蒼穹を穿つ



 暗い雲が低く垂れ込めていた。谷底を騎馬の一団が進軍していく。馬印は青字に金の宝塔である。進むたびに乾いた土埃がもうと立ち上り、具足の金具が耳障りな音を立てる。

「さいあくだ……」

 それを崖の上から見下ろしぽつりと呟く女がいた。まだ若い、娘と呼んでもいい年頃である。名を蛍火と名乗っている。女だてらに狙撃手、用心棒として、合戦場や荷守りに駆り出されることを生業としていた。
 娘の盛りというのに、人目を欺く暗い色合いの装束に、顔のほとんどを頭巾で覆っている。その強面な格好に反して、頭巾のあわいから覗く双眸は黒目がちで優しげである。その目が、緊張と焦燥できゅうと引き絞られていた。

 援軍である。それも、敵方の。まさかここまで険しい道をこれほどの騎馬の軍勢が渡ってくるなど予想していなかった。目の良さを買われて斥候を任されていた蛍火は土煙をあげる軍を呆然と見下ろした。
 本隊に合流させるべきではないだろう。蛍火は首を巡らせ己が来し方を見やるが、ここから本陣はあまりに遠い。神出鬼没で鳴らした何某軍の騎馬隊に徒歩で勝てるわけがない。
 蛍火は身を低くしながら様子を覗う。黒で揃えた甲冑、たなびく青と金の旗。蛍火は溜息を押し殺しながら、物入れの早合に手を伸ばす。いつも使っているものに指をかけ、もう少し威力の大きいものを選び直した。
 負った火縄銃に早合を込め、火縄銃を構える。先目当ての彼方に何某弾正少弼垂其――実の父の姿を捉えた。堂々たる巨躯に黒々とした甲冑を着込み、炎を模した立物をきらめかせる様は、多聞天の化身のようだ。

 ――まさかこんなところで再会しようとは

 蛍火は頭巾の下で皮肉げに唇を歪める。
 幸か不幸か、この軍勢の誰が指揮官かはよく知っている。豪胆と類稀な統率力で畏敬の念を集める指揮官を失えば、騎馬隊は烏合の衆になり果てる事も。
 己の力のみをただ頼み、寄騎の裏切りを恐れた父は、次官に力を与えることを渋っていた。それが変わっていないのならば、指揮官を討つことさえ能えば勝機はある。
 耳の奥に心臓があるかのように強く脈打つ。気が付くと息をしていなかったので、蛍火は火縄銃を下ろし、深く息を吸った。

 ――当たらぬのではないか

 半ば願望のようにそう考える。距離にして二町と三十四間余り。四十度程撃ち下ろす。障害物はなく、日は隠れ、目を惑わすものも何もない。風は弱く、弾への影響はないだろう。

 蛍火は一つきり、溜息をついた。

 蛍火は火縄銃を構え直し父親に照準を合わせた。記憶よりも老いたように見える。兄達は元気だろうか。母はどうしているだろう。
 蛍火は一瞬息を詰め、引き金を引いた。ほんの僅かな間のあと、火花が炸裂する。そのとき、なぜか父がこちらを見た気がした。その表情までは見えない。見えなくてよかったと思った。
 弾正の巨躯は馬上でもんどり打って地面に落ちる。爆発音に驚いた馬達が足並みを乱し、弾正の落馬に周囲はどよめき、そして既に弾正が事切れていることに喫驚した。
 蛍火は震える手をぶらりと下ろす。火薬の匂いが鼻腔を満たした。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」

 低く呟くと、火縄銃を背負い直して踵を返す。厚い雲から耐えきれぬようにぽつりと雨粒が落ちてきた。



******



 両陣営の馬印、持ち主を失った具足や武器、どちらの者とも知れなくなった亡骸が荒れ野に累々と積み重なっている。火縄銃を抱えて高台からそれを見下ろす蛍火の背を、照星は見つめていた。

