曙光の赫【六】



 いやな夢を見ていた気がした。
 目の奥の重苦しさと共に目が覚める。腕を支えに体を起こそうとすると、右肩が鈍く痛んだ。小さく呻いて、ぎこちなく寝床から這い出る。
 大抵のことは眠れば忘れる。いや、忘れようとしてきた。些末時にいつまでもかかずらっていられるほど、余裕のある生活ではない。
 蛍火は脂汗でじっとりと湿る顔を両手で覆う。こればかりは、忘れられそうになかった。
 痛い。悔しい。惨めだ。こんなに弱くてはどうして照星に報いることが出来ようか。きっと今より幼い自分ならば、それを諦めることが出来た。
 火縄銃の反動に耐えきれぬひ弱い体を、人の顔色を窺いすぎる悪癖を、そういうものだと諦められた。弱い己をそのまま受け入れた。ここで置いて行かれても、たとえ道端に捨て置かれようと、きっと己はそれもまた御仏の御導きだと己自身に言い聞かせただろう。その頃よりもずっとままならぬ。
 蝸牛ほどの大きさの鉛弾が的から外れただけでなんだというのだろう。人は死なぬ。国も滅ばぬ。なのにこれほどまでに憫然たる心の有り様になってしまうのは、これもまた弱さだろうか。
 目の奥が熱くなる。照星にあれほど心砕かれ、迷惑をかけ、それでもなお己は濁流に翻弄されるが如き木の葉のままだというのだろうか。

「起きたか」

 引き戸の開く音がして、蛍火は肩を震わせる。師の声に、蛍火は顔を覆う手を外せなかった。
 血の気がひき、足元がぐらぐらした。今すぐ逃げ出したくなるのを堪える。

「ごめんなさい」

 震える声で何に対して謝っているのか、自分でもよく分からなかった。師の顔に泥を塗ったこと? そうではない。多分もっと大切なことだ。
 照星はそれに対して何も言わなかった。衣擦れの音だけがして、大きな手が蛍火の肩に触れる。

「もっと早く止めるべきだった。怪我をさせてしまった」

 その手の優しさに、息が詰まる。いっそ叱責してくれればよかった。それならばまだ己は期待されていたのだと安心出来たのではないだろうか。

「……ごめんなさい」

 声が掠れた。照星はやはり謝罪には何も答えない。

「今日は無理せず休みなさい」
「……いえ、何かしていた方が――」

 気が紛れる。だが、最後まで言葉に出来なかった。両目を覆う掌の向こうで、照星が「そうか」とだけ言う。

「好きにしなさい」
「――はい」

 蛍火は照星がそれをどういう顔で言ったのか気になったが、恐ろしくて恐ろしくてどうしても見ることが出来なかった。



******



 じわじわと油蝉の泣く音がうるさいほどである。水汲みと馬小屋の藁上げを終えた尊奈門は、前庭の掃除をしている蛍火を見かけて足を止めた。
 尊奈門が水汲みを始める前から、ずっとああしている。庭掃除など三度終わらせられる程の時間が経っていた。もう日も高く昇り、庭はどんどん暑くなっている。あんな日陰もないところで立っていては、暑さにやられてしまうのではないか。
 尊奈門は、蛍火が怪我をしていることを知っていた。火縄銃のことで、雑渡の前で失態を演じたことも。
 雑渡は一度の失態で部下を見放すような男ではない。ただ一度の過失が何だと言うのだ、と尊奈門は思う。己を、誰かを、取り返しのつかないほど傷付けたわけでもない。そんなものいくらでも挽回出来る。
 尊奈門はいつもより小さく見える蛍火の背中に歩み寄った。夏の暑さで乾いた地面は、蛍火が左手でぎこちなく扱う箒で掃かれるたびに土埃をあげた。

