曙光の赫【四】



 焔硝蔵に保管された火薬の様子を見るに、ここ二、三年は手を入れられた様子がなかった。雑渡の頼みで蔵の中を改めていた照星は眉を顰める。
 回復しているとはいえ、かなりひどい状態だったのだろう。果たして忍として再起できるものであろうか。隠忍はもとより、あの容貌では陽忍も務まるまい。
 そんなことを考えていると、小さな咳と共に蛍火がうっすらと埃の積もった壺を運んできた。

「照星師、これで最後です」
「ああ、そこに置いてくれ」

 蛍火は覚束ない足取りで照星の傍らにそれを置く。

「終わったら、遊びに行ってきなさい」

 照星が言うも、蛍火は首を横に振った。

「見ていてもいいですか?」

 丸い黒瞳が照星の手元を覗き込む。真剣な顔つきに、照星はふと笑った。

「好きにしなさい」
「はい、好きにします」

 蛍火は嬉しそうに微笑み、照星の向かいに腰を据える。
 照星は火薬や油の見分をしながら、ぽつぽつとその用途や原材料について話して聞かせた。
 己の知識や技術を次代に伝えようとしたことはない。弟子を取るよう勧められたことも、是非教えを請いたいと願う者もいたが、結局実現しなかった。
 所詮は人を殺める技術だ。いや、技術とも呼べぬ。銃という武器で戦に勝つことを考えたとき、まず必要なのは使い手の技量ではなく道具の能力だ。より早く装填でき、より精度が高く、より破壊力の大きな、そしてより数の揃えやすい武器が現れたとき、己のやりようはすぐに通用しなくなる。そしてそのような武器はすぐに現れるだろう。
 そんなものを遺してどうなるというのだ。
 だが、己に教えられることといえばこれしかないということも事実である。照星は蛍火に己の意思を持つ方法を知らしめたかった。それを、立ち位置を決め、火薬の量を決め、引き金を引く瞬間を決める方法を通してしか教えられない己の不器用さをほんの少しだけ悔いた。
 蛍火は変わった。弱々しいながらも状況に流されるままを良しとしない気概を持ち始めている。このまま連れ歩き、これ以上の炮術を身に付けさせることが、果たして蛍火のためになるのであろうか。
 蛍火を引き取ったこと自体を後悔してはいない。しかし、他にやり方があったのではないかと思う瞬間がある。可愛げの無い姫君に一泡吹かせてやりたいという邪な思いが、あのときの己にはあった。
 明日をも知れぬ狙撃手稼業に引きずり込むよりも、もっと蛍火のためになる方法がいくらでもあっただろう。
 稚く己を慕う蛍火が、心のどこかでそう思ってはいないかと考えずにいられなくなる。

 照星は手を止め、蛍火の顔を見つめる。黒い目が数度瞬きして、不思議そうに見つめ返してくる。

「蛍火」
「はい」
「ここにいるのは楽しいか」

 蛍火は少しの間考え込むように黙っていたが、ゆっくりと首肯する。

「はい、雑渡殿も良くして下さいますし、皆と遊んだりするのは楽しいです」
「そうか」

 照星は蛍火の頭に手を乗せる。蛍火はくすぐったそうに笑った。

「ここに残る気はあるか」

 蛍火の笑みが消える。口の端に儀礼的な微笑を浮かべて、蛍火は照星を見つめた。

「なぜ」

 短く蛍火は問う。

「おまえが望むなら、昆奈門に話をつけてやろう」

 ほ、と蛍火が息を吐く音だけがした。

「考える時間をください」

 夜のしじまのような双眸は何も訴えかけては来ない。ほんの少しだけ、その目に涙を溜めて一緒に行きたいと縋り付いてくれぬかと期待したのだ。
 焔硝倉の出入り口から、幼い声が蛍火を呼ぶ声がする。

「蛍火、あそぼー」

 呑気な甲高い声が蛍火を呼ぶ。蛍火は申し訳なさそうに照星を見上げた。

「行ってきなさい、待たせては可哀想だ」
「はい、行ってきます」

 踵を返した蛍火の髪が揺れた。振り返りもせず行ってしまう蛍火の背中が、妙に寂しかった。



******



 てん、てん、と擦り切れた鞠が地面を跳ねる。それを取りに走る小津の後ろ姿を見送り、蛍火は「ごめんよぅ」と声を掛けた。どうにも鞠つきは上手くならない。何度やってもあらぬ方向に鞠を放ってします。
 鞠を手に、息を切らして帰ってきた小津は、仔犬のようにはしゃぐ。

