期末試験で百点を取れ!の段(5)
忍術学園の事務室で成績評価のための計算作業をしていた蛍火は、どたどたとけたたましい足音が事務室の前に押し寄せるのを聞いて片眉を上げた。「失礼します」と、礼儀正しく引き戸を開けようとした庄左ヱ門の背後から、は組の生徒達がどわっと押し寄せ庄左ヱ門もろとも引き戸を押し破るようになだれ込んでくる。
「蛍火せんせ〜! 百点とれなかったです!」
「ごめんなさい! がんばったんですけど!」
「でもいい線はいったと思うんです!」
「努力は認めてください!」
「蛍火先生はまた就活ですか!?」
ごちゃごちゃと詰め寄ってくる生徒達に、気圧された蛍火は座ったまま後ずさった。
「わかったわかった、頑張ったのはわかったから。泣かなくていい。鼻水を拭きなさい」
蛍火は手元の反故紙で喜三太の顔を拭ってやる。ずるずるの顔周りを拭いながら蛍火は眉をひそめた。
「あとからあとからずるずると……あれ、これ鼻水、じゃ、ない?」
首を傾げる喜三太の襟元からなめくじが這い出る。蛍火が悲鳴を上げて飛び退いた。
「喜三太! なめくじを放し飼いにするのはやめろとあれほど……!」
「なめ少将が涙の塩分でとけちゃう!」
「こんにゃろ、本当に悪いと思ってるか?」
溜息をつく蛍火に、喜三太は指先でなめくじを掬いながら「蛍火先生、学園からいなくなっちゃうんですか〜?」と蛍火を見上げる。傍らで事務作業をしていた小松田が「え!? そうなんですか!」と目を丸くした。
「えー蛍火さんがいなくなったら、物品購入のチェックとか、雑貨の発注とか、公共料金の支払いとか、配達物の受け取りとか、高い棚のものを取ったりとか、誰がするんですかぁ!」
「君がやるんだよ、事務員の小松田君。引き継ぎはもうしてあるでしょう」
蛍火は身を乗り出して見当違いに問い質してくる小松田を押しのける。そうでしたっけ? と小松田が首を傾げた。思えば、は組の授業よりも小松田の面倒を見ていた時間の方が長かった気がする。
乱太郎がそっと蛍火の袖を引っ張った。
「蛍火先生、学園に残れないのは残念ですけど、いつでも遊びにきてくださいね。わたしたち、楽しみに待ってますから」
「あ、いらっしゃるときは事前に連絡いただければ、割の良いアルバイト紹介しますよ」
「そのときは、ぼくたちの宿題もみてくださいね」
乱太郎、きり丸、しんべヱが順にそう言う。不覚にもうるっときた蛍火は目頭を押さえて肩を竦めた。
「ぐうっ、終わりよければ全てよしのよい子パワーには勝てない……!」
それを聞いた団蔵が「最後くらい良い感じの空気にできないんですか」と呆れた顔をする。
金吾がそろりと蛍火の顔を窺い見た。
「蛍火先生、いつ学園を離れられるんですか?」
「明朝発とうかと考えていたけど」
「気が早い!」
伊助が目を丸くする。蛍火は「先生方は君らが百点をとれなかったことをとっくに知っていたからね」と言った。
三治郎と兵太夫が顔を見合わせ「蛍火先生の最後の夜に、長屋に盛大にからくりをしかけようか」「それ、いいかも」と言い交わす。蛍火が「よしなさい、やめなさい、最後くらいゆっくり眠らせて」と頭を抱えた。
庄左ヱ門が「よし、みんな、明日は早起きして蛍火先生をお見送りしよう!」と拳を突き上げる。おおー、と全員が勢いよく手を挙げるのを見て、蛍火は「来てよかったな」とふと思った。
*
火器演習場の片隅で、幔幕に隠れるように屈み込んでいた虎若を見つけた蛍火は、その背に「若大夫」と呼びかける。虎若はわずかに顔を上げ「その呼び方をすると土井先生に注意されますよ」と答えた。蛍火はふっと笑う。