「おい、蛍火」

 わざと乱暴に呼びかけると、蛍火はのろのろとこちらを見た。いつも優しげな光を帯びた蛍火の双眸が、暗く倦み疲れてこちらを睨む。

「なあに」

 穏やかな口調に反して、声色は硬い。予想より憔悴した様子の蛍火に、尊奈門はたじろいだ。声をかける前、何と言ってやろうとしたのかすっかり忘れてしまった。

「け、怪我したんだってな! だからおまえはのろまだって言うんだ!」

 ああ、違う。こんなことを言おうとしたんじゃない。自分はいつもこうだ。蛍火を前にすると、憎まれ口ばかり叩いてしまう。
 尊奈門は蛍火の顔を伺い見る。いつものように困り顔で笑っているはずの蛍火は、大きな目に涙をいっぱいに溜めて血の出るほど唇を噛んでいた。

「――――あ、」

 しまった、と思ったときにはもう遅い。蛍火は持っていた箒で思いきり尊奈門を殴りつける。とっさに両腕で受けると、古びた竹箒は柄の真ん中でぼっきりと折れて飛んでいく。

「な、何すんだよ!」

 ひどい痛みに悔し紛れに蛍火に折れた竹の柄を投げつける。それは蛍火の額に当たって弾けた。蛍火の額がぱっくりと割れ、血が噴き出す。それを気に止めるでもなく、蛍火は尊奈門に掴みかかってきた。
 尊奈門も蛍火の襟を掴むも振り払われる。腕の長さが少し足りなかった。ああ、こいつおれより背が高いんだったな、と混乱する頭の片隅で思った。
 ばちん、とものすごい音がして、それから焼け付くような痛みが頬に走る。殴られたのだと気付いたときには、二発目が拳で同じ頬に入っていた。

「うるさいっ! おまえに、おまえに何が――!」

 額からだくだくと流れる血に染まった蛍火の鬼気迫る表情に気圧されたが、このままやられっぱなしでは本当に殺されそうだった。尊奈門は蛍火の肩を突き飛ばす。蛍火は呻いて尻餅をついた。怪我をしていたのだったと思い出し、尊奈門は慌てて蛍火に駆け寄る。
 駆け寄る足に思い切り足払いをかけられ、尊奈門は埃っぽい地面に転がされた。蛍火は尊奈門に馬乗りになり、襟首を掴み上げる。蛍火の爪が尊奈門の胸元を引っ掻き血が滲む。それから逃れようとやたらめったら振り回した尊奈門の手の甲が蛍火の頬を打った。蛍火が怯んだ隙に尊奈門は蛍火の下から抜け出す。

「おまえの怪我はおれのせいか! 八つ当たりすんな!」
「うるさいっ!」

 思いの外鋭い前蹴りが尊奈門の胸を蹴飛ばす。息を詰まらせた尊奈門の頬を、蛍火は平手と拳で二、三発殴った。

「このやろっ!」

 喧嘩の理由も忘れて、尊奈門は蛍火の懐に入ると取っ組み合う。組み合う蛍火の手は、火傷しそうなほど熱く、蛍火の怒りを伝えようかとするようにどくどくと脈打って感じた。

「何をしている!」

 鋭い声に制止され、尊奈門ははっとして力を緩める。その隙に顔面に一発頭突きを入れられ、目の前がぐらぐらした。鼻血が顎から胸にぼとぼとと落ちるのを感じる。

「おいっ、やめろ、――蛍火!!」

 高坂は蛍火の後襟を掴み、引っ張り上げる。蛍火は憎々しげに尊奈門を睨みつけたが、ふっと憑き物が落ちたような顔になった。

「おまえら、一体何があったんだ」

 腑抜けたように高坂を見上げていた蛍火の双眸から、堰を切ったように涙が溢れだす。高坂も尊奈門もぎょっとして口を閉ざした。
 ぽろぽろと零れ落ちていた涙は、すぐに滂沱と変わる。わんわんと赤子のように声を上げて泣く蛍火に困り果てた高坂は尊奈門に顔を向ける。

「どうしてこんなことを」

 尊奈門はきまりが悪くて目を逸らす。

「……別に、いつもみたいにちょっとからかっただけで」
「おまえなあ! だからあれほど……!」

 叱責の鉄拳を飛ばそうとした高坂は、尊奈門の顔が殴る余地もないほど腫れ上がっているのを見て溜息とともに拳を解く。
 高坂は懐から手拭を取り出し、血を流し続ける蛍火の額に強く当てた。