「蛍火は本当に鞠つきがへたくそね!」

 蛍火はむっとして唇を尖らせた。

「じゃあどうして誘ったの?」

 小津から鞠を受け取った現がにっと笑う。

「へたくそで面白いもの」
「ひどいなあ……」

 現がとんとんと鞠をつく。端正な横顔が何か唄を口ずさんでいるのを、蛍火はじいと見つめていた。
 小津が笑いながら現の鞠つきを邪魔して手を出す。現はそれを避けてくるくると回りながら鞠をついていた。小袖がひらひらと翻る。
 小津の手が鞠に当たり、鞠がぽーんと跳ねていった。

「私が取ってくるよ」

 蛍火は小走りに鞠の後を追いかけた。勢いの付いた鞠はなかなか止まらない。転がる鞠を、誰かが拾ってくれた。蛍火は息を切らしながらその人に近付く。

「ありがとうございます!」

 どういたしまして、の言葉の代わりにがっしりと頭を掴まれる。ひえ、と蛍火は小さく悲鳴を漏らした。
 鞠を片手に、乱暴に蛍火の頭を撫でる高坂の目元は優しげに和んでいる。だがその手付きが本当に力強いのだから堪らない。

「わわ、わ、わう、取れる、頭が取れる、あにさま、頭取れちゃう」
「そんなことがあるか。蛍火、小頭は大事ないか」
「あ、あああ、あい」

 そうか、と高坂はやっと蛍火の頭を離してくれた。くらくらする頭を抱えて、蛍火はしゃがみ込む。
 恨みがましく蛍火に睨まれ、高坂は目を細めた。冷たげな印象を受ける容貌に反して子供好きなたちであるらしく、高坂はよく蛍火を気にかけてくれる。
 ここでは兄だと思えと言い聞かせ、あにさまと呼ぶようにも言ってくれた。実のところそれは尊奈門へのあてつけ、というのも理由の一つではあるのだが。

「里の娘達と遊んでいたのか」
「はい」

 高坂は微笑み、鞠を返してくれた。それから両手で蛍火のぐしゃぐしゃになった髪を直してくれる。

「そうか、邪魔をして悪かったな」
「いいえ、鞠を拾って下さってありがとうございます」
「おう」

 小津と現が心配そうにこちらを見ているので、蛍火はそちらに大きく手を振る。駆けて戻ると、二人は我先にと蛍火の持つ鞠に手を伸ばした。
 小津に先んじて鞠を手に入れた現が、鞠をぽんぽんと手で遊びながら蛍火を見る。

「高坂のおにいさんと話していたのね」
「うん」
「わたしの姉様が、高坂のおにいさんは素敵だって言ってた」
「へえ、そうなの」

 素っ気なく返す蛍火に、現はからからと笑う。再び、器用に鞠つきを始めた。

「ああいう人のお嫁さんになれたら幸せねって言うの」
「そうなんだ」

 小津は大きく首を横に振った。

「私、お嫁さんになんかなりたくないな! 現と、あと蛍火と、ずっと遊んでいたい!」
「え、私も?」

 目を丸くする蛍火に、小津はおおげさにびっくりして見せた。人懐こい栗鼠のような顔が、いっそう人懐こくなる。

「もちろん!」

 そうだね、ありがとう、とだけ言えばいい。それだけ言えば終わるような他愛のない話のはずだった。だが、それが言えずに蛍火は立ち尽くす。
 蛍火も、小津と現が好きだった。余所者の蛍火を屈託なく遊びに誘ってくれた。それがどれだけ蛍火にとって嬉しかっただろうか。明るくて元気な小津と、大人びて洒落た現と、いつまでも一緒に遊んでいられたらどんなにか良いだろう。

「どうしたの、蛍火」

 現が気遣わしげに蛍火の顔を覗き込む。蛍火は微笑み首を横に振った。

「ううん、なんでも。そうだね、ずっと一緒にいられたらいいね」

 ふと師の言葉を思い出す。師は己にここに残ってほしいのだろうか。つたない己の火縄銃では、師の仕事を手伝うことも出来ない。守られているばかりの己に、師にとって連れて歩く理由があるのだろうか。
 蛍火に根気強く渡世の方法を教えてくれた照星に、蛍火は報いたいと思っている。出来得るならば、教えてもらった火縄銃で照星の役に立ちたい。
 だが、照星がそれを強くは望んでいないことも、蛍火には分かっていた。分からなければいいのに、と思った。