曙光の赫【五】
表情のほんの一瞬の機微。目蓋の震え、こめかみの引き攣り、引き結ばれる唇。そういったものからその表情の持ち主の心を類推することは、蛍火にとって目で見て耳で聞くのとさして変わらない。
気味が悪いと詰られることもある。知りたくないことを知ってしまうこともある。それでもその目は蛍火の血肉の一部であり、容易に切り離せるものではなかった。
だから、その情報が得られないことは蛍火にとって目耳を塞がれ往来に放り出されることに等しい。
「蛍火、火縄銃を撃つところを私にも見せてくれないかい」
そう囁く男の目が、本心で何を要求しているか分からず、蛍火は恐怖で体を強張らせた。その包帯の下で、焼けた唇が軽蔑を刻んでいるのだろうか、それとも純然たる興味だろうか。
雑渡の手が蛍火の頭と頬を撫でる。ざらざらとした包帯の表面越しに、手の熱が頬に伝わった。
「なあ、照星、いいだろう」
肩越しに雑渡は照星に尋ねる。照星は蛍火を一瞥した。好きにしろ、自分で考えろ、との師の無言の言に蛍火は戸惑い俯く。
己がどうしたいのか。どうすべきなのか。どうすることを望まれているのか。単純だったはずの問いは脳内を往来するたびにぐにゃぐにゃと複雑になっていく。
永遠に感じられるほど長い間考え込み、蛍火はやっと頭を下げた。
「つたない腕ではございますが、御指導の程よろしくお願いいたします」
「そんな固くならなくていいよ、おいで」
雑渡に言われるままに蛍火は練習場に連れられていく。均した砂地に等間隔に的の並べられた練習場で、雑渡は一つの的を示す。
「あれくらいはどう?」
十間程離れた的を見て、蛍火は安堵の息をつく。あれならば当てられる。蛍火はその場に膝を付き、火薬と弾丸を詰めていく。いつもの通りにやればいい。使い慣れた中筒を構え、息を整える。
的の中心にだけ意識を集中し、引き金を引く。火花と共に、打ち抜かれた的は木っ端になって吹き飛んでいく。
「やるねえ、じゃあ、次、あれは?」
雑渡の指差す先に目をこらす。一町もあろうかという遙か向こうにぽつんと的が立っていた。ひゅう、と蛍火は痙攣のように息をする。
固くならないでいい、と言った割りには無茶苦茶なことを要求する。蛍火は心臓が早鐘のように打つのを聞きながら火薬と弾を込め、構える。こんな遠い距離で当たるわけがない。蛍火の使う火縄銃は中筒でそれほど飛距離もない。まさか本気で当てることを求められているわけではあるまい。
横目に雑渡の表情を窺い見る。包帯で覆われた顔からは何も得られない。ただ隻眼だけが愉快そうに細められている。
この距離は無理だと言ってしまおうか。意気地が無いと思われるだろうか。だが外せば師の顔に泥を塗るのではないだろうか。
蛍火は唇を噛む。集中しようとすればするほど的が滲んで見えた。手は汗で滑り、指先はかじかんだように感覚を失う。呼吸が浅いせいか、頭がくらくらした。
照準が合ったと思えば外れ、外れたと思えば合いを繰り返す。同じ姿勢をとり続けたせいで、頸のあたりが軋んで痛んだ。
「――蛍火」
雑渡の声が蛍火を呼ぶ。緊張の糸を強制的に切られた蛍火は引き攣るように息を吸う。反射的に引き金を握ってしまい、銃口が火を噴いた。ほとんど暴発に近い。火縄銃こそ取り落とさなかったものの、蛍火の上体は大きく仰け反る。肩に焼け付くような痛みが迸った。見当違いの方向に発射された弾丸は綺麗に均した砂地を乱す。
「あらら、平気か蛍火」
雑渡が軽い調子で言うので、蛍火は痛む肩に歯を食いしばりながら頷く。
「申し訳ございません。もう一度だけ……」
やらせてほしい、という前に照星が歩み寄ってくる。叱られるだろうか、と肩を竦めた蛍火の思惑と裏腹に、照星は蛍火の肩に探るように触れた。
「せんせ……」
「肩が外れている。やめておけ」
そう言われると肩の痛みが強くなった気がする。指先が痺れ、火縄銃をしっかりと持っているか分からなくなる。
「骨接ぎを呼ぶか」
雑渡が問う。照星は首を横に振り、蛍火に手拭いを噛ませた。