「蛍火」

 名を呼ぶ。常ならば反射のように顔を上げる反応が一拍遅れた。

「はい」

 此度の戦で蛍火は大きな戦功をあげた。第一の功労と言ってもいい。蛍火の働きがなかったら、勝利を掴めたかどうか。それ程の働きをしながら、蛍火は浮かない顔をしていた。
 敵方の援軍の将を射落とし、撤退せしめた。それに対する褒賞にしてはささやかすぎる金一封を手の内でちゃりちゃりと言わせながら、蛍火は照星を振り返る。

「今にも財布を投げそうな顔をしているな」

 照星が言うと、蛍火は苦笑して見せた。

「これだけ働いて、戦場で耳切りに精を出すのと変わらぬような報酬なら、こういう顔にもなりますよ」

 子供が拗ねるような調子でそう言う。その実、蛍火がどこまで本気でそれを言っているのか、照星には計りかねた。
 他者の心の機微に敏い蛍火は、己の表情、挙動がどのような印象を与えるかを知り尽くしている。照星の前では素直であるが、蛍火が本気で思うところを隠そうとしたとき、それを見通すことが出来るであろうか。

「私が撃ったというのに、信じていないようでしたからね。これでも照星師の弟子だというのに、小娘に火縄銃など扱えぬと頭から決め込んでいる。だからあの男、あの家柄でいい歳をしていながら傭兵の相手しかさせられていないのでしょうよ。能力にも人望に欠けるのでしょうね。そのうち戦場で自陣からの矢に撃ち抜かれる」

 そう穏やかに口にする蛍火は、機会さえあれば自分が撃ち抜きかねない目をしていた。その怒りはおそらく本物だった。怒る気力があるならば、気が塞いでいるわけではないのだろうか。

「誰が見たわけでなし、証だてするものがないからな。狙撃手稼業のつらいところだ」
「はあ、照星師はいやになったりしません?」

 衒いなくそう問うたように見える蛍火に、一瞬だけ照星は言葉に詰まった。黒い濡れたような瞳が、じっと照星を見つめる。
 出自に見合った典雅な所作や格式張った言葉遣いは忘れ果てた蛍火だが、双眸に時折閃く苛烈な光は彼女の父親を照星に強く思い出させた。

「地味だとは思っている」
「え、せんせいもそんなこと思ってたんですね」

 意外、と蛍火は呟いた。煤と土埃で汚れた顔に笑みが滲む。

「因果な生業ですね。こっちは端金のために親まで手にかけたっていうのに」

 照星が触れるべきか触れないべきか散々悩んでいたそれを、蛍火自身はあっけらかんと口にした。
 照星は答えあぐねて息をつく。蛍火は肩をすくめて微笑んだ。

「やだなあ、どうして師匠がそんな顔するんです?」

 照星は頭巾を外した蛍火の頬に指先で触れる。いまだ幼さの残る頬は、煤と土埃でざらりとしていた。
 そんな子供ではないと振り払われるかと思っていたが、蛍火は目を細めて照星の手に頬を寄せた。
 一生を、煤どころか土に汚れることさえ無かったであろう娘であったのだ。それを戦場に引き摺り出し、実の父親さえ殺めさせた。それで自責を感じない程、照星は外道ではない。
 蛍火を連れたことは悔いていない。得難い才を持った出来た弟子だ。だが、それが正しいのかは分からない。

「照星師、私は、神代の昔から親子兄弟骨肉相喰んできた一族の裔ですよ」
「……そういう話ではないだろう」

 照星は緩く蛍火の頬をつねる。いたい、と蛍火は眉を情けなく八の字にした。

「せんせ、あのね、撃ったことは、後悔していません。本当に。父の子であることと、師匠の弟子であること。後者を取ったことは私の誇りです」

 それだけ言って、蛍火はいっそう眉尻を下げ、泣きそうな笑い顔になる。

「でも、それが正しいのか、分からないのです」

 ああ、と照星は相槌とも溜息ともつかず低く囁いた。照星の指に絡まる蛍火の黒髪が、砂埃にまみれて軋む。

「何が正しいかなど、私にも分からない」

 照星が言うと、蛍火の肩が震えた。

「だが、狙撃手としては見事だった」

 照星に言えるのは、それだけだった。
 己に教えられることはこれしかない。だから、己が口を出せるのもこれだけだ。
 蛍火は目を丸くし、それから砂の色に汚れた頬をぱっと朱に染める。

