死にゆくあなたに花束を



 エドワード・エルリックは手元の鍵を見つめる。鈍い銀色の古ぼけたそれを、おそるおそる鍵穴に差し込んだ。かしゃ、と錠が鳴る。どうやら、住所は間違っていなかったらしい。
 シハナ・S・キンブリー大尉――元大尉、と言うべきか――は、その死の間際、血反吐とともにエドの手の上にその鍵を落とした。喘鳴とともに囁かれた住所は、セントラル郊外のものであった。

「不躾なお願いではあるのですが」

 ごぼり、と赤黒い血を吐き続けながら、シハナは相変わらず人懐こい笑みを浮かべて言った。その体は彼女の義父の忘れ形見である紅蓮の錬成陣で修復不可能なまでに傷んでいた。エドは、イシュヴァールでキンブリー親子の関わった実験に疑念を抱いたことがあった。その規格外な破壊の爪痕に、賢者の石が関与しているのではないか、と。今ならその真相が分かる。生きた人間を、そのまま賢者の石にしたのだ。その生命エネルギーを搾り取り、一介の兵卒を人間兵器にまで高める実験であったのだ。
 悪魔の実験と呼んでもいいそれの産物を、シハナは躊躇なく使った。己の命を湯水の如く消費しているという自覚はあったのだろうか。――おそらく、あったのだろう。ごく短期間しか付き合いは無かったが、シハナは、そういう奴であった。

「私たちの自宅なのですが、引き払ってもらえませんか。大家さんが良い人で、あまり迷惑をかけたくないのです。親父殿の研究書類が残っているので、どうか貰ってやってください。紙くずにしてしまうよりずっといいでしょう」

 エドが鍵を受け取ったのを見たシハナは、微笑んでそう言った。もしかするとその目はもうほとんど見えていないのかもしれない。

「ああ、そうだ、最期にもうひとつ。少し下がってもらえますか? そうですね、大股で10歩ほど」

 言葉に従うと、ぱちんと弱々しい錬成反応とともに、シハナの体は四散した。その割に、飛び散るものは少なかった。代わりに、がらんと鋼の義手が地面に落ちた。血だらけの戦場跡で、シハナはなんの変哲もない血の染みの一部になってしまった。ほんの少しだけ驚いた。だが、シハナらしいとも思った。
 味方かと思えば敵対し、そうかと思えば突然「人手が必要ではないですか?」とエドのもとに現れたシハナは、“お父様”よりも人造人間よりも、もっとずっと理解不能な生き物であった。これ、制御が難しいですねえ、などと笑いながら敵も味方も構わず爆破しかけるので手を焼いたが、シハナは最終的にエドの方についた。いや、もとより彼ら親子は何者にも組みしていなかったのかもしれない。
 あんた、頭、大丈夫か? と、思わずエドは彼女に聞いてしまったことがある。かつての部下の頭に容赦なく拳銃を突きつけた時であったかもしれないし、味方も巻き込んで爆発を起こそうとしたときであったかもしれない。口にしないにせよ、エドはシハナに対して常にそう思っていた。

「駄目ですか? 手勢にキメラもホムンクルスもいて、今更けちくさいですね」

 いいじゃないですか、キチガイの一人や二人、とシハナは唇を尖らせた。一回りほど年上の彼女の子供っぽい仕草にエドは肩を落とす。シハナはその“理解不能な部分”を除けば、驚くほどに普通であった。むしろ、笑みを絶やさず、会話は機知に富み、人の機微に聡く、普通よりも魅力的でさえあったかもしれない。だからこそ、より一層理解しがたかった。

「なんでそんな簡単に人が殺せるんだ?」

 小さな命ひとつ救ってやれない無力さを嘆く自分には、理解できなかった。体一つと腕一本を以てしても掬い上げることの出来ぬそれを、薄笑いを浮かべて死の底へ叩き込むことが出来るのは何故なのか。

「さあ、そんなこと、考えたこともないですよ」
「人間が嫌いなのか?」

 エドは、基本的に人が好きだった。家族に愛され隣人に恵まれ、大きな傷を負いながらも――文字通り――立ち上がることが出来たのは、大勢の人たちの善意と協力があったからだ。道を踏み外す人間も大勢いる。許しがたい悪漢を腐るほど見てきた。それでも、やはり、エドは人間が好きだった。青臭いと言われようと、正義や絆といったものを信奉している。たとえ、非科学的であろうと。

「いいえ」

 常に穏やかで柔らかい物言いのシハナに珍しく、強く冷たい語気であった。それから、茶化すように肩をすくめて見せる。

「エドワード殿、あなた、やっぱり子供ですねえ」
「はあ?」

 思わず間の抜けた声をあげる。シハナは悪戯っぽく笑った。

「親父殿は、ああ見えて結構良い家の出で、愛情に満ちた家庭で何不自由なく育ちました。これがまた、どうしてこんな息子が産まれてしまったのかと頭を抱えたくなるような善良なご両親でしたよ。私も、まあ、そこそこ余裕のある方ではありました。末っ子長女でしたから、いたく可愛がられた記憶があります」

