陰夜双瞳【三】



 板間の木目を眺めていた。敵方の地理、自軍勢、考えられる戦略、それらにおいて己が有利に立ち回る方法。それを飴色に艶めく木の板の上に思い描いていく。
 軍議の最中であった。緊急の招集であるということで、室内はひりつくような緊張感に満ちていた。だが、始まってみれば議題は周知の内容をなぞるものである。すっかり飽きて暇潰しをしていた照星同様、他の者も倦怠感を纏い始めていた。
 参謀家がひととおりの内容を口にすると、弾正は「さて」と参集した者共を睥睨した。それだけで、人々はてんで好きな方に向けていた視線を弾正の方に集める。

「この情報を、敵方に流した者がいる」

 参集者がざわめく。照星もついと視線を上げた。弾正は背後に控えていた少女に指で合図をする。少女はしずしずと弾正の傍らに膝をついた。

「彼奴」

 指が、参集者の一人を指す。細い手首に、木製の小さな玉が連なる念珠が幾重にも絡まっていた。

「彼奴」

 続いて、もう一人。
 一人目の男は獣のような呻き声を漏らし、短刀で己の喉を掻き切る。自白したも同然だ。置いて行かれた二人目の男は、何か反駁しようとしたのか猛然と立ち上がったが、そのまま言葉を失い立ち尽くした。弾正の合図で、その男は部屋の外に引きずられていく。

「計略については追って申し渡す。二度とは言わぬが、者共、この弾正少弼を謀ろうなどゆめゆめ思わぬことだ」

 弾正はそれだけ言うと、席を立った。その後ろを、童形水干の少女がついていく。
 室内は水を打ったように静まり返っていた。男の首から噴き出した血が板間を打つ音と、断末魔の喘鳴だけが響く。
 照星は呆気にとられてその様を見ていた。悪心を見抜く娘とは聞いていた。だが、もっと、卜筮じみた、曖昧なものだと思っていたのだ。
 照星は細く息をつき、ゆっくりと立ち上がる。周囲にいた誰かが「化物だ」と囁く声が聞こえた。





「もし」

 帰途につきかけていた照星を、中年の女が呼び止める。物陰から人目を忍ぶように、女は照星を手招いた。

「お呼び立てでございます」
「誰が」

 女はそれに答えなかった。ついて来いと仕草だけで示し、のろのろと薄暗い廊下を渡っていく。そのたびに床板が軋んだ。
 女は足を止めると、引き戸を開け放つ。伽藍堂の何もない部屋に、御帳台だけがぽつりと置いてある。

「姫様、この者で間違いのうございますか?」

 御簾と几帳の背後から、人の息遣いが聞こえた。

「あとは下がっておれ」

 ですが、と食い下がろうとする女に、御簾の向こうの声が答える。

「父の頼みでこの者をここへ呼んだのだ。二人で話をさせておくれ」

 わかりました、と女は一礼し、照星をきっと睨む。

「御屋形様の御息女にございます。人目がないからと礼を失することなきよう」

 そうは言いつつ、誰かしらは見張りについているのであろう。照星は眉を顰める。雇い主の御息女様が、いったい己に何の用があるというのだろう。あれを見た直後なのもあって、いい予感はしない。
 勿体ぶった動作で閉められた引き戸から正面に視線を戻す。目の前に少女の顔があった。驚きの声を上げそうになったのを、照星は飲み込む。

「驚いた顔も出来るのだな」

 目を丸くする照星に、少女はふうと微笑んだ。唇の端を持ち上げるだけの、儀礼的な笑みだ。

「そう固くならずとも、父の頼みというのは嘘だ」
「……では、なぜ」

 照星は慎重に言葉を選ぶ。身分の高い女、それも子供と相対する機会などあったためしがない。どのように接したらいいものであろうか。
 少女は踵を返すと、御帳台に戻っていく。幾重もの薄絹の向こうで、少女が膝をつく気配がした。

