Soldier's Act




 軍人という職業柄、長らく家を空けることが多い。国家錬金術師で少佐相当官という地位もあり、あちこち小競り合いに駆り出されることはないが、それでも普通の勤め人に比べれば留守がちになる。独り身のときには何の遠慮があろうかと、軍部に泊まり込むことも厭わなかったが、今ではそうもいかない。結婚したわけではない。だが、娘が待っている。
 なんだかおかしなことになった、とキンブリーは帰路ひとり苦笑する。もう夜は更けている。それでも賑やかな大通りを窓越しに眺めた。
 ひょんなことから養育することになった少女は、問題なくキンブリー家に馴染んだ。両親ともに己の親とも思えぬほどに善良で温厚であるから、シハナを嫌な顔一つせず孫のように可愛がった。シハナ自身、人の心に聡い子であるから、邪険にされることはないだろうとは思っていた。今は家を離れ西の土地の管理をしている兄も、難色は示していないらしい。
 しかし初めてシハナを連れ帰ったときの、両親の驚きようは筆舌に尽くしがたかった。曰く「お嫁さんを連れてきたのかと思って」「息子がロリコンかと思った」と散々な言われようで、そのショックのせいか養子にするということは存外すぐに受け入れられた。
 留守の間はまだ10歳のシハナを一人にさせるわけにもいかないので、実家に預けている。キンブリーが帰ってこられるときだけ、キンブリーが個人で借りている家から学校に通った。シハナにとって環境がころころ変わるのがよくないことは分かっている。だが、何しろ研究の内容が内容だけに研究室を実家に移すわけにもいかず、とりあえず現状を維持している。

「ただいま帰りました」

 実家の玄関を開けると、奥からぱたぱたと母が出てきた。シハナが来てからというもの生活に張りが出たのか、生き生きとしている。

「遅かったじゃないの。シハナちゃん、待ちくたびれて寝ちゃってたわよ」

 そう、小声で言った。リビングを覗くと、ソファに座ったパジャマ姿のシハナが、クッションに寄りかかってすうすうと寝息をたてている。傍らで父が趣味のカメラで熱心にシハナの寝顔を撮影していた。足下には持ち帰る荷物が鞄にまとめられている。紙袋に入った真新しい洋服に、キンブリーは眉をひそめた。

「あまりシハナを甘やかさないでください」
「あら、ちがうわよ。私が欲しくて買ったの。シハナちゃん、なんにも欲しがらないから。遠慮してるのかしらね」

 最後の方は、さらに声をひそめて付け足された。そういえば、シハナにあれが欲しいこれが欲しいと子供らしい我儘を言われたことはない。そういう性分の子かと思っていたが、気を遣わせていたかもしれないと少し反省する。
 キンブリーはシハナの肩に触れた。

「シハナ、ほら、起きなさい。帰りますよ」

 むぐ、とシハナは小さく呻いた。とろんとした灰色の瞳がしばたかれる。シハナはてのひらでごしごしと目をこすると、ぼうとキンブリーを見上げた。

「ゾルフ、おかえりなさい」
「ただいま」

 キンブリーの返事を聞き終わる前に、シハナはうとうとし始めた。キンブリーは溜息をつく。

「眠いのなら、寝てしまいなさい。明日、帰りましょう」

 シハナは黙って首を振るが、ぐずぐずとクッションに顔を押し付けた。そうとう眠いらしい。しかしこれは約束の時間を大幅に遅れた自分が悪い。どうしたものか、と思案していると、母が眉尻を下げながら言った。

「それ、やめなさいな」
「何をです?」
「ゾルフと呼ばせているでしょう」
「ああ……」
「不健全だわ」
「なら、なんと呼ばせれば?」
「養子にするつもりなんでしょう? パパとか呼ばせた方がいいんじゃないかしら」

