曙光の赫【三】



 面白くない、と尊奈門は小石を蹴飛ばす。雑渡の家の前庭を掃き清めながら、尊奈門は溜息をついた。
 この時間は、いつもならば今日一日使う水を井戸から水瓶に移す仕事をしている。それは、今日は蛍火が命じられていた。
 水汲みは一番嫌いな仕事ではあったが、横取りされたようで気に入らない。命じられた蛍火が嫌な顔一つしないのも気に入らない。

 照星と蛍火はしばらく雑渡邸に滞在していた。蛍火は雑渡の家の雑用や、里の仕事を手伝っている。
 人当たりのいい蛍火は雑渡の預りということもあって里の者に可愛がられていた。尊奈門は同じ年頃の少年達に「女と暮らしてるんだって?」とからかわれるのだから堪らない。
 そのたびに悪態をつき、蛍火にきつく当たるのだが、当の蛍火がにこにこと柳に風なのだから振り上げた拳の行き先が見つからない。
 かといって、頭から無視できるかといえば難しい。里の娘とは言葉遣いも立ち居振る舞いも異なる蛍火は、尊奈門には目新しく映った。仲間達の興味を惹く蛍火と一番近しいのが己だということは、密かな自慢でもある。

「尊、教えてほしいのだけれど」

 声をかけられ、尊奈門ははっとして箒を握った。声の方に視線を向けると、小袖をびっしょりと濡らした蛍火が立っている。
 土埃で汚れた顔を洗い、ぼろぼろの着物を着替えた蛍火は、しっかりと女の子に見えた。

「柄杓はどこに戻しておけばいい?」

 濡れた着物のことには頓着せずにそう言うので、尊奈門は呆気にとられた。

「着替えろよ!」
「どうして? ああ、濡れてしまったから? 今日は天気がいいからそのうち乾く」

 そんなことを言って、風邪を引いたらどうするのだ。そう言いかけて、まるでこれでは心配をしているようだと尊奈門は口を噤む。

「水汲みで着物を濡らすなんて、鈍臭い奴だな! のろま!」

 そう憎まれ口を叩くと、蛍火は不思議そうに首を傾げた。

「心配してる?」 

 尊奈門はどきりとして後退る。手にしていた箒を振り上げ、それで殴りつける真似をして脅かそうとした。

「そんなわけないだろ! ブス!」
「そうなの?」

 蛍火はやはりおっとりと笑い、箒におびえる素振りもない。毒気を抜かれた尊奈門は箒を下ろした。

「なんだよ、調子が狂う」
「なんでもいいけど、柄杓を戻す場所を教えてよ」

 そして、めげない奴である。尊奈門は悪態をつくのも忘れて「わかった」と頷いた。

 それを縁側から眺めていた雑渡が呆れて溜息をつく。

「まったく、尊奈門の奴、すっかり手玉に取られているな」

 長旅で酷使していた火縄銃を丹念に整備していた照星は、部品から顔も上げずに答えた。

「蛍火にも少しは言い返せと言い聞かせてはあるのだが」

 何を言われても微笑むばかりの蛍火を見ると、ついそう口を出してしまう。それを聞いた雑渡は思わず膝を打って笑った。

「おまえ、すっかり親のようだな」
「長くいれば情もわく」

 淡々と言う照星を、雑渡はちらりと横目に見る。

「蛍火はねえ……ありゃ多分尊奈門が何を言っているかよく分かっていないぞ」
「――なに?」
「幼い頃はお綺麗な城で大人に囲まれ、それからおまえにあちこち連れ歩かれていたんだ。ガキが喧嘩で使うような雑言の意味が分かってないんだろ」

 照星は目を上げた。蛇のごとき鋭い双眸が雑渡を睨む。とはいえ雑渡は蛙のように縮こまる殊勝な男ではない。

「なぜ、そう思う」

 照星の言葉に、雑渡は包帯の隙間から覗く目をにいと細める。

「すぐには気付けなかったが、蛍火を知っている。もちろんその頃は蛍火という名ではなかったが」
「そうか、記憶は確かか」
「さあねえ、どうだろう。でもこちらの持っている情報を鑑みて、最悪の予想をした結果だよ。どうしてあの子をおまえが連れているのかは皆目見当が付かんがね」

 傷を負ってなお恐ろしい男である。照星は蛍火の後ろ姿を目で追う。

「詮索するなと言っただろう。おまえの益にならん」
「忍の性でね。私の予想が合っているか、答え合わせをしてみるか」
「互いのためにやめておけ」

 雑渡は取ってつけたような笑みを引っ込め、低く照星の名を呼ぶ。

「今のところは詮索しないでおく。ただ、一つだけ――どうして連れている」

 雑渡が問うた。照星は訝しげな視線を雑渡に向ける。雑渡は大袈裟に首を横に振った。

「あの子については聞かないと約束しよう。私はね、照星、おまえが、どうしてあの子を弟子にしようと思ったのかが聞きたいんだ」

 雑渡の言葉に、照星はふと視線を庭先に向ける。
 この孤高の狙撃手が、なぜ弟子などとろうと思ったのか。もっと浮世離れした、此岸と縁の薄い男だと思っていた。それこそが無比の炮術のよすがであるとも。
 雑渡が照星の表情を覗き込むようにすると、照星は鬱陶しそうに雑渡を手で払った。

「あまりに可愛げのない子供だったから、思いもよらないような道に放り込んでやった」

 予想もしなかった答えに、雑渡は言葉を発するのも忘れた。しばらく沈黙してやっと「……は?」とだけ言う。それから深々と息を吐いた。

「鬼か。それが今では情がわいているのだから始末に負えん」
「放っておけ」

 照星は再び火縄銃の部品を手に取る。それから、不意に雑渡の方を見つめた。

「昆奈門、仏が人を導くと思うか?」

 雑渡は笑う。

「そうなら世の中どれ程ましだろうよ」

 照星も唇の端を上げた。