曙光の赫【七】



 朝食の席で顔を合わせた蛍火は、露骨に尊奈門から顔を逸らした。額には包帯、腫れた頬には膏薬の湿布がなされている。痛々しい姿ではあるが、傷の総量では尊奈門が遙かに勝っていた。
 床に座れば払われた足首と蹴飛ばされた胸が痛む。粥を啜れば顔中と切れた口内の傷が痛む。たったそれっぽちの傷が何だよ、と尊奈門は思う。もっとやり返してやれば良かった。

「蛍火、挨拶くらいしなさい」

 見かねた照星が言うが、蛍火は尊奈門にちらとも視線を向けなかった。何もない宙に向かって「おはようございます」と小さな声で呟く。

「蛍火」

 強く照星が名を呼ぶと、蛍火は唇を噛んで食べかけの椀を置いてしまった。蛍火は顔を上げ、あれ以来初めてまっすぐに尊奈門の顔を見た。目は怒りを滲ませ尊奈門を睨んだが、眉は自信なさげに垂れ、唇は色を失っている。

「怪我をさせてごめん。でも、……おまえの顔は見たくない」

 それだけ言うと、蛍火は硬い表情で席を立った。雑渡と照星に頭を下げると、小走りに部屋を出て行ってしまう。
 竹筒で粥を啜っていた雑渡が、その背中を見送って「あーあ」と声をあげた。

「こりゃ相当嫌われたぞ、尊奈門」

 尊奈門は膝の上で拳を握り、はいと呟く。高坂には散々叱られた。自業自得だと。その通りだと思った。からかいすぎたことではない。多分、そんなことで蛍火はあれほどまで取り乱さないだろう。
 もっと大切な、脆いところに土足で入り込んでしまったのだ。一度や二度、的を外し怪我をしたからと言って何だというのだという尊奈門の気持ちは変わらない。だが蛍火は強く気にしていて、尊奈門はあまりに軽々しくそれに触れてしまった。
 ひどいことをしてしまった。額から血を流す様よりも、頬を腫らす様よりも、怪我のことを指摘した瞬間の青ざめた顔の方が、尊奈門には痛々しく感じられたのだ。

「あ、謝りたいのです、……蛍火に」

 椀ばかりを見つめて尊奈門が言うと、照星は「そうか」と低く呟く。尊奈門は上目遣いに照星の方を伺う。

「蛍火は許してくれるでしょうか」

 照星はしばらく何かを考えていたが、穏やかな視線を尊奈門に向けた。

「蛍火が許すかどうかは私には分からない」

 尊奈門は項垂れる。誠実な言葉であることは分かる。照星という男はそういう人物だ。だが優しくない言葉だ。嘘でも「きっと許してくれる」と言ってほしかった。
 でも、と照星は前置きした。

「尊奈門君が申し訳ないと感じていることは、どうか蛍火に伝えてやってほしい」

 尊奈門は照星を見、次いで握りっぱなしで白くなった己の拳を見た。拳を開くと、血潮が手のひらに流れ込むのが分かる。

「蛍火は、尊奈門君が思っているよりずっと強情で不器用で、ものすごい阿呆だ」

 ひどい言いようである。尊奈門は呆気にとられて目を丸くした。

「蛍火は君に何か言われたから怒っているわけではない。君の前で取り乱し、泣いてしまった自分が許せないんだ。だから、本当は尊奈門君が謝る必要はないし、尊奈門君が謝っても蛍火が自分自身を許せるかは私には分からない。――それでもいいなら、尊奈門君が蛍火を心から心配して思いやってくれていることは、どうか伝えてやってくれないだろうか」

 そう言われ、尊奈門はしばらく椀を見つめていたが、勢いよく胸の前で手を合わせると「いただきます!」と大きな声で叫ぶ。ほとんど飲み込むように食事を終えると、椀を置き膝立ちになりながら「ごちそうさまでした!」と叫び、蛍火の後を追いかけ走り去っていく。
 その姿を見送った雑渡は面白そうに目を細めた。

「ああなったときの尊奈門はしつこいぞ。まあ私はそれで命を拾われたがね」

 答えようと口を開きかけた照星の言葉を遮るように、前庭から「おい! 蛍火、待て!」「いやだ! あっちへ行け!」と大騒ぎする声が聞こえる。照星はそのあまりの大音声に眉を顰めた。
 雑渡は堪えきれなくなったように喉を震わせる。

