おひさしぶり



 長屋の私室では組の生徒の計算テストを採点していた蛍火は、細く開けた明かり取りの桟を指先で叩く音を聞き顔を上げた。ひょいと戸の隙間を覗けば、高坂陣内左衛門が蛍火に向けて会釈する。蛍火は予期せぬ訪問者に目を丸くした。
「おや、タソガレドキ忍者隊で雑渡組頭殿のもとで忍者をしている高坂殿ではありませんか。以前、私の師匠であり火縄銃の名手である照星師がそちら方に逗留していた際には、幼い私の面倒をよく見てくれた」
「どうしてそんなに説明口調なんだ。そこに誰かいるのか」
「いえ久しぶりなので、肩慣らしに」
 なんの? と眉根を寄せた高坂は、すぐにそれどころではないことを思い出して話を切り出す。
「尊奈門はいるか」
「尊奈門ですか? 同じくタソガレドキ忍者隊の若手で、チョークと出席簿に敗北を喫して以来土井先生の打倒を胸に空回るプロ忍者の諸泉尊奈門?」
「なんなんだ、誰に説明しているんだ」
「いい感じに舌が回ってきました」
 蛍火は明かり取りから身を乗り出す。高坂は溜息交じりに学園長への遣いの帰り際、連れ立っていた尊奈門の姿が見えないことに気がつき慌てて蛍火の部屋に駆けつけたことを告げた。蛍火は片眉を上げる。
「それでは、土井先生のところではありませんか。尊奈門は土井先生に……敵愾心を燃やしているようですから」
「それが、土井殿のところにはいないようだった。だからこっちかと思ったのだが」
 舌打ちをしてこめかみに手をやる高坂に、蛍火は苦笑する。
「お疲れのご様子ですね。少し休んで行かれてはいかがですか。学園内は生徒に探させましょう、目は多い方がいい」
 蛍火の提案に高坂は少し考えたようだが、蛍火が「ね」と促せばその言葉に甘えて部屋に上がる。高坂は床に座るなり胡座をかいた膝に肘をつき、溜息をつく。
「まったく、おまえはこうしてすっかり大人びているというのに、尊奈門ときたら」
 それを聞いて蛍火は肩を竦めた。
「高坂殿には上手く取り繕っているだけです。今日も朝からに塹壕に落ちるわ、生徒の鼻水を浴びるわ、焔硝倉の使用簿は書き忘れるし、おまけに計算テストの結果はこのザマ」
 蛍火が指さす卓上を、高坂が覗き込む。限りなくゼロに近い採点を見て高坂は覆面の下で笑った。蛍火は眉尻を垂れて情けない顔をする。
「あにさま、私、先生、向いてないかも……」
「そんなことはないだろう」
「人に物を教えるのがどうにも苦手で」
 めそめそと泣き言を続けようとする蛍火を手のひらで制止する。
「蛍火、俺にはおまえはよくやっているように見える。あまりそう腐るな」
「腐りたくもなります。尊はタソガレドキ忍者として一本立ちしているのに、私は相も変わらず照星師の下で半端者。挙げ句の果てには忍術学園で教生も務まらない有様です」
「そうか、ではうちに来るか。貰い手ならいくらでもあるぞ」
「高坂殿までそうやって私をからかって」
 雑渡殿じゃあるまいし、とむくれる蛍火に高坂は「悪かった」と手をひらひらさせた。
「おまえには尊奈門が大人になったように見えるか」
 そう言われ、蛍火は唇を尖らせた。
「そりゃあ、背が伸びたなあとか、声も低くなっていて、きっと力も強くなっているんでしょうし、タソガレドキの忍者隊なんですから技量だってともなっているんでしょう」
「もう馬乗りになってぶん殴れないか」
「に、二度としませんよ、あんなこと」
 顔を赤くして胸の前で手を振る蛍火に高坂はくっくっと喉を鳴らす。
「おまえが尊奈門を成長したと思うように、おまえも成長しているよ。——蛍火、尊奈門はなかなかいい男ぶりになったろう」
 いたずらっぽく問われ、蛍火は肩を竦めて笑う。
「そうですねえ、高坂殿には及びませんが」
 高坂はそれを聞くなり立ち上がり、部屋の片隅の行李を蹴り転がした。蓋が外れた行李の中から尊奈門と一年は組の乱太郎、きり丸、しんべヱがごろごろと転がり出る。
「だ、そうだ。精進しろ、尊奈門」
 高坂は鼻を鳴らし、蛍火は目を丸くした。
「誰かいるとは思っていたけど、君もいるとは思わなかった」
 そう声をかけられた尊奈門は、ばつが悪そうに顔をしかめる。
「いつから気がついていた」
「高坂殿が気がついたとき」
「……いつだよ」
 ぼやく尊奈門の襟首を高坂は掴み上げた。
「帰るぞ、馬鹿者。このことは小頭に報告するからな」
 ずるずると引きずられていく尊奈門を見ながら、蛍火は「やっぱり全然成長していないんじゃないか」と首を傾げる。行李からごろごろと転がり出たしんべヱが、蛍火の袖をつんつんと引っ張る。
「僕、蛍火先生に先生になってほしいなと思ってます」
 蛍火は眉尻を下げて微笑み、しんべヱの頭に手を置き「ありがとう」と言ったあと、もちもちした頬を摘まんで伸ばす。
「じゃあ、私の部屋に忍び込んで何をしていたか聞かせてもらおうか」
 ごめんなさあい、と三人が揃えて泣き声を上げた。