 ふむ、とキンブリーは顎に手をやる。

「シハナが18になったとき、私はまだ30と少しですからねえ。18の少女にパパと呼ばれる三十路男というのも……」

 傍で聞いていた父が、カメラを脇に置いた。

「だから、私達の養子にしなさいと何度も言っているのに。18の女の子にお兄様と呼ばれる三十路男ならセーフだろう」
「それもどうかと」

 眠るシハナの頬をつつきながら、父は言う。シハナにうるさそうに手を払いのけられ、父は露骨にがっかりした。

「真面目な話だ。おまえはまだ若い。未婚で養子がいるというのは、何かと不都合が多いものだよ」
「お心遣い感謝いたします。ですが、もう決めてしまったので。どうしてもと言うなら、まずはシハナを説得してください」
「えー、シハナちゃん、そこに関しては頑固なんだよねえ」

 名前を呼ばれたせいか、シハナは瞼を震わせた。父はその安らかな寝顔を見て、相好を崩す。どうだろう。己が幼い時分は、もう少し威厳ある父だと思っていたのだが。やはり、歳が人を丸くしたのか。それとも女児に対する男親というのはこういうものか。
 キンブリーは起きる気配の無いシハナを抱き上げた。耳元に熱い寝息がかかる。小さな手が、無意識なのか、キンブリーの首にぎゅうと回された。
 それを見た父は苦笑する。母もそれに倣い、二人は顔を見合わせて笑った。

「困ったね。シハナちゃんはおまえが一番好きだからね」

 キンブリーは曖昧に笑って見せ、シハナの鞄とともに自分の車に向かった。




 翌朝、目を覚ましたシハナは、コーヒーの香りのするダイニングに飛び込んでくるなり「見て!」と叫んだ。昨日、紙袋に入っていた、真新しいワンピースを着ている。キンブリーはシリアルとフルーツをテーブルの上に並べながら、得意顔のシハナを見た。

「よく似合っていますよ」
「ゾルフのお母さんが買ってくれたの!」

 何も欲しがらないという割には大層な喜びようで、やはり遠慮していたのか、とふと思う。ただ、子供のうちにある程度の我慢は教えるべきであろうし、匙加減が難しい。

「それは良かった。ありがとうは言いましたか?」
「たくさん言ったよ」
「良い子ですね」
「うん」

 だが、まだ謙遜は知らないらしい。キンブリーは苦笑する。席につき朝食をとるシハナの髪を結う。規則で肩より長い髪は結わなければならないらしい。面倒なことだ。キンブリーは、背に垂らした髪の方が、子供らしくてかわいいと思うのだが。

「あのね、今、学校で怖い話の本が流行ってるんです」
「そうですか。シハナも怖い話が好きですか」
「うん。昨日もね、図書館から借りてきました」
「怖くはない?」

 戯れに問うと、シハナはうーんと唸った。最近、己を真似始めた、たどたどしい口調が愛らしい。

「ゾルフ、吸血鬼っているでしょう?」
「実在するかしないかは別として、そういう怪物の話は全国にありますね」
「なんで、血なんて美味しくないのに飲むのかな? 喉に噛みついて血を吸うなら、喉の肉の方が美味しいのに」
「さあ、どうしてでしょうねえ」

 長い髪を三つ編みにしてやると、つい手が滑って髪の束を引っ張ってしまう。シハナの小さな頭がつんのめった。

「おっと、すみませんね」
「ゾルフは三つ編みが下手だね。ゾルフのお母さんの方が上手」

 でも、とシハナは付け足した。

「それ以外はゾルフの方がいい」
「おやおや、お上手で」
「上手? 何が?」
「なんでもありませんよ。ほら、出来ました。次はこっち」
「今日は、いつもより綺麗にしてね!」
「なぜ?」

 問い返すと、シハナは怪訝そうにキンブリーを振り返った。

「今日、授業参観だよ?」
「……ああ、そうですね。いつもより綺麗にしなくてはね」

 そつなく返したつもりが、シハナの表情はみるみる曇った。

「ごめんなさい。忙しかったら、大丈夫です。クラスにも、おうちの人、来ない友達もいるから」

 こういうときには、聡すぎるというのも仇になる。目に見えて潤む灰色の瞳を覗き込みながら、キンブリーは優しく諭す。

「今朝はばたばたしていて、少し忘れていただけです。何のために今日に合わせて急いで帰ってきたと思っているのですか?」

 わからない、と首を振るシハナの額を撫でた。

「授業参観に行くためですよ。だから、何も気にしなくていいんです。忘れてしまっていてすみません」

 ぱ、とシハナの顔は明るくなる。案外、自分も良い父親ではないか、と思った。こんなこと、全く向いていないと思ったのだが。シハナはもぐもぐとシリアルを頬張る。実家の母の料理の方がよほど美味しいだろうに、とキンブリーはその姿を眺めた。