「いや、すまんな照星。蛍火が精神的に脆いというのは撤回しよう。とんだ跳ねっ返りだったな」

 照星は溜息をついた。



******



「おい! 蛍火! 人の話を聞け!」

 全速力で追いかけてくる尊奈門から、こちらも全速力で逃げながら、蛍火は喉の奥で悲鳴を上げた。顔も見たくない、話をする気は無いと何度言っても追いかけてくる。
 感情を抑えて応対するにも限度があり、蛍火はみっともなく「あっちへ行ってよ!」と必死に叫びながら走り回る羽目になっていた。
 脱臼した肩は痛むし、走って体温が上がると顔の傷もずきずきと疼きだす。
 里の中を縦横無尽に走り回りながら、蛍火は小津と現が地面に木の枝で絵を描いているのを見かける。

「小津! 現! 助けて!」

 二人は鬼気迫る蛍火の声にぎょっとして顔を上げ、必死に尊奈門から逃げる蛍火と、蛍火を追う尊奈門を見ると、何一つ分からないまま加勢した。
 現が絵を描くために使っていた木の枝を尊奈門の足下に投げ、足を取られた尊奈門の背に小津が馬乗りになり足止めする。

「ありがとう!」

 蛍火は振り返らないまま叫ぶ。がんばれー、と暢気な小津の声を背中で聞いた。
 今のうちにどこかに隠れようと蛍火は走り、里の外れの道祖神の傍らで高坂が腰を下ろして休んでいるのを見つける。そこに走り寄り、息を切らして茂みに逃げ込んだ。急に現れ頭から突っ込むような勢いで藪に隠れる蛍火に高坂は目を丸くする。

「あにさま、蛍火は来ていないと言ってください!」

 声をひそめて蛍火が言う。高坂は胡乱げな顔をしたが、里の方から尊奈門が駆けてくるのを見て合点がいった。

「高坂さん! 蛍火を見ませんでしたか?」
 
 高坂は里の方に続く道を指差す。

「向こうに走って行ったが……どうしたんだ」
「蛍火に謝るんです!」

 尊奈門は一瞬たりとも惜しいというように一息に言うと高坂が指した方に走り去っていった。その姿が見えなくなった頃に、蛍火はこそこそと茂みから這い出る。
 高坂は苦笑しながら蛍火の髪や着物のあちこちに付いた葉や蜘蛛の巣を払ってやった。

「おまえに謝ると言っていたぞ」

 言われた蛍火はきゅうと唇を噛み、地面を見つめる。

「謝られたって……困る」

 高坂は「そうか」とだけ答え、眉を寄せて笑った。

「私や蛍火のようなひねくれ者に、あの真っ直ぐさは眩しすぎるものな」

 蛍火は上目に高坂を見、また俯く。

「あにさま、私、本当は尊に何も怒ってないんです」
「ああ」
「ちゃんと謝らなきゃって思ってて」
「ああ」
「でも、私が謝ろうとする前に尊がすごい勢いで謝ろうとするから……」

 わははは、と高坂は声を上げて笑い、数度優しく蛍火の頭を叩く。急に笑われ、蛍火は驚いて固まる。

「いやすまん、本当にあいつはそういうところがあるよな」

 高坂は蛍火の腫れた頬と、額の包帯を手早く確認した。

「ただ、蛍火は顔に傷をつけられたことをもっと怒っていい。いつもからかわれていたことも、怒っていいんだぞ」
「……はい」

 蛍火は首を傾げながら答えた。



******



 夏の長い日も暮れ、辺りには紺青の闇と虫の鳴く声だけがあった。一日中蛍火を追って走り回った尊奈門は疲れ果て、足を引きずりながら道を駆ける。灯りのいらないほど明るい満月の夜であった。
 里の外れの道祖神の社の傍らに、蛍火が膝を抱えて座っていた。

「おい、蛍火」

 足音に気が付いていただろうに、蛍火は呼びかけて初めて顔を上げる。腹立たしげな顔をしてはいたが、もう逃げる様子はない。
 尊奈門は手にしていた花を無造作に蛍火に差し出す。贈り物にするには丈の大きすぎる花だ。杖のように長い茎に、大きな白い花が重たげに咲いている。勢いに押された蛍火は咄嗟にそれを受け取り、首を傾げた。

