蜘蛛の糸



 蛍火というのは本名ではないらしい。何かの拍子に蛍火自身そんなことをぽろりと話していた。それを聞いた伊作が「え、じゃあ、本当はどんな名前なんです?」と問うと、蛍火は肩を竦めて「名を名乗る習慣はないんだよ」と言った。
 そのときは、誤魔化されたのかと思ってそれ以上は追及しなかった。だが、同級生から蛍火がかなり高貴な身の上だと聞いたときに、合点がいった。おそらく、本当に己の本名を口にすることがなかったのだろう。

「蛍火先生」

 薬草を叩いて潰しながら、薬効について説明をしていた伊作がふと蛍火を呼ぶ。向かいに座って伊作の講釈に耳を傾けていた蛍火が顔を上げた。瞬く黒瞳が先を促す。

「蛍火先生のお名前って……」
「またその話! 伊作は案外しつこいのだね」

 蛍火は呆れ顔で手の薬草を床にぽいと放った。叩く前に筋を外した草の茎の山の上に、ぱさりと落ちる。
 伊作はすみませんと笑う。

「父が亡くなったからもう諱を知っている人はいないよ。そんな名前を知ったって何の意味があるの?」
「それならば尚更、誰かに覚えていてもらわないとならないのではないですか」
「そういうものかな?」

 蛍火は草の汁で汚れた手を見下ろす。それから溜息をついて、小さく続ける。

「地獄に落ちる者の名だよ」

 そんなことを、と言いかけて、蛍火がひどく悲しげに眉をひそめていたので、伊作は口を噤む。
 蛍火は言葉を失う伊作に、ふと笑うと小さく一言を口にする。

「え、」

 伊作は目を丸くした。蛍火が口にしたそれは、おそらく、女の名前だった。伊作が知っているどんな女の名とも異なる響きをしていた。
 蛍火は何事も無かったかのように、いつもの調子で先を続ける。

「伊作の手は、他者を救う手だものね。もしも余裕があったら、地獄のいっとう深いところにいる私を掬い上げておくれよ」

 それだけ言って立ち上がりかけた蛍火の手を、伊作は縋るように握る。驚いて引っ込められかけた蛍火の手を、伊作は両手で握りしめた。
 女人にしては大きく、厚い。だが、白く、やわらかく、握った手のひらにざらりと肉刺の感触がある。手の甲に火傷の跡が赤く残っていた。

「必ず、そうします」

 伊作がそう言うと、蛍火は眉尻を下げて「ありがとう」と囁いた。