体育委員会男気鬼ごっこ
体育委員会のランニングの最後尾を走っていた金吾は、職員室のある棟の濡れ縁を小走りに駆けていく蛍火を見つけた。胸に稟議書を抱えて先生方のハンコを集めているらしい。金吾を見つけた蛍火は金吾に口の動きで「がんばれ」と伝え小さく手を振ってきた。それに気を取られた金吾の足がもつれると、先頭の七松小平太が足を止めた。
「あ、蛍火先生じゃないか。蛍火先生も走っているな、我々のランニングに参加してもらうか!」
小平太は言うなり後続を引きずりながら蛍火に駆け寄り声をかける。ランニングに誘われた蛍火は困ったように眉尻を下げた。
「気持ちは嬉しいけど、今はちょっと忙しくて。先生全員分のハンコを貰わないといけないのに、先生方が全然見つからないんだよ」
斜堂先生に安藤先生に山本先生も、と蛍火は指折り数える。蛍火が両の手の指を折りきったところで、小平太がニッと笑った。
「蛍火先生、先生が私たちと鬼ごっこをして全員捕まえられたら、体育委員会全員で先生をお手伝いします」
それを聞いた蛍火はきょとんと目を丸くする。何より体を動かすのが好きな体力自慢の七松小平太である。素直に鬼ごっこをしたい気分であったのが半分、半人前の教生であり若く大人しげな蛍火をちょっとからかう気持ちが半分といったところであろうか。
蛍火は眉尻を下げて微笑み、濡れ縁を降りると小平太の前に立つ。面白そうでしょう、と歯を見せて快活に笑う小平太の肩に蛍火は窘めるように手を置こうとした。一瞬それを受け入れかけた小平太は、すんでのところで身を仰け反らせ、腰にかけていたロープを捨てて後ずさる。蛍火は小平太に避けられた手でそのまま後続の平滝夜叉丸、次屋三之助の頭を撫でた。
「はい、二人タッチ」
蛍火が時友四郎兵衛の頭を撫でたところで、小平太が最後尾の金吾の襟を引っ掴んで小脇に抱え、その場を走り出す。
「わはは! 面白くなってきた! いけいけどんどん!」
笑いながら走る小平太と、小平太に揺さぶられ目を回す金吾を、蛍火は追いかけはしなかった。そのかわりにワケも分からないままに鬼ごっこからリタイアさせられ悔しがる滝夜叉丸、三之助、四郎兵衛に向けて「六年生に一杯食わせてやりたい人!」と笑顔で挙手を促した。
*
小平太に抱えられたまま裏山までシェイクされ続けた金吾は地面に下ろされてもしばらくよろよろしていた。小平太は木の上からあたりを見通し「なんだ、全然追ってこないじゃないか」とつまらなそうに唇を尖らせる。
木から下りてきた小平太は「蛍火先生は走るのは苦手なのか」と金吾に尋ねる。金吾はぐわんぐわんする頭を捻った。
「照星さんの言いつけで毎日ランニングはしていますけど、でも七松先輩みたいには走れませんよ」
それは大抵の人間がそうだ。それを聞いた小平太は顎に手をやり「ふうむ」と唸る。
「これでは鬼ごっこにならないではないか、一度様子を見に戻ろう」
小平太はそう言うと金吾を再び小脇に抱え、全速力で裏山を駆け下りる。学園の敷地に戻った小平太と金吾は、先ほど蛍火と話した場所ですでに鬼ごっこからリタイアした三人が、放りっぱなしであったロープを片付けているのを見つけた。
「おまえたち、蛍火先生はどうしたんだ」
声をかけられた滝夜叉丸が、ため息まじりに小平太を横目に見た。
「もうとっくにお仕事に戻られました」
「なんだと、私との鬼ごっこはどうなるんだ!」
「蛍火先生だってお忙しいんですから」
小平太は滝夜叉丸にロープを渡すよう手を差し出す。滝夜叉丸は括ったロープを小平太に手渡すと、その手首をグイと掴んだ。
「三之助! 四郎兵衛!」
声をかけられた二人が小平太の足首に縋りつく。
三人がかりで取り押さえられれば、さしもの小平太といえど一瞬足が止まる。そこに濡れ縁の庇の上に身を潜めていた蛍火がひらりと飛び降りた。蛍火の手が素早く小平太の肩に伸ばされる。
小平太は丸い目をさらに丸くして「金吾!」と叫んだ。金吾は小平太の指示で蛍火を足止めしようと一歩前に踏み出す。それを見た蛍火が小平太に踊りかかりながら「金吾! おまえにだけ明日の漢字テストの問題を教えてやる!」と叫んだ。
金吾は一瞬迷ったあと、蛍火に飛びかかる。蛍火は金吾を抱きとめ尻餅をついた。小平太に伸ばされた指先は虚しく宙を掻く。その間に三人の拘束を抜け出した小平太は蛍火から距離を取った。
蛍火は床にひっくり返りながら「今、指先が小平太の着物に触れたような気がするんだけど!」と物言いをつける。それに対して小平太が胸の前で腕でバツ印を作った。蛍火は唇を尖らせ、眉尻を下げる。
金吾は蛍火の腕を抜け出しながら「蛍火先生、往生際が悪いですよ」と言った。蛍火は恨みがましげな目で金吾を睨み、それから笑って溜息をついた。
「そうだね、金吾には「は組のみんなに教えてやる」と言えばよかった」
そう言われ、金吾は「たしかにそう言われていれば蛍火先生に加勢してしまったかもしれないなあ」と思う。
蛍火はのろのろと体を起こし、顔をしかめて腰を擦る。小平太が満足気にニコニコしながら蛍火に手を差し伸べた。
「教生とはいえ先生に勝ち越せて大変自信となりました! ご教授ありがとうございます! お怪我はありませんか?」
悪気なさそうにワハハと笑う小平太の手を、蛍火はひょいと取る。
「はい、タッチ。捕まえた」
「なにぃ!?」
蛍火は小平太の手を頼りに立ち上がり、裁付袴についた埃を手で払った。
「私は参りましたなんて言っていないからね」
うふふと笑う蛍火に小平太は呆気にとられ、金吾は「先生、おとなげないんじゃないですかぁ?」と呻く。
蛍火は稟議書を小平太に手渡す。
「それじゃあ、体育委員のみなさん、よろしく頼むよ」
呆気にとられたまま稟議書を受け取ってしまった小平太は、稟議書を傍らの金吾に押し付け、立ち去ろうとする蛍火の前に立ちはだかる。
「納得がいきません! もう一度お願いします!」
「イヤだよ、私の勝ち。稟議書の締め切りは明日の日暮れだよ」
「そこをなんとか!」
「イヤだって……! うわ、寄るな寄るな、ああ、ちょっと、ヒエェ……!」
じりじりとにじり寄っては襲い掛かってくる小平太に悲鳴をあげて逃げる蛍火を小平太が全速力で追っていく。
取り残された金吾は手元の稟議書を見下ろし「しかたがないから、僕たちでハンコを集めてあげましょう」と言う。滝夜叉丸と三之助と四郎兵衛は、逃げ惑う蛍火を気の毒そうに眺めて「そうしよう」と答えた。