「なに?」
「……咲いていたから」

 尊奈門はそれだけ言う。蛍火はそれを受け取ったときのまま、硬い顔で立ち尽くしていたが、ふっと笑う。やっと笑った、と尊奈門の体から力が抜けた。

「なんという花か知ってる?」

 月のせいで青白く光を帯びる花を指先で弄びながら蛍火が言う。尊奈門は首を横に振った。

「立葵というの、きれいでしょう?」

 蛍火は節ごとに付いた花のうち、一つを手折ると髪に挿した。

「私の好きな花だよ」
「……おれは花のことは知らない。そんなものに興味はない」

 言ってから、もっと他の言い方があるのにと後悔した。蛍火は気を悪くした様子もなく「うん」とだけ答える。
 しばらく沈黙が続く。轡虫と鈴虫の鳴く声ばかりがうるさいほどに聞こえた。

「怪我させてごめん、本当にごめんなさい」

 虫の声に掻き消されるほどの小さな声で蛍火は呟く。まさか謝られると思っていなかった尊奈門は、呆気にとられて蛍火の顔を見つめる。照れ隠しに頬をかくと、まさに蛍火に殴られた箇所が鈍く痛んだ。

「……いいよ、おれが弱いのが悪い」

 尊奈門は肩を竦める。

「おれも、怪我させてごめん」

 それから、と、尊奈門は懸命に言葉を選んだ。

「ひどいこと言った。それも、ごめん」

 蛍火はいっそう強く膝を抱えて縮こまる。

「ただ、おれが言いたかったのは、おまえが失敗して怪我をしても誰も気にしない……いや、気にしないわけではないけど、そんなことで小頭は人を見限るようなことはないし、照星殿が怒るとも思えないし……。とにかく、また次頑張ればいいんじゃないかっていう……」

 言葉を重ねるごとに顔に血が上り、何を言いたいのか分からなくなってくる。しどろもどろになる尊奈門は、蛍火がぼろぼろと泣き出したのを見てぎょっとして口を閉ざす。また、何か余計なことを言ってしまっただろうか。

「なんでそういう風に思えるの?」
「な、なんでって……」
「ずるいよ」

 そう言ってしくしくと泣き出すので、尊奈門は困り果て、照星がしたように蛍火の背に手を置く。と、その手は思い切り振り払われた。なんだこいつは! という怒りをぐっと飲み込み、尊奈門は蛍火の傍らに座り蛍火が泣き止むのを待つ。
 しばらくしてぐすぐすと鼻を啜りながら顔を上げた。充血した目で尊奈門を睨むと、腫れた頬に手をやる。

「こんな顔じゃ火縄銃も撃てない」
「……ごめん」
「狙撃手の顔を傷付けるなんてひどい」

 はて、雑渡や高坂に「女子の顔を傷付けるなど」と叱られたのはそういう理由だっただろうか。確かに、こうも腫れた頬では火縄銃は支えられないだろうが。
 蛍火は目を擦ると、濡れた目で真っ直ぐに尊奈門を見つめた。

「……ありがと」
「なにがだよ」
「別に、何も」

 そのとき虫の声よりずっと大きな腹の虫の鳴く音がした。蛍火は顔を真っ赤にして腹を抱える。

「おなかすいた……」

 朝飯もほとんど手をつけず、あとは一日中尊奈門から逃げ回っていたのだから当然だ。尊奈門は立ち上がり、蛍火に手を差し出す。蛍火は素直にその手を取った。

「帰るぞ」

 うん、と蛍火は頷き、それからぱっと目を尊奈門に向ける。

「ねえ、一つ聞いていい?」
「なんだよ」
「ぶすってどういう意味?」

 うう、と尊奈門は呻いた。何を言っても怒らないと思っていたが、何を言っているか分かっていないのなら怒らなくて当たり前だ。
 尊奈門はがりがりと頭を掻く。

「ああ、うう……可愛くないとか、そういう」
「ふうん、そう思ってたんだ」
「別に、思ってるわけじゃ……」

 尊奈門は口ごもると、蛍火の手をぎゅっと握る。

「もし、おまえがその顔の怪我のせいで嫁に行けなかったら、おれが貰ってやるから」
「それはいらない」

 ここ一番の男を見せたつもりがすげなく断られ、尊奈門は恥ずかしいやら格好が付かないやらで顔を真っ赤にした。

「おっ、おま、おまえ!」

 蛍火はけらけらと笑うと、軽い足取りで里の方へ続く道を駆ける。深い暗闇に蛍火が消えてしまう気がして、尊奈門は慌ててその後を追いかけた。