******



 はい! はい! と教室のあちこちから手が挙がる。まだ幼さの残る生徒たちが、きらきらと目を輝かせながら親にいいところを見せようと張り切っていた。シハナは手こそ挙げないが、ノートの問題が解けるたびにキンブリーの方を振り向いては小さく手を振ってきた。キンブリーはそれに指で合図する。シハナはそれを見るとにこりと笑って、黒板に向き直る。
 小さく作られた机や椅子、可愛らしく作られたポスターでいっぱいの小学生の教室において、キンブリーはひどく異質であった。セントラルの比較的富裕な層が子供を通わせているエレメンタリースクールである。保護者達も、ごくごく普通な人間が多い。街中で見かければそう違和感のない、キンブリーの軍人らしい所作も、教室には似つかわしくない。何より、キンブリーは若すぎた。先ほどから、保護者たちの「あれは何者だろう」という視線を感じていた。
 誤魔化すように、壁に貼られた絵を見る。子供らしい伸びやかな絵だ。大きな家に豆粒のような登場人物を配している絵を見て、どうやらこの子は家というものに抑圧されているらしい、とか、ぐるぐると大きな目の人間を描いた絵を見て、この子の家庭環境は複雑そうだ、とか、そういった益体もないことを考える。はたと気付いた。シハナの絵が無い。もう一度、端から確認していく。絵の数と教室の生徒の数を比べてみる。一枚足りない。確かに、シハナの絵はなかった。
 キンブリーは眉をひそめる。どういうことだろう。

「はい、じゃあ、次の問題。……シハナさん、答えてみましょうか」

 義娘の名が呼ばれたので、そちらに視線を移す。跳ねるように立ち上がったシハナの下ろしたてのワンピースの裾が、ふわふわと揺れた。よく似合っている。親の――まだ正式に親ではないが――の欲目を抜きにしても、教室で一番美人で服のセンスが良くて賢そうな顔をしている。そこまで考え、キンブリーは父の臆面なく緩んだ顔を思い出し、顔をしかめた。

「えっと……72、だと思います」
「正解です。よくできましたね」

 先生に褒められたシハナは、満面の笑みでキンブリーを振り返る。キンブリーは掌をシハナの方に向けてそれに応えた。周囲の視線が「ああ、あの子の保護者なのか」とキンブリーに注がれる。若すぎる父に、明らかに人種の違う娘を見て、その視線は好奇のものに変わった。

 授業の終了のベルとともに、シハナは一番にキンブリーの方に駆けてくる。ぴょんぴょんと跳ねるたびに、スカートがひるがえる。はしたない、とキンブリーはそれを窘めた。

「ねえ、ゾルフ、私、正解したの!」
「ええ、見ていましたよ」

 シハナがキンブリーをゾルフと呼ぶのを聞いて、傍らの御婦人がぎょっとしたように視線をよこした。やはり、他の呼び方をさせるべきか、と考える。

「あのね、あの問題ね、あってるか分からなかったの。でも、誰も手を挙げないから、挙げてみたの。そうしたらね、あってたんだよ」
「それはすごい。将来は錬金術師になりますか?」
「ううん。ゾルフは錬金術師でしょ? だから、私はただの軍人になるの。全部いっしょじゃつまらないでしょ?」
「なるほど」

 キンブリーはシハナの頭に手を置いた。こういうところで、たびたび意表をつかれる。

「士官学校の勉強も大変ですよ」
「大丈夫だよ」

 シハナは頬を膨らませる。キンブリーも目を細めた。
 子供とその保護者でごった返す廊下で、先ほどまで教壇に立っていた女性に声をかけられた。担任なのだろう。野暮ったいカーディガンの、若い先生である。

