ふしぎなおやこ



 豊かな緑で人気の避暑地であるが、私にとっては重苦しい仕事部屋であった。これでも巷では人気の作家で、サイン会などを開いて悦に入ることはあっても、青い空の下にポロシャツ姿でいれば、その日暮らしの若者よりもっとずっと冴えない中年でしかなかった。メディアの前では過激な発言とメッセージ性のある話題作で持て囃されても、その実、高価なカメラとライト、私の発言を良いようにデコレーションしてくれる記者がいなければ、私は何者でもないのだ。
 プールサイドできらめく水面を眺める。レモンの香りのする炭酸水を一口含んだ。鼻を抜ける清涼感。私はプールの脇の小さな緑地を眺める。そこに翻る濃い青のワンピースを見つけて、身を乗り出した。
 ああ、今日もいた、と、安堵とも興奮ともつかない気持ちになる。年の頃は10歳くらいだろうか。長い髪を背に垂らした少女である。このあたりにいるということは、私と同じ貸コテージに避暑に来ているのかもしれない。だが、家族と一緒にいる様子は見たことが無い。いつも、プールに入るでもなく、緑地のあたりをぶらぶらしたり、木陰のベンチで本を読んだりしていた。それが、とても気になった。お父さんやお母さんはどこへいるのだろう。どうしてプールで遊ばないのだろう。もう少し、プールの方に来てくれれば、声をかけることも出来たのだが。
 私がそんな邪まな思いを抱えているとも知らず、少女はぴょんぴょんと跳ねるようにプールの方に近づいてきた。トロピカルフルーツのような水着の中で、スカートが膝下まである姿は妙に目立った。あまり服を持ってきていないのか、濃い青のワンピースと、白いブラウス、千鳥格子のハーフパンツを交互に着ているから、見間違えることはない。

 少女はプールサイドに膝をつき、水面を覗き込んだ。小麦色のふくりとした頬に、波模様の光が反射する。近くで見ると、どうやらアメストリス人ではないようであった。目頭のあたりの影の濃さや、視線の強さが異国風である。だが、ここ十年ほどでアメストリスには移民や少数民族を飲みこむようにして大きくなったから、もしかしたら彼女もそういった子なのかもしれない。
 今度の本の題材はそれがいいかな、と私はふと思う。自分自身に、突出した文章の才能があるとは思わない。学生時代の友人の、すでに夢を頓挫した小説家志望仲間の方が、よほど美しい文章を書いたものだ。だが、時流を読むのは誰より長けていた。世が反イシュヴァールで湧き上がれば、御国のために戦う愛国の志士を書きベストセラーとなり、長く続く戦争に倦怠感が漂い始めると、アメストリス軍青年将校とイシュヴァールの少女のラブストーリーを書き喝采を受けた。
 故郷を追われ、アメストリスに逃げてきたエキゾチックで美しい少女の物語は、アメストリス人の自己陶酔のために喜んで消費されるだろう。

 水面を覗き込んでいた少女に、プールで遊んでいたカップルの男が戯れに水をかけた。濃い色のワンピースに、てんてんとさらに濃い色の水玉ができる。少女は笑い、小さな手で水をすくうと男にかけかえす。そのまま、スカートの裾を翻して、どこかに走り去ってしまった。ほんの少しだけ残念に思う。やっと、近づいてくれたのに。






 翌日、私は燦々と晴れた日の下で、いつもより早い時間から炭酸水を舐めていた。今日も、あの子は来るかな、と期待する自分が、薄気味悪かった。私は決して小児性愛者ではない。ただ、浮かれた避暑地に似つかわしくない少女の退屈そうな姿に、好奇心が刺激されたのだ。少女はいつでもつまらなそうであった。誰も彼も楽しそうなリゾートで、退屈そうな顔を隠そうともしないのは、彼女と私だけだった。
 ふと緑地に目をやると、少女は木陰のベンチに座っていた。だが、今日は退屈そうではなく、一人でもなかった。ベンチの傍らには男が座っていて、少女は何か楽しそうに男に話しかけていた。私はそれを穴が開くほど見つめた。言いようのない不快感が胸をよぎる。
 男は、彼女の父親だろうか。いや、もしかすると、私と同じような邪まな考えを持った男かもしれない。どちらにしても、彼女の匂い立つようなミッドナイトブルーの憂鬱を拭い去ってしまった男が、憎らしかった。
 笑う少女は、何か言って、こちらを指差した。私はどきりとして、日よけ代わりにしていた新聞紙の影に身をすくませる。昨日と同じ青いワンピースが眩しい。少女はプールサイドのアイススタンドに駆け寄った。くるりと振り返ると、男を手招く。

