曙光の赫【八】



 もう一度遠当てを見て欲しいと蛍火に言われた雑渡は、二つ返事でそれを了承した。肩が治ってからこちら、雑用が済むと里の娘達とも遊ばずにどこかに篭っていたということは知っていた。それが火縄銃の練習を一人でしていたのならば、そろそろだろうとは踏んでいたのだ。
 真剣な顔で銃口に火薬を注ぐ蛍火を見下ろしていると、ふと顔を上げた蛍火と目が合う。頬の腫れはとうにひき、額の傷も塞がっている。子供の回復力だ。数月もすれば綺麗になるだろう。

「雑渡殿」
「どうした、蛍火」
「もしかしたら外すかもしれませんが、そうしたらもう一度見てくださいますか」
「いいよ。怪我をしていると暇でいけない」

 雑渡が茶化して言えば、蛍火はふふと笑った。それから一瞬張り詰めた顔になり、的を睨む。
 火縄銃を構え、一呼吸置いて引き金を引く。耳を劈く破裂音とともに、一町ほど向こうにある的が弾け飛んだ。
 蛍火は額に冷や汗を滲ませながら、ひゅうと震える息をつく。

「やるじゃないか、蛍火」

 雑渡が言えば、蛍火は喜ぶでも安堵するでもなく硬い表情で頷いた。

「もっと喜ばないの?」
「喜んでおります」
「全然そういうふうに見えないな」

 蛍火は火縄の火を揉み消しながら、困ったように雑渡を見上げる。

「これが当たったら、師に付いていくと決めていたのです」
「外れていたら?」
「雑渡殿のもとに置いていって貰おうと」

 ふうん、と雑渡は蛍火の傍らに屈み込む。優しげな顔立ちには、確固たる決意が漲っていた。

「だから、そのときはもう一度見てくれと言ったのか」
「……そうしたら何度でも見てもらえますから」

 蛍火は肩を竦めた。
 雑渡は蛍火の黒い瞳を覗き込む。

「あれが外れていたら蛍火がうちの子になっていたのか。外したらよかったと思うのは無礼かい?」
「……いえ、そう思ってくださるのは嬉しいです」
「皆、寂しがる。里に友達も出来たろう。陣左もおまえをいたく可愛がっていた。それに、尊奈門とも会えなくなる」

 蛍火は一瞬、張り詰めた表情を翳らせる。黒々とした双眸が雑渡の隻眼をひたりと見据えた。

「どうして、雑渡殿は私を行かせたくないのです?」

 蛍火は急にそう言う。聡明で受け答えのいつもはっきりとしていた蛍火にしては珍しい、ちぐはぐな問いに雑渡はほんのわずか言葉に詰まった。

「私だって寂しいよ」

 ぱたり、と蛍火は一度だけ瞬きをする。

「それは、――それは本当ではないでしょう」
「……なに」
「世話係――いや、私はそれほど行き届いていない。忍として――は、使い物にならない。火縄銃――の腕もぼちぼちですし」

 蛍火はずらずらと考えられる理由を上げては、己で却下していった。濃い色の瞳が子供らしくない光を帯びて雑渡の目を覗き込む。

「私の出自を――」

 雑渡はつとめて飄然とその視線を受けた。こんな子供に心のうちを見透かされるつもりはない。
 ああ、と蛍火は小さく囁き、悲しそうな顔をした。

「ご存知だったのですね」

 雑渡の背筋が粟立つ。悪心を見抜く目など、ふざけた与太話だと思っていた。狡知な為政者で仏狂いのあの城主ならば、娘を何者かに仕立て上げることなど躊躇いはしないだろう。
 本当であったのだ。己の推量も、彼女の目も。
 雑渡は口の端を上げて笑う。

「知っていたわけじゃないさ。そうかと踏んでいただけで」
「自信がおありだった」
「どうかな。でも、そうだね、それを知ったらますます行かせたくなくなる」

 雑渡は蛍火の目を見つめる。何の変哲もない黒色の瞳だ。蛍火はその目にほんのりと怯えを滲ませ、一歩後退った。

「いくら努力しても、おまえは照星のようにはなれない。一山いくらの野鉄砲として野垂れ死ぬくらいならば、その目を私に貸してくれないか」

 蛍火は青褪めた顔を雑渡に向ける。決意を固めた幼い娘には酷な言葉だろうか。だがそれを伝えずみすみす死なせようという照星は、酷ではないと言うのか。
 蛍火は細い声で繰り返す。

「師のようには――」
「無理だ」

 あの炮術はすでに絶人の域に達しつつある。恵まれた体躯と、鋭敏な五感と、強靭な精神力と、神がかった勘と、弛まぬ努力の上に成り立っている。女の非力な腕と、華奢な体では、あの域に登り詰めることは難しい。男であってさえ、照星の後塵を拝することすら困難だろう。
 知らぬ娘ならば突き放した。どこで死のうと己の知ったことではない。だが、照星ではないが、長くいれば情はわく。それに家族同然の高坂や尊奈門が悲しむのは見たくない。
 いや、本当にそうだろうか。心の奥底で、蛍火の能力を最後の一滴まで搾り取る算段をしてはいないだろうか。母譲りと噂のその目を持つ血筋が、タソガレドキにどれほどの利益を齎すか考えるだけで怖気をふるう。
 己でも分からなくなる。他人だけでなく自身をも欺く己を、蛍火はどう見るのだろうか。

