陰夜双瞳【ニ】



 弾正の私室に、低く抑えた、だが怒りを滲ませた声が響く。

「垂之はどこをほっつき歩いておるのだ」

 戦時であるというのに姿を見せぬ次男のことを問うと、家老がおたおたと顔を伏せた。

「若様は、その、兵たちの様子を見に行くと言って朝方出立なさったきりでございます」

 弾正は眉を顰める。家老はいっそう萎縮して小さくなったが、小さな高い声がそれを遮った。

「おもうさん、おにいさんはね、きっと城下の田楽を観に行きました」
「おまえは口を出すな!」

 弾正は末の姫を厳しく叱責した。弾正の父親が名付けた名を呼ばれることはない。小寿々殿や、すず姫と呼ばれる幼い末の姫は、びくりと肩を竦め、項垂れる。
 すずがそう言うのならば、そうなのだろう。軽薄な次兄の嘘誤魔化しなど、この娘はすぐに見抜く。戦ではその目を大いに活用する弾正ではあるが、それが家族や己に向かうことをひどく忌み嫌った。
 気味が悪い。胸の内を残らずさらわれる据わりの悪さは、味わった者にしか分かるまい。些細なでまかせや誤魔化しでさえ、即座に見抜かれ、丸裸にされるもの恐ろしさは、豪胆で鳴らした武者公卿でさえ肝胆寒からしめた。
 すずの母親も、そういう女であった。美しく、聡明だが控えめで、よく気の利く女であった。いや、気が利きすぎた。何事にも万事先回りされ、腹の底まで舐め尽くされるような薄気味悪さに、弾正はやがて女を厭うようになった。それを、女はもちろん全て知っていたのだろう。それがまた気味が悪かった。
 弾正は五歳になるすずを取り上げ、女を尼寺にやってしまった。女もすずも、さして悲しむでもなく、泣き喚くでもなかった。二人は今も手紙のやり取りをしているらしいが、その中身を弾正は知らない。知ろうとも思わなかった。
 だが、巷の評判に違わず弾正は末の姫を愛してもいた。それこそ、目に入れても痛くないほどに。日に日に母親に面差しが似ていくすずは、愛らしく、利発である。手習いも管絃もそつなくこなし、父親に似て体付きもしっかりとして風邪一つひかない。
 ふざけて兄に馬に乗せられても、家老に止められるまで馬の背にしがみついている体力と勝ち気さもある。正室と、その子である二人の兄とも上手くやれるだけの人当たりの良さもある。
 弾正はすずの小さな頭を撫でる。黒く艶々とした髪は、少年のように一つに束ねられている。
 軟弱で病気がちな長子と、遊んでばかりで何一つ学ぼうとしない次子に比べれば、すずは弾正にとって出来た子供である。
 なぜ男子に産まれなかったのか。弾正は何度その口惜しさに唇を噛んだだろうか。いや、それを何度この小さな娘にぶつけてしまっただろう。そのたび、すずは幼い顔に似合わぬ薄っぺらい笑みを浮かべて「それもみほとけのおみちびきでおざります」と答えた。
 弾正は、娘の母親によく似た優しげな白面を見つめる。いずれ、この末姫をどこかに嫁するとき、この目は奪わねばなるまい。この目を手の内から逃せば、必ず脅威になる。この夜の海のような、輝く両の眼を、己は潰すことが出来るだろうか。
 そして、この思惑すら、この娘の双眸が余さず見透かしていると思うと、今すぐこの目を潰してやりたくもなるのだ。