夜の果て



 学舎の灯りが遠のくにつれ、闇が深くなっていく。足下も覚束ないような暗闇で、それでも前を行く兄弟子の足取りは確りしたものであった。
 夜撃ちの練習を見てほしいという田村三木ヱ門に、兄弟子である蛍火はほんの少しだけ迷い渋った。
 三木ヱ門はそれを意外に思ったのだ。別に蛍火は教え渋るたちというわけではない。師である照星の手前、出過ぎて三木ヱ門や虎若に指導をするようなことはしないが、聞いたことには大抵答えてくれる。
 蛍火の夜撃ちの正確さは、照星も認めるところである。腕に自信が無いということもあるまい。

 だが、そんな疑問も夜の裏山に足を踏み入れると闇の彼方に霧消した。空に浮かぶ刃のような下弦の月は、頼りにするには心許ない。密度の高い暗闇が両手足に纏わり付くようで、足取りも重くなる。
 蛍火が足を止め火縄銃を下ろしたので、三木ヱ門ははっとした。見れば、周囲には幔幕が張り巡らされてる。暗闇に狼狽えているうちに、勝手知ったる射撃訓練場に辿り着いていたようだ。

「月が出ていて良かった」

 蛍火は言うが、これほどささやかな月光ならば出ていてもいなくても変わりあるまいと三木ヱ門は思う。だが、印象に違わず浮き世離れした兄弟子のことであるから、ただ単に風雅を愛でただけなのかもしれない。

「頼りない月光ですが、夜撃ちの練習には丁度いいでしょうか」
「そうだね――ああ、火を焚こうか」

 蛍火の指が暗闇を指す。目をこらせば、火の入っていない篝火の黒く無骨な輪郭が浮かび上がる。いつもならば灯りを一つだけ灯すのであるが、三木ヱ門は首を横に振った。

「いいえ、外してもいいのならば、灯りをつけずにいてもいいですか」

 蛍火は肩を揺らして笑う。衣擦れの音がした。

「いいよ、照星師もいないし」

 照星の前では失敗をしたくない三木ヱ門の心情を知って、蛍火は少しだけ意地悪く語尾を上げた。三木ヱ門は唇を尖らせ肩をすくめると、火縄銃に火薬を込めた。
 蛍火は三木ヱ門の背後に立つ。背中に気配を感じながら火縄銃を構えると、妙に緊張した。うなじがちりちりと総毛立つ。
 暗い茂みがざわつき、獣の気配がする気がした。けえ、けえ、と奇妙な鳥の鳴き声がする。いや、あれは本当に鳥であったろうか。何かもっと、良くないものの鳴き声では無かったか。火縄の焼けるににおいに混じって、いやなにおいがしないか。
 緊張すればするほど、そういう益体の無い想像が頭を巡る。夜闇のせいだ。それは分かっている。分かっていても、心の芯のどうしようもない部分がしきりに恐怖を訴える。
 暗闇に溶けて消えそうな的が、夜闇にぽかりと浮かぶ巨大な目玉のようにこちらを見つめていた。

 ――ああ、ちくしょう、撃ち抜いてやる

 気持ちだけがはやり、胸が強く鼓動を打つ。手が震えて、耳の奥が痺れた。

「三木ヱ門」

 低く穏やかな声が三木ヱ門の名を呼ぶ。的を睨み返したまま、三木ヱ門は掠れ声で「はい」と答えた。

「もうちいっと先だなあ」
「はい」

 三木ヱ門は銃口をわずかに上げる。背後からくつくつと忍び笑いが聞こえた。

「いったいどこを撃つ気なんだ。それでは的を飛び越してしまう」
「す、すみません」

 三木ヱ門は深呼吸をして照準を合わせ直すと、引き金を引いた。銃声だけが空しく響く。いまだこちらを見つめ続ける的に、三木ヱ門は歯噛みした。
 もう一度お願いします、と頭を下げる三木ヱ門に、蛍火は目を細め、首を振る。