「これ、食べたかったの!」

 私の想像に反して、少女は淀みないアメストリス語でそう言った。
 あとからゆっくりと歩いてきた男は、私の目の前を通り過ぎていく。私はじっとその男を観察する。黒い髪を撫でつけた、まだ若い男である。白い開襟シャツにデッキシューズという出で立ちはデスクワーカーのように見えたが、姿勢よく歩く姿は軍人然としている。横顔は端正だが、どこか冷たい。
 アイススタンドで何やらやりとりしながら真剣な表情でガラスケースを覗く少女は愛らしかった。少女が何度かガラスケースを指差すと、男は首を振った。少女は残念そうな顔をして、またガラスに額がくっつくほど悩み始めた。私なら、欲しいアイスクリームは何種類でも買ってあげるのに、と思った。
 やっとピンク色のアイスクリームをひとつ受け取った少女は、嬉しそうに男を見上げた。男もマーブル模様のアイスを手にしている。どうやら、半分こと言う形で少女の望みは少しだけ叶ったようだった。少女はぐるりと辺りを見回すと、私の隣のデッキチェアに歩み寄り腰を据えた。そのとき一瞬だけ目があった。長いまつげに縁どられた灰色の瞳が、ぞっとするほど美しかった。

「ひとくち! ひとくちちょうだい!」
「まずは自分のアイスを少しでも食べてはどうですか?」

 後から来た男も、少女に並んで同じデッキチェアに座った。本来二人掛けではないチェアに寄り添って座る姿に、私は少しだけ嫉妬した。少女はピンク色のアイスにスプーンを刺す。

「ずっと食べたかったの」
「お小遣いで食べればよかったでしょう」

 男は言う。少女は首を振った。

「こんなところで一人で食べてもつまらないよ」

 私は、急に一人でサイダーを飲む自分が恥ずかしくなった。ことさら難しい顔をして新聞紙を睨む。

「ゾルフは、ずっと部屋にいてつまらなくないの?」
「たまには環境を変えて研究がしたかっただけですから。シハナはここは楽しくないですか?」

 シハナ、と少女の名前を聞いて私は浮足立った。よく似合う名前だと思った。シハナ、と胸中でよんでみる。だが、シハナが男をゾルフと呼んだのがひっかかっていた。父でも、兄でなく、ではこの男はいったい何者なのだろうか。シハナがてらいなく男に甘える姿は親子にしか見えなかったが、なんだか奇妙であった。

「楽しいけど……」
「けど?」

 シハナは眉尻を下げた。

「3日で飽きた」

 男は途端に噴き出した。私も思わず笑いそうになる。浮世から逃避し、飽きるほどに享楽と退屈を貪るための場所に来て、臆面もなく飽きたと言い切る少女は好ましかった。

「みんな、毎日おなじことしてるから、見ていてつまらないよ」
「そうですか。ほら、プールで遊んではどうです?」
「……だって、泳げないもん」

 男はいよいよ声をあげて笑った。

「なんで笑うの!」
「いえ、では、練習しないといけませんね。泳げない兵士は使えませんよ」
「軍人って泳げなきゃないの?」
「当然でしょう」
「ゾルフは泳げるの?」
「そうですね。それなりに」

 どうやら男は軍人らしかった。会話の内容からするに、少女も軍人になりたいのだろうか。そんな危険なことをするなんて、と思うのと同時に、固い軍服に小銃を携えた少女を思うと胸が躍った。
 サンダルを爪先にひっかけた華奢な足が、ぷらぷらと投げ出される。

「……じゃあ、練習する」






 翌日、前日よりさらに早くプールに向かうと、まだ幾分か人のまばらなプールサイドで、例の奇妙な親子の姿を見つけた。
 シハナのオレンジ色の水着姿は子供らしく、起伏の無い体はお世辞にも性的とは言い難い。シハナはプールサイドのぎりぎりに立ち、神妙な面持ちで水面を見下ろしていた。何を言っているかは分からないが、小声で言いあっている。男が何か言うと、シハナはぶんぶんと首を振った。男がまた何か言う。シハナは首を振る。