「あ、ああ、え……」

 しばらく言葉にならない言葉を呻いたあと、蛍火は一筋だけ涙を溢した。蛍火は慌ててそれを袖口で拭う。汚れた顔がいっそう汚れてひどいことになった。

「……もう死んでもいい」

 半ば茫然としたまま蛍火はそう囁く。照星は呆れて眉を顰める。

「そういうことを軽々しく口にするな」
「ええと、じゃあ……ち、父親殺してよかった」

 照星は額に手をやり項垂れる。

「それならば死んでもいいの方がましだ」

 んん、と蛍火は口をへの字にしてしまった。張り詰めていた表情が緩み、唇に血の気が戻る。

「照星師」
「なんだ」

 珍しく蛍火は破顔した。常に控えめで感情を抑えた風のある蛍火は時に大人びて見られたが、歓喜でくしゃくしゃになった顔はそれなりに歳相応に見えた。

「師匠が、私を連れてきたことに複雑な思いを抱えていることはなんとなく分かっていました」

 照星は鼻を鳴らす。

「かなわんな」
「ふふ、そうですか? それなら、最初は私のこと、嫌いだったでしょう? それも知られているとご存知でしたか?」

 照星は黙って蛍火を睨む。蛍火はいたずらっぽく目を細める。まったく油断のならぬ弟子だ。

「嫌いだったわけではない。可愛げがないと腹立たしくは思っていた」
「ああ、なおひどい」

 生臭い風が蛍火の羽織った布をはためかせる。

「そりゃあ、絶対に十全に恨んでいないかと言われれば、ちょっと難しいですけど」
「……そうだったのか」

 それは知らなかった。

「だって、もう少しつぶしのきくことを教えてくれればよかったんですよ。炮術なんて流行らない。師匠だって常々おっしゃっているではありませんか。きっとそのうち鉄砲は安価に大量に出回るようになって、我々流れの鉄砲撃ちなどお役御免になってしまうと」

 専有性の高い戦闘の技術とするには、火縄銃は便利で扱いやすすぎた。昨日まで鍬を握っていた雑兵に持たせてさえ、一定の威力が期待できる。
 専門の使い手を育成するには、火縄銃はいまだ不安定な武器である。狙いは定まりにくく、威力も環境に左右されやすい。蛍火の如き稀有な目を以てやっと照星の期待する働きがこなせるようなものは術とは呼べぬ。
 浪漫を追い求めるには実利に勝ちすぎ、実用性を研ぎ澄ませるには安定性に欠ける。
 照星は蛍火の顔を見つめる。だから、蛍火にそれを預けてみようと思ったのかもしれない。将来を嘱望された侍大将にも、力を追い求める若者にも伝えなかった技術を、一度死んだ小娘に受け渡すというのは、末路として相応しいように、ふと思えた。

「こんな先のない技術を血の滲むような努力をして身につけて、いったい何になるのかと毎日思います」

 蛍火は軽やかに笑いながら、ひどく無礼な物言いをする。

「考えても答えは出ないし、でも、いまさら手放すこともできない。――ただ、私は、先目当ての向こうに父を見たとき、師匠の火縄銃と心中する覚悟を決めたのです」

 苦いものを迸らせて、蛍火は淡く笑う。そうか、と照星は蛍火の目蓋を撫でた。
 照星はこの弟子の人並外れた見る力以上に、先を見通す酷なまでの聡明さを愛している。決して勇敢ではなく、その慎重さは臆病なほどだが、火縄撃ちとして――廃れゆく技術の継承者として優れた適性だと思えた。

「物好きな」
「ええ、でも、好きにしますよ、私は」
「ああ、好きにしなさい」

 蛍火は目を伏せ、火縄銃を担ぎ直した。小銭の入った袋を懐にしまう。

「次の仕事は荷守りがいいなあ」
「仕事は選べない」
「ただの希望です」

 戦場の跡に背を向ける。埃っぽい地面に、抜けるような蒼穹が覆いかぶさっていた。