「先ほど学園長先生にご挨拶をしてきて、もう教育実習生ではなくなりました」
蛍火は虎若の懐に無造作に突っ込まれた答案用紙をすっと抜き取る。くしゃくしゃの答案用紙は白紙のままで、土井の朱墨で〇点と書き込まれている。試験問題を盗み見、正答を作成していたはずであるのに、虎若は白紙で答案を提出したのだ。
「若大夫、実は私のことがお嫌いでしたか?」
茶化す蛍火に虎若は顔を真っ赤にして立ち上がると「それは違う!」と大きな声を上げた。
「ただ、ぼくは……蛍火が、やりたいことを探すって言っていたから……」
蛍火は膝を軽く曲げ、虎若に視線を合わせると「はい」と優しく先を促す。
「蛍火は、このまま学園で先生になりたかった?」
問われ、蛍火は苦笑しながら眉尻を下げた。
「それも悪くはないと思いました。若大夫と共に学んだ時間は、私にはこのうえなく充実したものでしたから」
虎若はつぶらな瞳でじっと蛍火を見上げた。
「ぼくは、蛍火に先生になってほしくない」
蛍火は軽口まじりに「私では力不足とお考えですか」と応じようとしたが、それを言う前に虎若が先を続けた。
「ぼくは、蛍火に照星さんに負けないようなすごい狙撃手になってほしい! だから学園の先生にはなってほしくない!」
あまりに威勢よく宣言され、蛍火は一瞬呆気に取られた。それから、こめかみのあたりを指先で掻く。
「しょ、照星師と同じくらいって……若も酷なことをおっしゃる」
「な、なんだよ! がんばれよ!」
「まあ、その、人間には出来ることと出来ないことがあるというか……照星師て割とマジで化け物なところがあって……」
「じゃあ蛍火も化け物になればいいだろ!」
「無茶言わないでくださいよ……」
蛍火は口の端に力ない笑みを浮かべた。虎若は眉を吊り上げ、蛍火をキッと睨む。
「もし蛍火が一流の狙撃手になったら、ぼくが蛍火を村に招くから」
それを聞いた蛍火は目を丸くする。虎若がそこまで考えていたとは、思ってもみなかった。子供の言うこととあしらうことも出来ない。蛍火は何と答えるか迷い、肩を竦めて見せる。
「……私に照星師のようになれとおっしゃるのは若大夫くらいです」
「そうなの?」
「みな、諦めろと言います」
「そっか……」
表情を暗くして俯く虎若の肩に、蛍火は手を置く。
「ですが、もし私が虎若さんのお眼鏡に適うようなことがあれば、そのときは喜んで馳せ参じます」
虎若はぱっと表情を明るくして、力強く頷いた。蛍火は笑って「そのときまでに、お父上のようにご立派になられていてくださいね」と付け足す。虎若は唇を尖らせた。
「えー、父ちゃんみたいに? 照星さんじゃなくて?」
「……まずは、お父上です」
自分を慕う雇い主の息子と雇い主の間で気を揉む師のことを思い、蛍火はそれとなく窘める。
虎若はしばらく渋っていたが、やがて手を蛍火に差し出す。握った手に小指だけが立てられている。
「指切りする?」
「……やめておきましょう、指がなくては引き金を引けない」
「なんで約束破ること前提なんだよ!」
「だ、だってえ……」
ぐずぐずする蛍火に、虎若は呆れたように溜息をつく。不甲斐なくてすみません、と項垂れれば、虎若は「もっとしっかりしてよ」と頬を膨らませた。
「蛍火は、やりたいこと見つけた?」
虎若は蛍火にぽつりと尋ねる。蛍火は虎若の肩に置きっぱなしであった手を離しながら、黙って微笑んだ。