「……いやです」

 蛍火はぽつりとそれだけ零す。雑渡は蛍火の目蓋をなぞった。

「死ぬのはいやか」
「いいえ、見たくもないものを見せられるのはうんざりです。私が見るものは私が決める」
「死んでもいいのか」
「死んでもいい」

 ほんの幾日か前まで、引き金を引く時宜を得られず青褪め慄えていた娘は、きっぱりとそう言った。

「蛍火は何が見たい?」

 雑渡が問うと、蛍火はしばらく考えるように目を伏せる。その視線が己から外れて、雑渡は少しだけ安堵した。

「銃口の、その先の、――師の見ているものが見たいのです」

 なんとまあ出来た弟子だろうか。雑渡は溜息をつき、蛍火の頭を一撫でした。

「そうか。碌なものを見ていないかもしれないよ」
「……はい」

 項垂れる蛍火に、雑渡は少しいじめすぎただろうかと反省する。罪滅ぼしも兼ねて、その耳元に囁いた。

「照星がどうしてこの里に来たか聞いたかい」
「……いいえ。でも、私を預けるためかと」
「悲観的だな。そうならどれだけよかったか」

 雑渡は蛍火の背を押す。

「聞いてみるといい」

 言うと、蛍火は何か言いたげに二、三度雑渡の方を振り向いたが、割れた的を拾い上げると小走りに里の方へ駆けて行った。



******



 蛍火は撃ち抜いた的の破片を無言で照星に差し出した。それを見た照星は、口の端に笑みを浮かべて「それは?」と問う。

「的の破片です。私が撃ちました」
「そうか。それで?」

 それで。なんだと言うのだろう。どうして己はこれを差し出してしまったのだろう。蛍火は自分自身の行動に困惑しながら的を指先で弄ぶ。

「ええ、と、私が撃ったんです。この間失敗した距離から。それで……これが当たったら、照星師に連れて行ってもらいたくて、その、これくらい出来れば、我儘言ってもいいんじゃないかなって……」

 思って……、とひどく自信なさげに小さくなる語尾に、照星は呆れながら的の破片を受け取った。

「我儘ならばいつ言ってもいい」

 思ってもみなかった返答に、蛍火は「へ?」と気の抜けた声を漏らす。照星は呆れ顔のまま的の破片を蛍火に返す。

「あんまり阿呆なことを言うときには止めるが、それ以外なら話くらいは聞いてやる。おまえは人の顔色を覗いすぎだ」
「は……はあ」
「なんだその腑抜けた返事は」
「え、いえ……へへ」

 えへへ、えへへへへ、と笑う蛍火に、照星は眉を顰めた。

「なんだその不気味な笑いは」
「ごめんなさい、嬉しくて」

 嬉しくて、ともう一度呟き、蛍火は破片を握りしめる。
 どういう意図で照星が己を連れているのか、蛍火にはよく分からない。あのとき、照星は己に対して怒っていた。蛍火はその理由が分からず、己の何が照星を苛立たせたのかとずっと戦々恐々としていた。
 それでも、蛍火には照星しか寄る辺がない。荒唐無稽な己の言い分を聞いて「良い射手になる」と言った男の見る景色を、蛍火も見てみたいと思ったのだ。

「照星師、私、照星師と一緒に行きたいです」
「おまえがそうしたいのなら、そうしなさい」
「はい、そうします」

 蛍火が強く頷くと、照星は見慣れぬ木の箱を蛍火の方に押して寄越した。蛍火は重たげなそれをしげしげと見下ろす。

「なんですか?」

 照星は箱を開けた。中身は、鉄の部品に火の舐めた跡がうっすらと見えるような真新しい火縄銃だった。無骨で頑丈そうだ。四尺に余る寸法、十匁の士筒である。
 鈍く輝くその銃身の見事さに、蛍火ははあと感嘆の息を吐く。照星は目を真ん丸にして感心するばかりの蛍火を見て苦笑した。

「おまえが持ちなさい」

 蛍火は唖然として照星を見、次いで火縄銃を見下ろす。

「……いいのですか」
「私の荷が増えるのは御免だ」

 蛍火は何度か口を開けたり閉めたりしたが、結局何も言わなかった。嬉しいのと、緊張と、期待への重圧とで、手が震える。
 震える手を、床に付けた。

「精進します」

 蛍火が言うと、照星は「ああ」と答える。はた、と蛍火は顔を上げた。

「照星師、あの、ここへ寄ったのは――」
「火縄銃を買い入れるためだが、言っていなかったか」
「き、聞いてないですよぅ……」

 己が足手まといであるからここへ置いて行くつもりだったのではないか、と端から思い込んでいた蛍火はへなへなと床に崩れ落ちる。

「昆奈門に頼むのは癪だが、あいつは顔が広いし、ある程度信用は出来る」

 ある程度な、と照星は念を押した。暗く鈍く光る隻眼を思い出し、蛍火は「ある程度……」と口中で反芻する。
 照星は立ち上がると、蛍火を見下ろした。

「用事も済んだ。明日には発つ。――本当に、いいのか」

 ふ、と尊奈門のことを思い出す。嫁にしてくれると言っていたな。蛍火がずっとここにいると疑っていない様子だった。小津と現も、あんなに仲良くしてくれた。高坂にも可愛がってもらった。山本も、その御内儀も、子供たちも――。
 蛍火は目を伏せ、頷いた。