「いや、当たってる」

 見てきてごらん、と言われ、三木ヱ門は小走りに的の方へ駆けていく。四角に切られた的の、右上の角が欠けていた。
 それを蛍火に伝えると、蛍火は眉尻を下げる。

「出来るのに教えを請うなんて人が悪いな三木ヱ門。私を試したの?」
「ま、まさか! そんなことはないです!」

 慌てて首を大きく横に振る三木ヱ門に、蛍火は目元を悪戯っぽく細めた。からかわれたのだと気付き、三木ヱ門は肩を落とす。

「そんな言い方、蛍火さんの方が余程人が悪い」

 肯定するように蛍火は鼻を鳴らした。それから先を続ける。

「三木ヱ門はもっと大きな銃火器を使うでしょう。それならこのくらいの精度で十分だと私は思うけど、どうだろう」

 侮られているような気もしたが、合理的な判断の気もした。三木ヱ門は半分納得のいかないまま、曖昧に頷く。
 ふう、と蛍火の吐息の気配がする。

「あとは暗闇を恐れなければ問題ない」 

 己の怯えを見透かされ、三木ヱ門はさっと赤面した。

「蛍火さんは、怖くはないのでしょうね」
「いいや、怖いよ」

 三木ヱ門は夜より黒い蛍火の目を見つめる。

「どうしてです、だって、見えているのでしょう?」

 三木ヱ門がそう問うと、蛍火はふと動きを止めた。それから、探るように三木ヱ門を見下ろす。

「まあ、人より夜目の利く方ではあるんだろうね。――照星師に聞いたの?」
「いえ、その、……はい」
「なんだ、やっぱり試していたんじゃないか」

 暗闇に慣れた三木ヱ門の目に、仄白い蛍火の顔が苦笑を浮かべているのが見えた。

「そういうわけでは……ただ、照星さんが、あの夜目はすごいと」
「へええ、せんせがそんなことおっしゃった?」
「はい、あの夜目だけは羨ましいとおっしゃっていました」

 それを聞いた蛍火は「へえ」とも「ふうん」ともつかぬ奇妙な相槌を打った。

「そういうことを嫌味でなく言ってしまうのがせんせえの嫌なとこだな」 

 そう思うでしょう? と言われ、三木ヱ門は何と答えたらいいか分からずただ「はあ」とだけ言った。照れ隠しだろうか、蛍火の顔は顰められている。

「こんな目があるから頼ってしまう。確かに私は他の人より夜目が利くが、灯りがあっての話だからね。真暗闇では私なんぞ土竜ほども役に立たないよ」

 蛍火は的に目をやったまま火縄銃に早合を込めた。三木ヱ門は咄嗟に耳を塞ぐ。次の瞬間には激しい閃光が闇夜を切り裂いていた。的が撃ち抜かれ、弾け飛ぶ。ほとんど昼日中と変わらぬ動きであった。やはり、見えているのだ。三木ヱ門は唖然として蛍火を見上げる。
 蛍火は的のあったところを見やりながら言った。

「昔、新月の夜に深山で熊に追われたことがある。星の一つも見えない夜だった。鼻を抓まれても分からない闇というのは、ああいうのを言うんだろうね。人より少しばかり効く夜目に頼りきりの私には、何も感じることが出来なかった。もしかして己はもう死んでしまったのだろうかと思う程の暗闇で、ただ私の手を引いてくれる照星師の手だけが此岸とのよすがだった。暗闇は恐ろしい。分からないことは恐ろしいよ、三木ヱ門。そして恐怖は容易に人の感覚を狂わせる。噎せ返るような獣臭さも、草を踏み分ける重い足音も、唸るような息遣いも、遠いのか近いのかすら分からなくなる。それなのに照星師は虚無のような暗闇に火縄銃を向けて、撃った」

 三木ヱ門は唾を飲み込む。それで、と問うと、蛍火は三木ヱ門に視線を向けた。

「当たっていなければ、今頃師匠も私も熊の糞だよ。そんなことは重要じゃない。そのとき、飛び散る火花の光で見えた照星師は、目を閉じていたんだ」

 三木ヱ門は目を丸くする。そんなことが可能なのか。それを問いただす前に、蛍火は低く溜息のように囁く。

「正気の沙汰じゃ無い」

 蛍火は今し方撃ち抜いた的の隣の的を指差す。

「狙ってごらん、三木ヱ門」

 言われたとおりに、三木ヱ門は火縄銃に火薬を込め、先目当の彼方に的を捉えた。距離感が上手く掴めないが、先程と変わらぬ距離にあるはずだ。
 息を詰めて照準を定める三木ヱ門に、蛍火は事も無げに「目を閉じなさい」と言った。三木ヱ門は面食らってしゃくりあげるように息を吐く。銃口がふらふらと彷徨った。

「別に照星師のような真似をしろというんじゃないよ」

 笑声混じりに蛍火は言う。三木ヱ門が目を閉じると、温かな手が肩に触れ、ぶれる火縄銃を支えた。

「そう、その向きでいい」

 手が、体温が離れていく。急に心細くなり目を開けたくなったが、それを堪える。自分がどちらを向いているのかさえ分からなくなる。火縄銃だけがずしりと妙に重たく感じた。

「照星師が言うんだよ、夜の闇など恐るるに値しないと」

 蛍火の声が、どこから聞こえるか分からない。己の構える銃口の先から聞こえるような気がして、背筋が冷たくなった。

「目を閉じなさい三木ヱ門、それが真に恐れるべき闇だ」

 頭の芯がじんと痺れる。目蓋の奥で何かが蠢いた。蛍火の口振りはあまりに照星に似ていて、なんだか、ひどく、怖いと思った。 
 吐息を振るわせ思わず目を開けた三木ヱ門が暗闇で蛍火の姿を探す。蛍火は三木ヱ門のすぐ後ろに立っていた。ふふ、と蛍火は柔らかげな唇から硬質な笑い声を漏らした。その笑声に滲むのは、おそらく強い慚愧の念だ。

「夜の闇は恐ろしい。己の内の闇も。でも、師匠はもっと恐ろしい」