陰夜双瞳【七】



 長らく世話になっていた何某家寄騎の武家屋敷で、出立の支度をしていた照星は表が騒がしいことに気が付いてふと顔を上げた。
 いつも元気のいい侍女の、さらにけたたましく喚く声が聞こえる。奥方に窘められたのか、その声がぴたりと止まると、ばたばたとせわしない足音が部屋の前まで響いてくる。

 ――何事だろうか

 控えめに、だが性急に明障子の向こうから声をかけられた。

「あのう、照星さま、起きていらっしゃいますか?」

 それに答えると、侍女がそろそろと戸を引く。

「ええと、あの、照星さまにお客様が……」
「いったい何者だ」

 こんな朝も早く。戦も終わったというのに。照星が言うと、侍女は困ったように眉尻を下げた。

「それが、何某の殿様の代理人だっておっしゃるんですよ」

 はたと先日の口約束を思い出し、照星は溜息とともに額に手をやる。律儀なのか迷惑なのか分からぬ男だ。
 身形を多少なりとも整え、おろおろするばかりの侍女の先導で客間に向かう。屋敷の主人とその奥方さえ客間の前の廊下に放り出され、困惑気に立ち尽くしていた。
 照星の姿を見かけた主人は縋るような目付きで近寄ってくる。

「照星殿、これは一体何事だ」
「ご迷惑をおかけする。お待たせするのも無礼でしょう。入ってもよろしいですか?」
「もちろんだ。後で理由は聞かせてくれ」

 主人は慌てた様子で明障子に取り縋ると、中に声をかけた。

「照星が参りました」

 入れ、と臈長けた女の声が答える。照星は戸を引き、額付いて客間に入った。

「表を上げよ」

 顔を上げた照星の目には、まず豪勢な衣裳箱と道具箱が山となっている光景が飛び込んできた。まるで姫君の嫁入り道具か何かのようだ。
 その傍らに、件の中年の女がすっくと立っていた。その佇まいに似合わず、顔は青褪めている。脇に控える数人の侍女や荷物を運んで来たであろう下男も、俯きがちで表情は暗い。道具箱だけがぴかぴかと輝いていた。
 常は主人がいるであろう上座に、これもまた美しい錦の打ち掛けを纏った姫君が、つくねんと座っていた。
 幼い顔に儀礼的な微笑みを浮かべて照星を見る。

「其文字であったか。また会うとは思わなんだ」

 照星が何かを言う前に、中年の女が口を開いた。

「此度は殿の遣いとして参った次第。そなたが申したように、殿は褒美を選び定められた」

 照星はぎょっとして反駁する。

「殿は正気であられるか」

 中年の女は一瞬何とも言い難い顔付きをしたが、すぐに照星を睨み付けた。

「無礼な! 元はといえばそなたがあのようなことを……!」
「だからとて茶番の褒美に実の娘を差し出す奴があるか」

 わなわなと引き攣る中年の女を諫めたのは、退屈そうにそのやり取りを眺めていた少女であった。

「おふさ、よせ。父が言い出したら聞かぬことは、よう知っておろう」
「ですが、あまりに無礼で……!」
「父に放り出され、この者にさえ見放されては、行く宛もなくなろうよ」

 そう言われ、おふさと呼ばれた女はぐっと唇を噛んだ。乳母か、養育係なのだろう。この者も少女の処遇には納得のいっていない様子であった。

「もう、よかろう。何某家を追い出されたただの小娘に、其文字らがかかずらう必要もあるまい。世話になったな。良ければ、反物の一つでも持って行け」

 ひどく淡々と少女はそう命じた。己の事だというのに、養育係よりも余程他人事のようだ。照星は眉を顰める。
 観念したのか、おふさはさめざめと泣きながら少女を抱き締めた。

「なんとおいたわしいことでしょう。おふさは姫様を一生忘れぬと誓います。毎晩姫様のために経を上げまする」
「それで気の済むなら、そうせい」

 これではどちらが大人か分からぬ。おふさは何度か涙を拭う動作をしながら、客間を後にした。侍女や下男もそれに続く。そのうち幾人かは積まれた反物や装飾品に物欲しげな顔をしたが、手を付けるものはいなかった。
 殿の下男がぴしりと引き戸を閉める。その間際、戸の隙間から屋敷の主人が不安そうにこちらを覗いているのが見えた。
 客間に少女と二人残された照星は、深く溜息をつく。少女が照星を見る。

「面倒なことになったと思うておるな」
「きっと姫様でなくとも分かるでしょう」

 そうだな、と少女は笑った。笑っている場合か、と照星は内心苛立つ。いや、泣き喚かれるよりはずっと良いはずだが、この落ち着きぶりは妙に照星の神経を逆撫でした。

「もう少し、不安には思われないのですか」

 そう問うと、少女は不思議そうに首を傾げる。

「詮のないこと。父は己の子の扱いに手を拱いておられた。其文字に託すしかなかった」
「詮のない、とおっしゃいますか?」
「これも御仏の御導きであろう」

 少女はあの薄っぺらい表情を照星に向けた。

「なに、死ぬまで世話をしろとは言わぬ。ここから東に慈林寺という尼寺がある。そこまで届けてくりゃれ。路銀はこれらの道具を金子に変えよ。どうせ尼僧には無用の長物よな」
「それで、どうされるのです?」
「どうもせぬ。いずれ必要なときに家に呼び戻されるか、そのまま死ぬか、どちらかよ」

 照星は立ち上がると、無遠慮に少女に歩み寄った。少女は目を丸くして身を引く。

「何を怒っておる」

 それを照星は黙殺した。少女の腕を強く掴んで立たせ、錦の打ち掛けを引き剥いだ。
 少女は悲鳴を上げるでもなく、されるがままにぼうと照星を見上げる。

「照星だ」
「……なに?」

 照星は少女の肩の辺りや背に触れる。さすがにあの父親の娘だけあって、体の作りはしっかりしている。

「私の名だ。妙な呼び方はやめろ」

 道具箱の中の美しい懐剣を手に取る。少女は何を思ったのか、すと目を閉じた。
 照星は長く伸びた少女の髪を、背の中ほどで切り落とす。髪がばらばらと床に散った。

「みっともなく我を通す方法を教えてやろう。おまえの仏はこんなことまで導くのか知らんが」

 とんだ仏もいたものだ。照星は手の内で装飾過多な懐剣を弄びながら言い放つ。
 少女は呆然と立ち尽くした。初めて色を失った唇が、わななくようにしながら開かれる。

「其文字は――」
「照星だ。敬意を払え。おまえはただの何も無い小娘で、私はおまえの師だ」
「あ、ああ、照星師は、――連れて行こうとしておざるのか」

 照星は鼻を鳴らした。

「そうだ。地獄の底まで連れて行く。それが嫌ならせいぜい子供らしく鼻水を垂らして仏にでも父親にでも泣きついてみろ」

 少女の顔から血の気が失せる。震える手で照星の手を握る。照星は何か溜飲が下がった気がして、緩くその手を握り返した。