「絶対にいや。浮き輪なんて、小っちゃい子みたい」

 シハナがそう言ったのだけ聞こえた。ははあ、と私はデッキチェアに腰掛け、表紙のピンナップがシハナに面差しが似ていたという理由で購入した雑誌を広げる。どうやら、約束通り泳ぐ練習をしようとしたが、水が怖くてぐずっているらしい。かといって、浮き輪を使うのもプライドが許さないようだ。
 男の横顔が険しくなる。長いことそうしているのだろう。朝のシャワー代わりにプールで目を覚ましている人たちが、プール際の二人に目をやるたびに苦笑した。
 男は溜息をつき、シハナを抱き上げる。シハナは目を丸くし、その間に男はシハナをプールにぽーんと放り投げた。鮮やかなオレンジ色が青い空に弧を描き、悲鳴が尾をひいた。派手な水飛沫とともにシハナは着水する。シハナはしばらくもがいたが、足がつくことに気付いたのか、よろよろしながら立ち上がり、きっとプールサイドを睨んだ。

「ゾルフのばかー!」

 半分涙声で、むせながらシハナは叫んだ。

「どうぞ、なんとでも言いなさい」

 男はプールサイドから冷たく言い捨てた。私は雑誌の影で少しだけ笑った。水に濡れた髪を掻きあげながら、シハナは憤然とプールサイドに手をかける。

「ゾルフのばか! ばか! ばか! きらい!」
「そうですか?」
「きらい!」
「それは残念」

 むう、とシハナは頬を膨らませると、無言で男に両手を伸ばした。

「自分で上がりなさい」
「できない」
「わがままばかり言っているようでは、一人で家に帰らせますよ」

 シハナは自分の肩ほどの高さのプールサイドによじ登った。小麦色の肌をした伸びやかな肢体に、ざあと水が流れて落ちた。綺麗だ、と、私は思った。






 翌日、私は前の晩に朝方まで仕事をしていたために、目を覚ますとすでに西日がさしていた。無理は出来ぬ身体になったと思いながら、空き腹を抱えてダイナーに向かう。朝食兼昼食兼夕食である。強かにアルコールでも入れて、もう一度無理にでも寝てしまおうという算段だ。
 席について軽食とドリンクを頼むと、聞きなれた笑い声が耳をくすぐった。そっと振り返ると、すぐ後ろに長い髪が風にそよそよとなびいている。白いブラウスが夕陽を映して淡いオレンジ色に染まっていた。向かい合う男は、妙にきれいな動作で食事をしている。軍人だが、研究のためにコテージを借りていて、育ちのいい男。はたして何者なのだろう。

「あのね、ゾルフ」
「なんです。……ソース、こぼしましたよ」
「ん、ごめんなさい。あのね、神様っていると思う?」
「さあて、どうでしょうか」

 私はその会話を背中で聞いた。

「イシュヴァールの人は、イシュヴァラを信じているんでしょ?」
「そうですよ」
「ゾルフは?」
「私は、特にこれといった信仰はありませんよ」
「ゾルフは錬金術教だよね」
「……なんですかそれは」
「すぐとーかこーかんとか言う」
「なるほど」

 ああ、そうか、男は軍人で、研究者で、つまりは国家錬金術師なのだろう。まさかこんなところでこの国最高峰の資格職の人間に会えるとは思わなかった。

「では、シハナは?」
「私?」

 ううん、と、うなる声が背後から聞こえる。きっと、可愛らしく首をかしげていることだろう。

「神様って、なんでも知ってるんでしょ?」
「そういう神もいますね」
「イシュヴァールの人はイシュヴァラを信じていて、ゾルフは何も信じていないの?」
「ええ」
「あのね、私のおじいちゃんはね、毎朝太陽を拝んでいたよ。でも、お母さんは、オオカミの人形を拝んでた。それをおじいちゃんは嫌がっていたけど」
「へえ、狼信仰ですか。珍しい」
「でもおじいちゃんは太陽を拝んでて、お母さんにオオカミを拝んじゃダメだった言うのは、変だと思ったの」
「それはどうして?」
「どうしてだろう。だってどっちも神様で、偉いんなら、何を拝んだっていいのにって」
「貴女、意外と進歩的ですねえ」
「そうなの? それっていいこと?」
「時と場合によりますね」

 ふうん、とシハナの溜息に似た返事が聞こえる。私は黙って運ばれてきたエビのフリッターを口にする。ほとんど味はしなかった。あどけない口調に反比例するようにその内容はなかなか苛烈であった。そういえば、私の母が宗教活動に熱心であったが、自分はそうでもない。ただ、悪いことをしたら楽園に行けないというのは、少しだけ信じている。

「いっぱい神様っているんだよ。でね、みんな、世界を作るの。じゃあ、世界ってたくさんあるの?」
「どうなのでしょう」
「でも、世界ってなんだろうって思った」
「……いったい私の書斎から何の本を持ち出したのですか?」
「いろいろ」
「私は信仰がありませんからなんとも言えませんが、それは、シハナ自身が答えを見つけなくてはならないのだと思いますよ」
「そうなの?」
「ええ、見つけたら私に教えてください」
「うーん、わかった」