「シハナさんのお父様ですか?」
「ええ……いえ、戸籍上はまだですが。今はまだ後見人です」
「あ、え、そうでしたか。あの……シハナさんのことで少しお話が……」

 ちょうどいい、とキンブリーはシハナの背を押す。絵のことも、聞きたかった。

「シハナ、少し遊んでいなさい」
「はあい」
「返事は短く」
「はい。じゃあ、図書館で本を読んでいます」

 おどろおどろしい吸血鬼の表紙の本を鞄から取り出すと、シハナは小走りに廊下をわたっていく。担任がその後ろ姿に「廊下は走らない!」と声をかけた、シハナは振り返りきまり悪そうな顔で「ごめんなさい」と言うと、ぎくしゃくと早足で廊下の角を曲がり見えなくなった。

「学校でのシハナの様子はどうですか。何分、家を空ける期間の長い職でして。その分、休暇もまとまってとれるのですが」

 キンブリーがそう言うと、担任は眉尻を下げながら笑んだ。

「とても良い子ですよ。成績も申し分ありませんし、お友達も多いです。少し、引っ込み思案なところはありますが」
「そうですか? 今日は挙手していましたが」
「お父様が見に来られていたからでしょう」

 担任は笑う。こちらに、と誰もいない教室に案内される。小さな椅子に座るのも恰好がつかず、失礼と断って机に腰掛けた。

「いつもは……そうですね、何事につけ一歩ひいた風な感じです。あの年頃の子供らしくないというか……とても、思慮深くて……なんというか……」
「まるで、大人の顔色を窺っているようだ、と?」
「いえ、そこまでは……」

 おどおどと担任は胸の前で手を振る。若く、自信が無さそうに見えるが、生徒のことをよく見ているらしい。
 ああ、とキンブリーは話題を変えた。

「そういえば、教室に飾ってあった絵ですが――」
「ええ、はい、そのことでお話が……」

 担任は小脇に抱えていた大きな封筒をキンブリーに差し出す。

「あれは図画工作の時間に“一番印象に残っている思い出”という題材で描いてもらったもので……」

 キンブリーはその中の、十数枚に及ぶ画用紙に描かれたそれを見て、目を見張った。細いペンで描かれた、細密を極める絵であった。家屋の窓から、窓に映る建物の影から、ぎっちりと描きこまれている。そこを波のようにうねりながら、怒れる男達が手に手に武器を持ち行進している。幼い子供らしい拙い筆致ながら、数枚を比べると持ち物や着ている衣服から、何枚かに同じ人物が描かれていることが分かる。まるで、それを、目の前で見て、そのまま描いているようであった。執拗に描きこまれた背景に比べ、人物の顔だけは丸と線だけで描かれ簡素極まりない。

「あまり……気持ちのいい絵ではないでしょう?」

 それはとても優しい言い方であった。有体に言うなら、ひどく、不気味だ。シハナがこういう絵を描くのは知らなかった。意外に上手いな、などと考えながら、それを封筒にしまった。

「その、複雑な家庭環境でいらっしゃるようですし、シハナさんに何か問題はありませんか?」

 たとえば、若すぎる義父による性的虐待などを、この女性は心配しているのかもしれないな、とキンブリーは考えた。父親が言ったように、なるほど、不都合だ。

「そうですね……シハナが私に引き取られる前の話をお耳に入れたことは?」
「いいえ。両親が亡くなったということだけ、本人から聞きましたが」
「あの子はアエルゴ国境の生まれで、先の暴動で家族を失いました」

 担任ははっと息を飲んだ。事実であるが、なかなか使い勝手のいい身の上話である。

「だから、シハナにとって一番印象に残っているのは、その暴動なのでしょうね」

 担任は先ほどまでの疑うような目を、憐憫に滲ませた。

「可哀想に」

 キンブリーは緩く唇を引き上げる。そうだろうか。酸鼻を極める暴動の様子が描かれているが、ここから悲しみや苦悩といったものは感じられない。どこか祭りのような陽気ささえ見て取れた。むしろ、ただの風景写真のようだ。シハナにとって、それは、正しく“一番印象に残っている思い出”であるだけなのだろう。

