わるいおとな



 書庫で整理作業中であった蛍火は、廊下をばたばたと走る音を聞いて眉をひそめた。木戸をひいて廊下を覗くと、虎若と団蔵が桶やら箒やらを手に駆けていく後ろ姿が見える。

「廊下を走るなよう」

 声をかけると、二人は肩をぴょんと跳ねさせ立ち止まった。

「蛍火、助けて!」

 虎若が桶をぶんと回すと蛍火の手を引く。蛍火は目を丸くしてたたらを踏んだ。

「待って待って、どうしたの?」

 問うと、虎若は困り果てた目で蛍火を見上げる。

「部屋点検があるって」
「へやてんけん?」

 蛍火には聞き慣れぬ言葉だ。団蔵が横から声を上げる。

「忍たま長屋の部屋がきちんと整頓されているか、点検があるんです」

 そういうものがあるらしい。ふうん、と熱の入らぬ蛍火を虎若がきっと見つめる。

「部屋が汚いと、伊助に叱られる!」

 何事につけきちんとしていて、綺麗好きの伊助である。部屋もきっと整頓されていることであろう。

「うん。片付ければいいんじゃない?」

 蛍火が言うと、虎若も団蔵も肩を落とす。何をそんなに落ち込んでいるのか、と蛍火は首を傾げた。
 必死の形相の虎若が蛍火の手を引く。

「いいから! 来てください!」

 促されるままに廊下を渡り、忍たま長屋の一室の前で足を止めた。団蔵が明り障子に手をかけ、上目遣いにおずおずと蛍火を見る。

「蛍火先生、びっくりしないでくださいね」

 なにを、と言いかけた蛍火の言葉は、開け放たれた明り障子の向こう側の光景のせいで飲み下された。
 物、物、ゴミ、物、ゴミ、物、埃、物。とにかく乱雑を極める室内に蛍火は閉口する。

「よくもまあここまで散らかしたねぇ」

 溜息混じりにそう言う蛍火に、虎若が泣きついた。

「お願いします、蛍火先生! 部屋を片付けるの手伝ってください!」

 蛍火は眉尻を下げ、そろりと室内に足を踏み入れる。ぐるりとあたりを見回し、むうと呻いた。

「とりあえず、部屋の中のものを全部外に出しちゃうとか……」
「えっ、そんな、大変ですよ!?」

 団蔵が目を丸くする。そうかな、と蛍火は足元の着物を拾い上げた。

「実のところ、整理整頓はそんなに得意じゃないんだよ。実家にいた頃は自分で家のことなんてしたことなかったし、照星師について歩いていた頃は一所に留まることなんてなかったから」

 ひょいひょいと着物や手拭いを拾うと、その中に下帯があった。団蔵が慌ててそれを蛍火の手から奪い取ったので、蛍火は見て見ぬふりを決め込む。

「今も、片付けるほどの荷物は持ってないしね」

 眉尻を下げながらそう言うと、虎若が床に落ちた本を拾いながら顔を蛍火の方へ向ける。

「蛍火先生、どうして蛍火先生は照星さんの弟子になったんですか?」
「あ! 俺もそれ気になってました」

 蛍火は片眉を上げた。

「あれ、前言わなかった?」
「途中まで聞きました。蛍火先生のお父上が、照星さんを雇ったって」

 虎若の言葉に、団蔵の手が止まる。蛍火はそれを目聡く見咎めた。

「団蔵、手を止めない。……そうだなあ、君らが手を止めないで掃除が出来たら、その間は話してあげるよ」

 虎若と団蔵が勢い良く自分の手元に集中する。蛍火はそれを見て少し笑うと、ぽつぽつと話し始める。

「そう、私の父が照星師を雇っていたんだよ。師は今ほど名の通った狙撃手ではなかったけれど、父は師のことを気に入っていた。何しろ、那須与一も道を譲るほどの射手だったから」

 虎若の瞳が誇らしげに輝く。蛍火は先を続けた。

「戦が終わって、照星師が父のもとを離れるときに、勝ち戦に浮かれた父が言ったんだよ。此度の功績に何か褒美をやろうってね。それに照星師はなんて答えたと思う?」

 虎若の手が一瞬止まったが、蛍火が一睨みすると慌てて片付けに戻る。

「お金とか、……あ、新しい火縄銃とかですか?」

蛍火は首を振り、先を続けた。

「私も直接聞いたわけではないのだけれどね。照星師は、父が館に帰って最初に目にしたものが欲しいと言ったんだよ。……まあ、つまり、何もいらなかったんだろうね」

 蛍火は笑う。虎若と団蔵の先を促す視線を受けて、蛍火は肩をすくめる。

「で、父が最初に見たのが私だったんだよ」
「……それから?」

 団蔵が興味深そうな顔をしてそう言うが、蛍火は苦笑しただけだ。

「それだけだよ。ああ、片付けが全然済まなかったのに、話が終わってしまった」

 蛍火は落ちていた布袋を拾い、中を覗く。枯れ葉と団栗がぎっちりと詰められていた。
 これ、捨てていいの? と虎若に尋ねると、虎若は多分と頷く。それから、はっとして蛍火を見上げた。

「いやいや! もう掃除とかどうでもいいですよ! えっ、蛍火先生、今の冗談ですよね!?」

 蛍火はふふふと笑って目を細める。

「どうかなぁ、この部屋が綺麗になったら教えてあげるよ」

 蛍火がそう嘯くと、二人は猛然と掃除を再開した。その勢いがあれば部屋が散らかることはないだろうし、試験の成績もずっと良くなるだろう。
 部屋はあれよあれよという間に片付き、虎若と団蔵は額に汗を滲ませながら蛍火に詰め寄る。

「蛍火先生、本当はどうして照星さんの弟子になったんですか!?」
「さっき言ったでしょ」

 団蔵が腰に手を当てた。

「嘘だぁ! 本当はどうだったんですか!」
「嘘じゃないって」

 言いながら、蛍火はにこにこと笑う。いかにも人をからかって楽しんでいるような笑い顔だ。

「ぜーったい嘘! 本当は?」

 蛍火は本当だよと繰り返す。

「そんなに信じられない?」

 蛍火が問うと、虎若と団蔵は勢いよく頷く。どうして、と問うと、二人は口々に騒ぎ出した。

「だって、そんなおかしな話ないですよ!」
「あんまり馬鹿馬鹿しくって、は組の僕達だって騙されません!」

 そう、と蛍火は穏やかに目元を和ませる。

「おかしくて馬鹿馬鹿しいと言われると困っちゃうな」

 言うと、蛍火は床にぽつりと落ちていた筆を拾った。それを、虎若に握らせる。

「ああ、今の話はね、ぜぇんぶ嘘」

 やっぱり! と唇を尖らせる団蔵に、蛍火は雑巾を投げ渡した。