錦地獄



 貸し与えられた教生用の部屋に、大きな葛箱が運び込まれるのを見て、蛍火は眉をひそめた。
 よたよたとおぼつかない足取りで大きな荷物を運んでいた小松田は、最後の一歩で体勢を崩す。
 転ぶ直前に蛍火が小松田の首根っこを掴んだので、床板に叩き付けられはしなかった。そのかわり、艶々とした飴色の美しい行李は床に投げ出される。
 箔を散らした錦の打ち掛けが床に広がる。その上を金糸銀糸で吉祥紋を縫い取った細帯がころころと転がりながら横切っていく。
 うわあ、と小松田は感嘆の声を漏らした。

「すごくいいものですねえ!」

 扇屋の次男だけあって、そういう目は利くようだ。

「そんなことより、大丈夫?」

 蛍火が尋ねると、小松田はぽかんと口を開け蛍火を見つめてきた。ややあって、小松田は「ああ!」と手を打つ。

「大丈夫です。ああ、そう、この荷物の送り主なんですけど……ええと、誰だっけ?」

 うんうんと首を捻る小松田に蛍火は苦笑する。

「いいよ、誰かは分かってる」
「そうなんですか?」

 蛍火は曖昧に笑い、蓋の外れた行李を覗き込む。小袖、間着、雪洞の一揃えが隙間無く詰め込まれている。蛍火が名も知らぬような道具もあった。さながら錦地獄だ。蛍火は小さく溜息をついた。







 蛍火は三十間ほど向こうにある的をじっと見つめていた。
 今日催された蛍火と蛍火の曾祖父との久方ぶりの顔合わせは、見事失敗に終わった。
 蛍火は学園長の庵で座る萎れた小さな老人を思い出す。あのように、弱々しく小さな男であっただろうか。皺ばんだ顔の白粉とお歯黒が実年齢を判じさせぬが、蛍火の記憶が確かであるならば齢八十は超えている。
 片手では数えきれぬほどの年数が経てば、翁はこうも萎れるものであろうか。死んでおらぬだけ目出度いものか。

 ――死んでおればよかったものを

 蛍火は胸中呟く。
 そうであれば、子が死に、孫が死に、曾孫が死に、家が死んでいく様を見ないで済んだだろう。己の曾祖父を見やり、蛍火はぼんやりとそんなことを考えていた。
 曾祖父はぽつり、ぽつりと挨拶を口にする。耳慣れていたはずのゆったりとした言葉遣いが、聞き取りにくかった。
 贈った着物は、と問われ、筒袖に袴が今の蛍火の正装なのだと答えると、曾祖父は悄然と眉を垂れた。

 蛍火は晴れぬ気持ちのまま、素人よりもゆっくりと銃口に玉薬を注ぐ。さりさりと軽やかな音とともに、黒い粉は銃口に吸い込まれていった。
 今までは、ただぼんやりと家に寄りつかなかった。だが、久しぶりに曾祖父の顔を見て、蛍火の腹の底にふつふつと怒りに似たものが湧いた。己は、ずっと憤っていたものであろうか。
 猫の子か何かのように手放され散々苦渋を嘗めたというのに、今になって御家のために帰れと言われても、蛍火には代々血縁どもが暮らしていたそこを最早我が家だとは思えなかった。
 家に戻り婿を取るなど、考えたくもない。望まれて父の側室となった母も、その目を疎まれ早々に尼寺へ追いやられた。己もそうなる。男児さえ産めば婿も、配下も、己を喜んでどこへでも放り出すであろう。
 のろのろと火縄銃を構え、乱雑に引き金をひく。大きく弾ける火花とともに、弾丸はややぶれながら的を射貫く。木の板で作られた的の上半分が吹き飛んだ。
 息を吐き、また時間をかけて玉薬を注ぐ。
 曽祖父は蛍火を可愛がってはくれたが、今思えばどうにも独りよがりな可愛がり方であった。
 かつての栄華を忘れられない曽祖父は蛍火をひどく宮廷趣味に育てたがった。帝の妃か、それは叶わなくとも朝廷に出仕させ中央での覚え目出度くありたいと躍起になっていた。情勢を思えば、時代遅れな野望である。
 華やかで雅やかな朝廷に憧れる曽祖父は、蛍火にとってもそういう生活が幸福であると信じて疑っていなかった。
 対して戦乱の中で生を享けた父は、ずっと現実的で非情だった。蛍火に求めたのは人質として力のある城に嫁ぐこと。そこで、夫となる男の動向を察することができる知識を持つことだけだった。
 曽祖父が喜ぶように和歌や管弦に親しめば、父はいい顔をしなかった。父の言うままに兄と並んで軍略を聞いていれば、曽祖父はあからさまに落胆した。
 蛍火はいつでも二人の顔色をうかがっていた。