 翌日、私はベッドでぼんやりと昨日のことを考えていた。世界とはなんであろうか。思えばそれはひどく脆弱な気がするのだ。自身の小説家としての大成も、もしかするとしがない小説家志望の若者の夢であるのかもしれない。ふと目を覚ますと、私は、古ぼけたアパートの黴臭いベッドにいて、日雇いの仕事に出かけるのかもしれない。或いは、精神病質者の妄想で、周囲はその妄言に付き合っているだけなのかもしれない。なんだか、怖くなったのだ。
 こんこん、と無遠慮にドアをノックする音が聞こえた。不承不承起き上がり、ドアを開けると、自分より幾分か年上の、見慣れた編集者の顔が覗く。へらへらと追従の笑みを浮かべながら、額の汗をぬぐった。避暑地の風景と、異国風の少女と、哲学的な思索を不意に俗世へ引き戻された気がして、私は憮然とした表情を隠そうともしなかった。
 編集者は、乱れたままのベッドと起き抜けの私の恰好を見比べて眉尻を下げた。

「お休み中でしたか、申し訳ありません」
「いいや、起きていたよ」

 私は首を振る。この男が、苦手だった。正確にはこの男の態度が苦手だった。何かにつけへらへらとこちらの顔色を窺うような態度が気に食わない。もっとも、それは誰でも同じであるのだ。誰も彼も、出版すればベストセラーの歩く金庫のような小説家に、なんとかして作品を書いてもらおうと躍起になっている。私はその卑屈な態度に苛立ち、それを感じた編集はますます卑屈になっていく。悪循環だった。
 男は横目でデスクの原稿用紙を盗み見た。見たいなら見たいと言えば見せてやるのに、と、八つ当たりめいた理不尽な怒りが湧き上がる。

「どうです、先生、次の作品の出来は」
「ああ、そうだね……まずまずかな」
「テーマはどうなります?」
「ううん……」

 全て書きかけで投げ出していた原稿用紙をちらと見た。

「そう……世界と神、かな」

 へえ! と男は大げさに目を剥いて見せた。

「いいですねえ! イシュヴァールの件で宗教への関心が高まってますからね!」

 そこで、声をひそめる。

「でも、あまり大っぴらに既存の宗教に触れると、やりようによっては少々まずいですよ。最近はどこもかしこもピリピリしてますし」
「ああ、うん、わかってるよ。大丈夫」

 私は投げやりに答えた。






 翌日、少女は一人で緑地に座っていた。膝には本が広げられている。なんの本だろうか。濃い青のワンピースに、今日は白い麦わら帽子をかぶってた。リゾートによくある、スタンドで売っている安物で、造花の大きなひまわりが申し訳なさそうにくっついている。
 利発そうな灰色の瞳と、小麦色の頬に、黄色のひまわりは可愛らしい。それでも瑞々しい少女の頭を飾るには、造花はあまりにお粗末な出来であった。ああ、あの細い腕に抱えきれないほどのひまわりを贈ってあげたい。喜ぶだろうか、それとも、驚くだろうか。花は好きなのだろうか。ともかく、エキゾチックな横顔に、大輪のひまわりはよく似合っていた。
 私はもはや定位置となりかけているデッキチェアに腰掛け、その姿を見つめた。私は疲れていた。追われるように求められる作品を諾々と作り続ける日々に。下らぬ男に追従される日々に。分かっているのだ。下らぬ人間にしか追従されぬ私こそが、下らないということに。
 少女の無垢な横顔は、この世の汚いものなど何も見たことが無いかのように清らかで、それが羨ましくも妬ましく、そう、多分、私は彼女になりたかった。私の倦み疲れ、よどんだ両の瞳に映るシハナは、いつもきらきらとした陽光の下で、小鹿のように軽やかに跳ね回るニンフであった。
 私は、どこか、遠いところに行きたいと願った。彼女が、それを、ささやかながら叶えてくれたのだ。異国情緒なシハナの瞳は、遠い国の青い空を私に思わせてくれた。






 翌日、私はプールサイドで仲睦まじげにアイスを食べるかの不思議な親子を見つけた。そろりと何食わぬ顔で傍らのベンチに座る。シハナは爽やかな黄色のソルベを舐めていた。こちらにまですうとしたレモンの香りがした。男はそれを黙って眺めている。その視線に気付いたシハナは、少しだけ惜しそうな顔をしたが、スプーンにすくったソルベを差し出す。男は笑って、それを口にした。絵にできそうなほど理想的な家族の肖像だが、何か胸のあたりにひっかかるような違和感が残った。