「差し出がましいようですが、カウンセリングなどは受けさせてあげていますか?」

 キンブリーはにこりと笑って嘘をついた。

「ええ、もちろんです」

 担任はほっと安心した顔をする。席を立ちかけたキンブリーは、ああと言って手にした封筒を掲げた。

「これは、もらってもよろしいですか?」
「もちろん、どうぞ」


******

 ゾルフ、と研究室のドアの向こうから小さく己を呼ぶ声がした。夕食を済ませたあと、宿題をしていたのだが、終わったのだろうか。
 細くドアを開けると、ノートとペンを持ったシハナがキンブリーを見上げた。

「ゾルフ、あのね……」
「どうしました」

 シハナは困ったように眉をハの時にする。

「いっしょに勉強していい?」

 どうして、と聞きかけてキンブリーは思いとどまる。そういえば、怪談話が流行っていたのであったか。

「分かりました。でも、今晩だけですよ」
「うーん、分かりません。また、怖い本、借りちゃったの」
「……読まなきゃいいでしょう」
「だって、面白いんだもん」

 三つ編みをほどいてふわふわになった頭を、シハナは振った。
 キンブリーのデスクの脇で、床にノートと教科書を広げる。その、細かな字を見て、ふと昼間の絵のことを思い出した。

「シハナ、学校はどうですか」
「学校ですか? 楽しいよ」

 あ、とシハナは顔をしかめた。

「キールっていう男の子がね、私のファミリーネームが変だって何度も言ってくるの。嫌い。ねえ、いつになったらキンブリーになれるの?」
「そうですね、もう少し」

 養子と一言で言っても簡単ではない。特にシハナと血縁でもなければ、相続すべき財産もないキンブリーには、なかなか養子の手続きが煩雑になるのだ。せめてシハナが士官学校に行く前に、とは考えていたが、キンブリー自身の多忙もあり、遅々として進んでいなかった。
 シハナは曽祖父が南東からの移民であったらしく、シハナのファミリーネームはかなり珍しい。人種がごちゃ混ぜの国境付近ではそうでも無かったのであろうが、セントラルの、それもアッパーミドル以上の家庭の子が集まる学校では、からかいの種になることもあるだろう。まっすぐに見上げてくる灰色の瞳を、見つめ返した。その眼が、きゅうと細められる。

「だから、私、キールを川に落としたの。何回やめてって言ってもやめないから」
「へえ、それで?」
「なんにも。流れて行ったよ。それだけ。今日は学校に来てたよ。でも、もう、話してない」

 キンブリーは眉をひそめて見せた。

「いけませんね」
「どうして?」

 シハナはおろおろと首を傾げる。

「その、キールくんが、ご両親か先生に言いつけでもしたらどうするつもりだったのですか?」
「そんなことしないよ。女の子に川に落とされたなんて、キールは恥ずかしがって絶対に人に言わないから」

 キール、ばかだもん。と、シハナは言った。はあ、とキンブリーは溜息をつく。シハナはぎくりと肩を震わせた。

「そうして敵をあなどっていると足元をすくわれると、何度も言ったはずです」
「だって、だって……」
「言い訳は聞きたくありません」

 ぴしゃりと言い切ると、潤んでいた目からぽろぽろと涙がこぼれた。少々心が痛むが仕方がない。自分たちのような人間が生きていくために、必要不可欠な技術である。
 キンブリーはシハナを厳しく見据えた。

「どうするべきだったと思いますか」

 シハナはしばらく嗚咽を漏らしていたが、ぐしぐしと目をこすると、鼻水をすする。

「ちゃんと、う、……ひぐっ、ちゃんと、息の根を、止めればよかったと、えぐっ、思います」
「そうですね。でも、そんな身近な人物を殺してしまっては、誰の仕業かばれてしまいますよ」
「足を滑らせて、川に落ちて頭を打ったよう、に、ひっく……見せればよかったと、思います」
「いいでしょう。もしくは、ちょっとした仕返しなら、相手に自分のしわざだと勘付かれないようにしなさい。それが出来ないなら、何を言われても笑っていなさい」
「……はい」