「痛むぞ」
照星の言葉の意味を飲み込む前に、肩に殴られたかのような衝撃が走る。蛍火は声を上げる余裕もなく痛みに悶えた。目の裏がちかちかして、間近にいるはずの照星の顔がよく見えない。蛍火はそれに少しだけ安心した。
やがて痛みが引き、じくじくとした鈍痛だけが残る。
「もう十分だろう。私の弟子で遊ぶな」
照星が低く言う。雑渡は芝居っぽく首を傾げた。
「そんなつもりはなかったんだけどね」
照星は溜息をつき、蛍火に目配せする。蛍火は小走りに照星に付き従った。
「包帯を借りる。おまえの部屋には売るほどあるだろう」
「そうだな、しばらく固定しておいた方がいい」
二人が言い交わすのを痛みでぼうとする頭で聞きながら、蛍火は溢れそうになる涙を堪えていた。悔しくて悲しかった。師の期待に応えられなかったことが? 人前で無様に的を外したことが? 思うように体が動かなかったことが? 師に叱責されるかもしれないことが? 雑渡の面白がるような目が? 分からなかった。全部そうかもしれないし、全部違うかもしれない。
人の思うところは見られるのに、己の思うところはよく分からなかった。
******
外れた右肩を包帯で固定され、痛み止めと腫れ止めの薬湯を飲まされた蛍火は、夕食の時間になっても眠り続けていた。
照星は汗ばむ蛍火の額に手をやる。この里に来てから、慣れぬ環境で気を張っていたのだろう。夜中も何度か目を覚ましていたようであったから、こうして深く眠ることが出来たのは怪我の功名かもしれない。
引き戸の向こうから雑渡の声がした。応えると、雑渡は静かに引き戸を引く。
「まだ寝ているのか」
「そうだな」
「一応言っておくが、眠り薬は盛っていないぞ」
「分かっている」
雑渡は蛍火の枕元に膝を付くと、目蓋を裏返す。蛍火は身動ぎすらしない。雑渡は照星の方を見て、声を低めた。
「この子を置いていくつもりで来たのか?」
雑渡が言う。
「それを考えないでもない」
照星は恬淡とそう答える。雑渡は照星がそうだと答えるものだと思っていた、もしくは、そんなことはしない、と。そういう曖昧な返答は、照星にしては珍しい。
「そうした方がいい。腕はまずまずだが、精神的に脆い。おまえのようにはなれん」
ああ、と照星は答える。迷い、決断を先延ばし、誰かに判断を仰ぎたがるのは蛍火の弱さだ。加えて他者の内情に敏すぎる蛍火に人は撃てないだろう。
「おまえに戦場から戦場に連れられるより、ここにいた方がいくらか真っ当だろう。同じ年頃の子供らもいるし、女衆もいる」
「そうだろうな」
「蛍火はいい子だし、他ならぬおまえが連れてきた子だ。無下にはせんさ」
照星は蛍火の寝顔を見下ろす。目の縁に涙の乾いた跡がある。それを指先で拭ってやる。
三年間、蛍火は一度たりとも泣かなかった。家族が恋しいなどとはおくびにも出さない。時には照星が厳しく叱責したこともある。賤しい生活でも、ひどい怪我をしても、双眸に涙が滲むことはあれど、決して泣きはしなかった。今日とて、ふくりとした幼げな唇を血が滲むほど噛みしめて泣くのを堪える様は痛々しいほどであった。
もっと早く音を上げると思っていた。そのときには寺になりどこへでも預ければいいと考えていたのだ。
「本人に決めさせる」
照星が言うと、雑渡は呆れた顔をする。
「まだ子供だ。そんなこと決められるか」
「いいや、そうでなくては意味が無い」
己ではどうしようもない家柄や血筋や伝統といったものを背負わされた挙げ句、年嵩の親族達に良いように利用されていた蛍火に己で考え決める能力が欠けているのは致し方ないことだ。
だが、雑渡の言ったように蛍火はまだ子供だ。いくらでも変わることが出来る。それに、照星が思うに、蛍火は牙こそ抜かれているが周囲に推し量られるよりずっと強い。
「おまえ、ほんっと蛍火に甘いな」
「うるさい」
「だが優しくない。もっと優しくしてやれ」
可哀想だろう、と雑渡は蛍火の肩を撫でる。どの口が言うのだ、と照星は鼻を鳴らした。