蛇足



 翌朝、東の空がうっすらと明るくなる頃に蛍火は忍術学園を発った。別れを惜しむ生徒たちの声が聞こえなくなりしばらくして、蛍火はふと視線を上げる。陽光が枝葉を透かしてきらめいていた。
「それで、どこまでついてくるつもり」
 独り言のように呟くと、がさりと茂みが揺れる。気まずげな尊奈門が現れるのを見て、蛍火は目を細める。
「いつから気付いていた」
 悔しげにそう言う尊奈門に、蛍火は笑った。
「まさか、私はタソガレドキ忍者の尾行に気付けるほど敏くはないよ。ただ、君はついてくるだろうと思っていた」
 しょせんそんなもん、と蛍火は節を付けて歌うように言う。尊奈門は一瞬激昂しそうに眦を釣りあげたが、すぐにそれを飲み込んだ。
「行くのか」
 ぶっきらぼうに尊奈門は言う。その姿が不機嫌な子供のようで、蛍火の口元には笑みが滲む。
「そうだね」
 その答えに被さるように「帰るのか」と問われる。蛍火は足を止めず、背に負った箱を揺すり上げた。
「師匠んとこにね」
 蛍火がそう言うと、尊奈門は「どうして、」と真一文字に引き絞られた唇から絞り出すようにしてそれだけ言った。その表情に、困惑、猜疑、憐憫、嫉妬、そういうものを見た蛍火は、ふうむと小さく息をつく。
「どうして実家に帰らないのかって?」
「……それは」
「何不自由ない生家がありながら、流れの鉄砲撃ちに好んで付いて歩いている理由が知りたい?」
「――そこまでは言っていない」
「でも、知りたい」
 口を噤んだ尊奈門の顔がおかしくて、蛍火はもう少しいじわるしてやりたくなる。蛍火はどうにも尊奈門相手にはいつもどおりにやれない。
 蛍火は頭巾から零れこめかみにかかる鬱陶しい前髪を指先で弄んだ。
「それは、多分、師匠が一番素朴に私を愛してくれたから」
 ぎくりと足を止め、顔を真っ赤にして口を開けたり閉じたりする尊奈門を、蛍火は振り返って見ると声を上げて笑った。
「期待したとおりの反応をしてくれてありがとう」
 からかわれたと思った尊奈門はむっつりと不満気な顔をする。蛍火は肩をすくめて見せた。
「君はからかわれたと思ってる。女童を戦場や喧嘩場に連れ回し、人を傷付け殺める術を教えこむなど、きっと君にとっては愛情とはいえない」
「そこまでは言っていない」
「実際、うちの師匠はだいぶどうかしてる。君のとこも大概だけど、私の師匠はね、あれで別に露悪的なわけでもなんでもないんだよ。素であれなんだから始末に負えない。私はあの人について長いけど、変わった人だ――君、組頭の旧知に対してなんて物言いだろう」
「そこまでは言っていないぞ!!!」
 うん、言ってない、言ってない、と蛍火は肩を震わせ笑みをこらえながら山道を歩く。十歩ほど後ろを尊奈門が付かず離れずついてきた。
 しばらく黙って歩いていると、尊奈門がぽつりと「俺だって」と囁く。それを聞いた蛍火は目を丸くし、尊奈門を見つめた。
「なに」
「――なんでもない」
「聞こえていたよ。耳は悪くない」
「ならばなぜ聞き返すんだ!」
「もう一度言わせたかっただけ」
 笑う蛍火に尊奈門は一瞬呆気にとられ、すぐに歯を食いしばって蛍火を睨んだ。
「おまえなんか嫌いだ」
「嘘が下手だ」
「うるさい」
 尊奈門は苛立たしげに頭巾の上からこめかみに爪を立てた。頭巾が無ければ髪を掻き回していただろう。
「俺だって、俺なりにおまえを愛せる」
 叫ぶように尊奈門が言った。自身の言ったことのために、口布から覗く頬が真っ赤になっていた。
 不意に蛍火の胸が痛む。蛍火は何か言って混ぜ返そうとしたが、言葉のかわりに血が顔に上ってきた。蛍火は赤くなった頬をおさえて尊奈門を横目に睨む。尊奈門は真っ赤な顔のまま、一本取ったとばかりににやりと笑った。
「どうだ」
 言われ、蛍火は唇を尖らせ頭巾の布を鼻の上まで引き上げる。それから眉尻を下げて苦笑した。
「ばかなやつ。ほんとに君は可愛いな」
 昔も、今も、その真っ直ぐさが、素直さが、いじらしさが、蛍火には痛いほどに眩しい。いっそ憎らしく思うほどに。
 そのひたむきさは力強く周囲を恣にする。雑渡の命を此岸に繋ぎ止め、周囲の信頼を勝ち取り、己の居場所を作った。蛍火が血を吐くような思いで手に入れようとしているそれを、尊奈門はずっと幼い頃に掴んでいる。羨ましく、愛しく、妬ましい。
「まるで犬にでも対するような物言いだな」
「そう腐らなくてもいいでしょう。それに犬は嫌い」
「そうなのか」
「昔噛まれた。ひどく腫れて熱も出た」
 蛍火は右の前腕を撫でる。それから頭巾の下で細く息を吐き出した。
「もう二度と火縄銃が撃てないかと思って、泣いていたよ」
 そう囁いて微笑むと、蛍火はじっと尊奈門を見つめる。尊奈門はああと呻く。尊奈門は顔をしかめ、しばらく逡巡したあと、観念したように鼻を鳴らす。
「おまえは良い射手だ」
 それを聞いた途端、蛍火は破顔した。明るい笑い声が抜けるような青空に響く。
「やっとか、尊。照星師は一目で看破した」
 蛍火は行く先に目をやる。なだらかな山道であった。
「だから君とは行かない」
 蛍火は小さく呟く。尊奈門がさらに小さく「うん」と呟く気配だけがした。
「いずれどこかでまた会える」
「いやだよ、君のとこと関わるような仕事なんか、ろくなもんじゃない」
「……そうか」
 蛍火は足を止め、尊奈門を振り返る。尊奈門も足を止め、その場に立ち尽くす。何か言いたげにも見えたが、蛍火は構わずからりと笑った。
「寂しいよ」
 尊奈門は心底嫌そうに表情を歪め「嘘つきめ」と唸る。
 蛍火は鼻を鳴らした。
「私の真似事は君には無理だ。これは本当だよ。君といると楽しい。学園でのように会えなくなるのは、寂しいよ」
 尊奈門は瞠目し、眉を上げ、口を開いたり閉じたりする。ふふ、と蛍火は笑った。蛍火は踵を返し、山道に向き直る。背に負った箱を揺すり、背後の尊奈門にちらと視線をやった。
「山を下るまでは随伴してくれるのでしょう」
「なぜそう思う」
「君はそういう奴だから」
 所在なさげに立っていた尊奈門は、蛍火の言葉にむっとしたように眉根を寄せた。蛍火は構わずに山を下りていく。蛍火の背後をついてくる気配は、山裾の路傍にひっそりとたつ道祖神を越えたあたりで淡く消えていった。