 一瞬息をつめ、引き金を引く。的の下半分が吹き飛んだ。

 父が、今の己を見たらどう思うであろうか。自ら放り出した娘が野良犬同然の鉄砲撃ちと成り果て、家に仇なす様を。
 三度、火花が散る。弾丸は柄だけになった的を掠めて幔幕に当たった。

「蛍火が的を外すの、初めて見た」

 不意に背後から声がする。蛍火が振り返ると、虎若が的の方を見ていた。

「そうですか? 若大夫の見ていないところでは、結構外してるんですけどね」

 冗談めかして言うと、虎若はきゅっと泣きそうな顔をしかめた。
 蛍火は銃を下ろす。

「どうして、そんな泣きそうな顔をしているのです」

 苦笑混じりに蛍火が問う。おおかた、己に実家から迎えがあったことを聞いたのだろう。虎若は鼻をすすって蛍火の方を睨みつけた。

「蛍火の方こそ泣きそうな顔をしてる」

 そう言われ、蛍火は己の頬に手のひらを当てる。手から火薬のにおいがした。
 本当だろうか。己の表情は、あまり見たことがない。悲しいことがあったの? と、虎若の円らな目が不安そうに蛍火を見上げる。

「――いいえ、悔しいのですよ」

 ぽつん、とそれが口をつく。言ってから後悔した。こんなこと、子供にするような話ではない。

「悔しい?」

 虎若が繰り返す。蛍火は己の手のひらを見下ろした。
 これを誰が公家の姫君の手と思うだろうか。筆か楽器しか持ったことのなかった手は節立ち古傷と火傷が目立ち肉刺がひび割れている。
 何度も痛い思いをした。師は無茶をさせるような人ではなかったが、女童だからとて手加減もしなかった。
 火傷など治らぬうちに何度も負ったし、銃の反動に負けて肩を外したのも一度や二度ではない。
 反動を抑え込むのではなく上手く逃がす方法を覚えた。強薬は使えぬから鎧の隙間を縫う射撃を覚えた。努力をした。有職故実に基づき日々を単調に生き、曽祖父の、父の、御仏の心のまま生きてきた昔の己とは違う。
 明日をも知れぬ狙撃手稼業で、生き延びるために必死だった。照星の役に立ちたかった。

「悔しいのです。血を吐くような鍛錬でここまで成ったのに、並み一通りの幸福に尻尾を振るだろうと見くびられていることが」

 蛍火の名を得て、何某家の姫御前は死んだのだ。錦も、絵巻も、筝も、家も、夫も、子も、蛍火の心を満たしはしない。
 必要なものは己の手で手に入れる。誰かに好き勝手筋道を立てられるのは御免だ。

「蛍火にはやりたいことがあるの?」

 虎若にそう問われ、蛍火ははたと思い悩む。それから、蛍火は虎若に視線を合わせて屈みこんだ。

「ありますよ。私は、これから私のやりたいことを探すんです」

 一つでも多くの的を射抜き、生きて、死んで、それだけでいい。己の拙い腕で掴み取れるのはそのくらいだと思っていた。だが、ここで各々夢を抱える幼い子らに囲まれて、ふともう少し違うやりようもあるのだろうかとも思ったのだ。