のことが好きなんだなって、呆れてるんだよ」
「はぁ!?」
尊奈門は素っ頓狂な声を上げた。
「お、おまえなんかっ! だれがっ……!」
餌を与えられた鯉のように口をぱくぱくさせる尊奈門を見て、蛍火は笑う。
尊奈門は汚れた手拭いを蛍火に押し付けると、踵を返す。蛍火の笑い声が尊奈門の背中に纏わりついた。
「青いねえ」
それを見て白々と呟いた雑渡に、照星は手を突き出す。ん? とわざとらしく首を傾げる雑渡を、照星は冷ややかに見つめた。
「喧嘩は蛍火の勝ちだ。二百文出せ」
「は組の良い子達の手を借りてだろう」
「それの何が問題だ」
照星は淡々と言う。
「今回は引き分けだろう。蛍火も痛み分けだと言っていたしね」
雑渡の言い分に、照星はすんなりと手を引っ込めた。もとより賭け事などさして興味を示さぬ男である。
「それにしても、狙撃手に腕前を見せろだなど、尊奈門も命知らずなことを言う」
次の戦では、知らぬうちに脳天に風穴を空けられかねない。冗談めかして雑渡がそう言うと、照星は冗談など一欠片も感じさせぬ顔で「そうだな」と答えた。
「それにしても、照星」
「なんだ」
「おまえ、弟子が喧嘩するというので忍術学園まで来たのか?」
過保護が過ぎるねぇ、とにんまりと笑う雑渡に、照星は眉をひそめる。
「そんなわけがあるか。他の用事があって忍術学園に赴いた」
「ふうん、到着は明朝という話ではなかったか」
何故それを知っているのか、などと野暮なことは聞かなかったが、照星は露骨に苦い顔をした。
「早く着いただけだ」
「ま、そういうことにしておいてやろう」
照星は荷を負い直すと、雑渡を見下ろす。
「おまえは、部下が喧嘩するというので忍術学園まで来たわけではあるまい」
ふ、と雑渡は目を細めた。
「いいや、私は喧嘩を楽しみに来ただけだよ」
そうか、と照星は答える。夜闇に溶けるように雑渡の姿が消えた。