「何を言ったんだ」
「それは……」
「言え、何とからかった」

 怪我をしたことをからかったと、正直に言ってもよかった。だが、多分、本当に多分なのだが、きっと蛍火はそれを言ってほしくないのだろうと思ったのだ。
 尊奈門は高坂の手の下で泣き続ける蛍火をちらと見て、俯く。

「ただ、……ブスって」
「この馬鹿者」

 呆れ声の高坂に、尊奈門は殴られるよりいっそう恐縮して項垂れる。
 高坂は尊奈門にも手拭を差し出した。

「派手にやられたな。鼻血を拭け」
「……私は大丈夫です」

 尊奈門は着物の袖口で顔を拭う。ずるりとした感触とともに袖が血でぐっしょりと汚れる。それを見ると急に体のあちこちがずきずきと痛みだした。



******



 蛍火が怪我をしたというので、昨日の今日で何事かと照星が雑渡の家に駆け付ければ、顔を血と涙でぐちゃぐちゃにして泣く蛍火と、蛍火と比べ物にならないほど傷だらけの尊奈門と、二人を手当する高坂と、珍しく戸惑う様子の雑渡がいて、照星は困惑した。

「……なんだこれは」

 思わずこぼした一言に、雑渡が肩をすくめる。

「混乱する気持ちはわかるが、怪我をして泣いている弟子を見て第一声がそれか?」

 雑渡が言う。それもそうだと思い、何と声をかけるかしばらく考えたが、結局照星は「なんだこれは」ともう一度呟く羽目になった。雑渡は溜息をつく。

「血だらけで泣く蛍火と、蛍火にやられてぼろぼろの尊奈門だ。それ以外に何に見える?」
「それ以外に見えぬから混乱している」

 照星は額に手をやり溜息をついたが、内出血で黒ずみかけた顔の尊奈門の傍らに膝を付く。

「すまない、尊奈門君。蛍火が君に怪我をさせたことを、蛍火に代わって謝らせてほしい」

 照星が言うと、尊奈門はぎくりと肩を震わせ俯く。

「いや、おれは……、私は……そんな……」

 ぼそぼそと呟く尊奈門を、高坂は「自業自得だ」と一蹴した。

「こいつがしつこく蛍火をからかって怒らせたのです。子供じみた真似はするなと重々言い聞かせてはいたのですが、私の監督不行き届きでございます。女子の顔に傷まで付けてしまい、申し開きの程もございません」

 深々と頭を下げる高坂を照星は押しとどめる。雑渡が鼻を鳴らした。

「尊奈門のことはいいから蛍火を泣きやませてくれ。可愛い幼子にこうも泣かれてはこちらも堪らん」

 茶化してそう言われ、照星は蛍火の方に顔を向ける。泣き腫らした顔は、額の傷だけ縫われていたが、それ以外は土も血もそのままで汚れ果てている。俯いた顔から膝に、ぽとぽとと涙が零れ続けていた。
 照星はしゃくりあげるたびに震える蛍火の背中に手をやる。

「蛍火」

 呼ぶと、ひぃんとか細い声を上げて蛍火は照星の胸に泣きついた。泣くなとは言えなかった。三年間泣くのを我慢し続けた幼子に、どうしてそんな酷なことが言えよう。
 照星は黙って蛍火の縺れた髪を撫でてやる。薄笑いを浮かべる錦の人形のようであった娘が、血と土の匂いをさせてなりふり構わず泣いていた。それだけで十分だった。

「尊奈門君」

 照星が声をかけると、尊奈門は叱りつけられたように背筋を伸ばす。照星はふっと笑った。

「ありがとう」

 尊奈門は不思議そうな顔をするが、神妙に一度だけ頷く。照星の胸に押し当てられる蛍火の頬と、そこに伝う止めどなく溢れる涙が、ひどく熱かった。