 キンブリーは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃなシハナの顔を拭いてやる。

「ほら、そんなに泣くものじゃありませんよ。いつでも笑っていなさい。そうすれば、周囲は勝手に騙されてくれます。泣くのも、怒るのも、自分でコントロール出来なくては」
「う……、ひっく、むりぃ……」
「出来ます。出来なければ排除されます」

 むぐ、とシハナは嗚咽を飲みこんだ。そのまま黙って頷く。よし、と言うと、シハナは勢いよくキンブリーの胸に顔を押し付けた。ひいぃん、とか細い泣き声が胸元からくぐもって聞こえる。


 キンブリーはしばらくシハナの背を撫でていた。背の震えがおさまってきた頃に、ずっと話したかったことを思い出した。

「ああ、そうだ。貴女の絵を見ましたよ」

 キンブリーは言って、デスクから画用紙をとりあげる。シハナは顔をあげてそれを見たが、すぐに暗い顔で目を伏せた。

「それ、頑張って描いたのに、みんな変だって言うの」
「私は好きですよ」
「ほんと?」
「ええ、とても上手です。絵を描くのは好きですか」

 シハナは、少しの間なにかを考えていた様子であったが、こくりと小さく首肯する。

「でも、飾ってもらえなかった。授業参観でゾルフに見てほしかったのに」
「それは、担任の先生が貴女に望む姿と、その絵がかけ離れすぎていたからです」

 キンブリーの言葉に、シハナは難しい顔をした。先ほどまで泣いていたことすら忘れたかのような、真剣な表情である。キンブリーはシハナの腫れた瞼をそっと撫でた。

「考えなさい。担任の先生は、どんな貴女を望んでいると思いますか」
「……素直で、子供っぽくて、ちゃんと勉強は出来るけどたまに間違えて、それで、少し、可哀想な私」
「可哀想?」
「うん。先生、私がお父さんもお母さんもいないって前に言ったとき、悲しそうな顔をして頭を撫でてくれたの。そのとき、先生、悲しそうだったけど……なんか、嬉しそうだったから。先生は、可哀想な私が好きなんだと思う」

 まったく子供らしくない洞察力だ。キンブリーは内心舌を巻く。

「なら、これからは、そういう絵を描きなさい。先生の前以外では好きなように描けばいい。絵を描いたらぜひ見せてくださいね。私は、シハナのこの絵がとても好きですよ」

 シハナはくしゃりと笑った。キンブリーはその頭を撫でてやる。

「ただ、これだけは忘れないでください。シハナのどうしても譲れない一線は、絶対に妥協してはいけない。誰が相手でも、世界を敵に回しても」
「……ゾルフでも?」
「もちろん。そのときは、容赦なく私を殺しなさい」
「…………できないよ」
「どうして?」
「ゆずれないいっせん、なんて、分からない」
「そのうちに分かります」
「それに、私じゃゾルフに勝てないもの」
「その時はその時です。貴女が私に勝てなかったとしても、それもまた世界の選択です。そうでしょう?」
「…………うん」

 シハナは、そう言ったきり、黙ってキンブリーの指を握った。
 キンブリーは、壁の時計をちらと見る。もう遅い。

「分かったら、もう寝なさい。明日も学校でしょう」

 きゅう、と、指を握る力が強くなる。

「ゾルフ、ここで寝てもいい?」
「だめです。ここは研究室で、寝室ではありませんから」

 シハナの目が、また潤んだ。キンブリーは深く息を吐く。

「仕方ありませんね。私の部屋でいっしょに寝ますか?」

 シハナは嬉しそうに表情を輝かせる。全く、己はこの顔に弱いのだ。両親のことをどうこう言えない。

「うん!」
「今晩だけですよ」
「……たまには?」
「そうですね、たまになら」

 にこにことキンブリーの手をひくシハナの姿を見て、キンブリーは「果たしていつまでこうしてくれるのやら」と幼い義娘の未来を思った。