「不可思議な面構えの者がいると思うた」
「……は?」
「よう言われぬか」
「時折は」

 ふふふ、と少女の笑い声がする。産まれながらに人の上に立つことを当然としてきた者特有の居丈高さはあったが、語尾は柔らかく人好きのする声音である。だが、子供にしては出来すぎていた。

「会うてみたかっただけだ」

 照星は困り果て、その場に立ち尽くした。このまま帰ったら良いものか、立ち去ったら良いものかもよく分からない。子供の他愛のない悪戯であろうか。身分があるだけ厄介である。

「あの二人が間者であったことを知っていたな」

 何気ない調子で問われ、照星は御簾の向こうを透かし見るように目を細める。淡い影だけが動く。
 嘘をついても意味がないのだろう。ならば、もはやこれまでである。

「そのとおりです」
「なぜ報告をせなんだ」

 答えあぐねて黙る照星に、御簾の向こうの気配が動く。

「言うたはず。父は関係のない話。小娘がただの好奇心で聞いておる」
「……情報を手放す時機は見定めるべきでしょう。私は雇われに過ぎませぬゆえ、最も情報が価値を持つときを待っておりました」

 ふうん、と吐息じみた応えが聞こえた。

「私も、尋ね申し上げてよろしいですか」

 無礼を承知で言う。話したところ、疳の強い姫君というわけではなさそうだ。幼い割には、理が通じる。
 照星の読み通り、姫は特に気分を害した風もなく先を促した。

「なぜ、私がそれを知っているとお気付きになりましたか」
「巷の噂を知らぬのか」
「悪心を見抜く慧眼の持ち主と」
「ふふ、人の心を覗く魔物とは聞かなかったのか」

 それには答えないでいると、姫は「正直だ」と含み笑いまじりに言う。

「魔物だからだとは思わなんだか」
「貴ばれども姫君はお人にございましょう。なればそれにはきっと理がある」

 照星が答える。御簾の向こうの気配がぴたりと凍りついた。何か気に触ることを言っただろうかと不安に思うが、几帳と御簾を、内側から小さな手がひらりと押しのけた。
 先程目の前にあった白い顔が、照星の顔を遮りなくまじまじと見つめる。

「そうか、そう思うか」
「御無礼でしたか」
「よい」

 薄絹の繭を割るように、姫は几帳を押し開く。さりさりさり、と衣擦れの音が響いた。

「知りたいか」
「能うならば」

 姫は照星の目の前に立つ。童形水干の姿。個性よりも幼気の勝る容貌。夜の海のような黒い瞳だけがひたひたと輝く。

「父がうかみをほのめかしたとき、者共は驚き引き攣れて父を見ていた。そのとき、恐れ慄いていたのはあの二人だけ。其文字だけは、あの二人を見ていた」
「それは――」

 にわかには信じ難い話である。言葉にするのは容易い。だが、あそこにいた人間でそう分かりやすく大袈裟な顔をしていたものはいない。己さえ、二人を見たかと言われれば、そうだったであろうかと言わざるを得ない。もしもそれが本当ならば、大した目の良さだ。
 少女は初めて貴婦人めいた微笑を寂しげに曇らせた。

「父は妙吉祥菩薩の加護だと信じておる」

 弾正の仏教への帰依が篤いことは領民には周知の事実である。娘に神通力めいた不思議な力があったならば、きっとそれを慧眼と持て囃しただろう。
 この理に勝ち聡い少女の話を、ちらとでも聞いたであろうか。神通力でも慧眼でも、ましてや魔のものでもなく、人並外れた目の良さが齎したものだと理解しようとしたであろうか。

「姫様、よろしゅうございますか」

 仕切りの向こうで女が声を上げる。照星は遣る瀬無いものを飲み下し、目の前の少女を見下ろした。

「狩りをなさいませ、良い射手になる」

 少女はひどく薄っぺらく微笑んだ。

「この目を持ってあの父のもとに産まれたのも、御仏の御導きであろうよ」

 幼気さに似合わぬ死に瀕したような諦観を見て、照星は憤りに似たものを感じた。