「あのね」

 シハナはスプーンをひっこめながら言った。襟に赤い糸で花の刺繍された白いブラウスに包まれた華奢な肩がすくめられる。

「考えたの」
「何をですか?」
「世界」
「ああ」

 私は息をひそめてそれを盗み聞いた。

「神様ってたくさんいるでしょ?」
「……それは教義によるでしょう。イシュヴァラは一神教ですよ」
「そうじゃないよ。イシュヴァラも神様だし、太陽も、オオカミも神様だよ」
「ああ、そういう意味では、そうですね。無数にいます」
「それを、どれを神様にするか決めるのは人間でしょ?」
「ええ」
「じゃあ、多分ね、多分だけどね、世界って私が見てるものだと思ったの。それで、私が見てるものを全部知っているのは私だけだから、私の世界で神様は私なの」
「なるほど。世界など主観に過ぎないと? され尽くした議論ではありますが」
「う? わかんない」
「私の本棚を随分ひっくり返したようですね」
「……ちゃんと片付けたよ」
「それなら宜しい」
「ねえ、あってる?」
「さあ、そればかりは私には何とも」
「ゾルフにも分からないことがあるの?」
「ありますよ、たくさんね」
「……そっか」

 私は己の膝を見つめる。私の世界の神が私なら、随分、頼りないものだと思った。






 翌日、私は、一人でプールサイドで水に足を浸すシハナを見つけた。胸についたサテンの黒いリボンがひらひらと舞っている。私はそれに誘われるように、少女の傍らに歩みを進める。不意に近付いてきた中年の見知らぬ男に、シハナは怪訝な顔をしてこちらを見た。

「こんにちは」
「……こんにちは」
「可愛い帽子だね。お父さんに買ってもらったの?」

 シハナは恥ずかしそうに顔を伏せて、白い帽子の縁に触れた。こくり、と頷く。やはり、あの男は父親であったらしい。その割には、男は若すぎたし、シハナと男は似ていなかった。

「おじさん」

 シハナは私の顔をまじまじと見つめる。間近で見る灰色の瞳は、私をそわそわと落ち着かなくさせた。

「私、おじさんのこと知ってます」

 どきりとした。ここ数日、路地裏を這いまわる犬のように彼女を付け回していたのがばれていたのかと、心臓が縮むような気持ちになる。ああ、しかし、それでも良かった。彼女を神とした世界の住人になれるなら、なんだって良かった。

「おじさん、たくさん本を書いている人」
「あ、ああ……そうだよ。よく知っているね」

 少女は得意げに笑んで見せた。私は歓喜した。彼女の抱えた本の中に、自分の書いた本があったことに。彼女の世界に、少しでも干渉できたことに。私は曖昧な笑みで喜びをひた隠しながら、尋ねた。

「読んでくれたんだね」
「はい」
「どうだった?」

 シハナはふっと笑った。ほころぶ大輪のひまわりのように。だが柔らかな灰色の瞳だけが、冷徹に細められた。

「別に」

 私は石で打たれたようになって立ち尽くした。足下がふわふわとして、どこに立っているのかよく分からなくなった。プールの水音だけが聞こえる。私はさっと青くなり、すぐに赤面した。手に汗がじんわりと滲む。こんな辱めは初めてだった。太陽に近づきすぎた人間のように、私は地に叩き落されたのだ。

「シハナ」
「あ、ゾルフ」

 シハナは私を無視してぴょんと跳ねた。大きく手を振る姿は子供らしく微笑ましい。私に彼女の世界での死を宣告した姿とは打って変わっていた。
 男はシハナの傍らに立ち、シハナそっくりに目を細めて私を見た。

「どなたです?」
「知らないおじさん」
「おやおや――」

 男は笑い、私の顔を覗き込んだ。

「知らない人に無暗に声をかけるものではありませんよ。危ないでしょう」

 男は、確かに、私にそう言った。くすくすとシハナの笑い声が、頭にがんがんと響いた。
 私はやっとのことでしどろもどろに非礼を詫び、這う這うの体でコテージに逃げ帰った。その後のことは、これを読んでいる貴方には承知のことだろう。私は私の神を殺すことにした。私にできることはこれしかなかった。私は疲弊していた。判断力は正常ではないかもしれない。だが、私は私に飽き飽きしてしまったのだ。残念ながらこれは作品ではない。どうか、世に出すことは止めてほしい。


1899年 8月7日 ヤヴィシュタの湖畔にて