ここからでも入れる保険があるんですか?
学級委員長委員会の活動部屋の掃除をしていた庄左ヱ門と彦四郎は、部屋の前を通りかかった蛍火に声をかけられ手を止める。
「学園長先生はどこにおいでか分かる?」
蛍火に尋ねられ、庄左ヱ門は裏山を指さす。
「学園長先生なら裏山に気分転換に出かけられました」
「おや、それは困ったな。じゃあ、ここで少し待たせてもらおうかな」
それを聞いた彦四郎は毛ばたきを手放し、庄左ヱ門に「先日、尾浜先輩が買ってきてくれたお菓子を召し上がってもらおう」と耳打ちする。せっかくならば、と庄左ヱ門が茶の準備をするのを、蛍火は「そんな、いいのに」と苦笑しながら室内に腰を据える。
やがて庄左ヱ門が手際よく抹茶椀に茶を点てはじめたのを見て、蛍火は「いやに本格的だ」と目を丸くし、立てて座っていた膝を折り正座になる。
「蛍火先生、茶の湯の経験があるんですか」
「父親に付き合わされたことがある」
「風流なお父様ですね」
「ミーハーなんだよ」
菓子を手に戻ってきた彦四郎を、蛍火は手招き傍らに座らせる。彦四郎は遠慮がちにしながら蛍火の隣に座った。盗み見るように蛍火の横顔を見て、すぐに自身の手元に視線を戻す。
庄左ヱ門は彦四郎のその様子を見て眉を上げた。
「彦四郎は蛍火先生とお話しするのは初めてか」
「実はそうなんだ」
彦四郎の堪えに、蛍火は「そうだった?」と首を傾げる。
「安藤先生にはすっかりお世話になっているから、い組の生徒らとも親しい気でいてしまったなあ」
は組からすれば口うるさく嫌味っぽい安藤先生であるが、蛍火にとっては面倒見のいい上司であるようだ。そういえばよく安藤先生に事務仕事について尋ねている蛍火の姿を見かける。
「安藤先生も、蛍火先生はい組に教育実習に来ればよかったとよくおっしゃっています」
「あんまり頼りないから、安藤先生も見かねておられるんだろう」
蛍火は眉尻を下げて笑う。
庄左ヱ門は点て終えた茶を蛍火に差し出した。茶碗を受け取った蛍火は「ここからどうするんだった? 茶碗を回すんだっけ? 何周?」と困惑気に抹茶の水面を見つめる。
彦四郎が「茶碗は二周半回すんですよ」と言う。先生に物を教えられるのが嬉しそうな様子で、庄左ヱ門はややむっとする。そりゃあ蛍火は教生らしくも忍者らしくもない頼りなくおっとりした人であるが、は組の教生なのだ。い組の彦四郎に我が物顔で物を教えられるのは、なんとなく面白くない。
「そういう堅苦しいのはなしで、お茶とお菓子を楽しんでください」
庄左ヱ門が言うと、蛍火は「そう? では亭主に従おうかな」と言い、そのまま茶碗に口をつけた。
「美味しい、庄左ヱ門は茶も点てられるんだねえ」
褒められて表情を緩める庄左ヱ門に、彦四郎もまた面白くなさそうな顔をした。同じ委員会の彦四郎は気の合う仲間であるが、蛍火先生はは組の教生である。い組の彦四郎に出しゃばらせたくはない。
庄左ヱ門は続いて彦四郎にも茶を出し、次いで自分の分の茶も用意する。彦四郎は菓子を摘まみながら、蛍火の顔を見上げる。
「安藤先生は、蛍火先生は見込みがあるとおっしゃっておいででした。は組の教生のままでは学園の先生にはなれないから心配をしていらっしゃいます」
それを聞いた庄左ヱ門は飲みかけの茶にむせる。大丈夫? と伸ばされる蛍火の手を固辞し、目を剥いて問い質した。
「蛍火先生、は組の教生では先生になれないというのはどういうことですか!?」
「ほら庄左ヱ門、まずは手を拭いて。お茶がこぼれているよ」
おろおろと手拭いを差し出してくる蛍火を横目に見て、彦四郎が肩をすくめる。
「は組なのに知らないのか、蛍火先生はは組の全員に試験で百点を取らせないと先生になれないんだ」
蛍火に詰め寄る庄左ヱ門の手を、蛍火は手拭いで受け止める。まず手を拭いてくれ、と言われ、庄左ヱ門は渋々手を拭く。手を拭き終え手拭いを返したところで、仕切り直して蛍火に食ってかかると、蛍火は「冷静だなあ」とぼやいた。
「そんなこと、僕たち知りませんでした!」
「言ってないもの」
「どうして言ってくれなかったんですか!」
だってぇ、と蛍火は唇を尖らせる。
「突然現れた教育実習生に、私の就活のために百点取れなんて言われたらムカつくでしょう?」
「それは……そうですけど……」
は組の生徒たちが蛍火に懐いたのは、蛍火が優しく親切で、日常の細々としたことで皆に手を貸してくれたからである。
彦四郎が溜息をつき、蛍火に気の毒そうな視線を向ける。
「僕たちの教生だったら、すぐに先生になれたのに」
「私の指導力不足だもの、仕方がないよ」
ありがとうね、と彦四郎に微笑みかける蛍火と彦四郎の間に庄左ヱ門は無理矢理割り込む。
「は組の生徒だってやるときはやります!」
「でもこの間のテストはクラス全員の点数を合計しても百点にならなかったよ」
「やるときは、やるんです!」
庄左ヱ門はそう言い切ると、せっかく点てた茶を一息に飲み干し席を立つ。猛然と部屋を飛び出していく庄左ヱ門と入れ替わるように学級委員長委員の鉢屋が部屋に入ってきて「庄左ヱ門はいったいどうしたんだ」と言う。気のよさそうな級友の顔で眉尻を下げ、室内に蛍火の姿を見つけてニッと笑う。鉢屋が手の平でつるりと己の顔を撫でると、幾度見ても見慣れぬ師の顔になったのを見て、蛍火は無言で鉢谷を手招く。うかうかと近寄ってきた鉢谷の額を、蛍火は指先で弾いた。
「あいたっ!」
「私の師匠の顔をみだりに使うなよ」
失礼だろ、と言うと、鉢屋は悪びれもせず「すみません」と言うと顔を常のものに戻し、庄左ヱ門が座っていた席につく。
「三郎は、私が本当に先生になったらどう?」
蛍火の問いに鉢屋は冗談めかすように鼻を鳴らす。
「卒業までに蛍火先生に絶対にバレない変装を開発します」
それを聞いた蛍火は「なかなか悪くないねえ」と眉尻を下げて笑った。