 急な昔話にエドは怪訝な顔をした。

「なんだよ、いきなり」
「それでも、どうしてでしょうね、殺さずにはいられないのですよ。生まれも育ちも関係ない、多分、こういう種類の生き物なんです。どうしてこう因果な性に生まれついてしまったのか、神がいるなら私は失敗作なのか。そんなことがあってたまるか、生まれながらに失敗作だなんて、そんなのは悲しいじゃないですか。きっと、こういう生き物にも生きている意味があるんです。だから、私は――私たちは、生きている限り、殺して殺して殺しまくるんです。それだけです」

 エドは呆然と異国風情なシハナの横顔を見つめた。伏せられていた灰色の瞳がぱっとエドの方を見て、三日月のように細められた。

「嘘ですよ。冗談です。なんで殺すか? 楽しいからです。あははははは」

 エドは、潔癖な白いコートに身を包んだ彼女の義父を思い出す。非情で狡猾で、何度も煮え湯を飲まされたが、では心からキンブリーを憎んでいるかと言われれば、どうしてか憎み切れなかった。その理由が分かった気がした。良くも悪くも、生きることに真摯であったからだ。

 ぎい、とドアを開けると、中は拍子抜けするほどに普通であった。そっと下駄箱を開けると、軍靴やワークブーツと並んで女性物の華奢な靴も収納されている。
 ダイニングキッチンには、古いがよく手入れされたテーブルセットが鎮座している。夕食の準備を待ち続けるかのように、二組の皿が重ねて並べられていた。エドは、皿を眺めながらテーブルの傷を撫でた。昔、自分の家に置いてあったダイニングテーブルに似ている気がした。
 生鮮食品のストックは空で、数日旅行に行くような様子にも、まるでこうなることを予期していたかのような様子にも思えた。
 エドははっとして顔を上げる。キッチンの見学をしに来たわけではないのだ。とりあえず、キンブリーの研究室を探そうと廊下に出る。出てすぐ左手のドアを開け、エドはぎょっとした。部屋の真ん中に掲げられた絵と目があったからだ。まだ描きかけらしいそれはイーゼルに立て掛けられ、じっとこちらを見ていた。
 どうやらシハナの部屋らしい。ダイニングよりは生活感があった。さっき飛び起きたばかりのように乱れたシーツに、丸めた部屋着が気軽に投げ出されていた。部屋の隅に山になったスケッチブックやカンバスには、細密な鉛筆画が描かれていた。絵を描くのが趣味なのは、知らなかった。
 ひとつスケッチブックを手に取り、表紙をめくった。雑踏を描いたそれは、写真のように衣装の皺やアクセサリーの鎖まで描きこまれている。だが何故か、顔だけは子供の落書きのように皆同じであった。シハナには、こういうふうに世界が見えていたのだろうか。ページを繰る。公園で遊ぶ子供らも、喫茶店で談笑する老紳士も、観劇帰りの少女も、髪の毛一本まで描きこまれているのに、顔はみな同じだ。なんだかうすら寒くなった。
 はた、と、飾り棚の中にずらりと並ぶ子供っぽい玩具に目がとまる。必要最低限のものしかないシンプルな居住空間に、それはひどく浮いていた。ガラス戸を開けて、一番左端の小さな人形を手に取る。黒く長い髪のそれは、ボタンの瞳でエドを見上げた。
 人形の下に敷かれていた白い紙は台紙だと思っていたが、それが封書であることに気付いた。何気なく、中を覗いてしまった。
「シハナ、誕生日おめでとうございます。学校の勉強は頑張っていますか? 家のお手伝いはすすんでやっていますか? こちらはもうすぐ帰ることができそうです。遅れましたがプレゼントを贈ります」
 そう、印刷物のように端正な字で書かれていた。消印は15年前のものだ。エドは次々に玩具を確認していく。消印が南のもの、北のもの、消印のない手渡しのものもあったが、きっちりと年代順に並べられていた。最初は人形や貝殻のネックレスだったプレゼントも、一番右端のものになると万年筆になっている。全部で9つ。つまり、6年前にキンブリーが投獄されるまでシハナに贈り続けた誕生日プレゼントが、綺麗に飾り棚に並べられていた。
 エドは眉根に皺を寄せる。そのまま飾り棚を閉め、部屋を後にした。
短い廊下の先に部屋を見つける。古い紙とインクのにおいが鼻先をかすめた。埃っぽい空気にむせながら、窓を開け、換気する。

「……すげ」

 思わず一人、呟いた。壁を埋め尽くす書籍。整然とファイリングされたレポートがずらりと並ぶ。一糸乱れず棚に収まる様は、散乱しているよりよほど圧巻であった。
 ひとつひとつ手に取り、ざっと目を通していく。簡単に暗号化されている部分はあったが、形だけのものである。そのあたりはあまり頓着しない男であったのかもしれない。或いは、この部屋の守り人を信頼していたのだろうか。
 先ほど見た封書や部屋の様子と同じように整然とした字を目で追う。分からない部分をとばしても、これを書いた人物が優秀であることは分かった。斬新な着眼点、精緻な実験、冷静な考察、どれをとっても文句のつけようがない。ただその成果は混沌と殺戮のためだけに消費された。シハナではないが、もし仮に神がいたとして、この男にこの才能を与えたのは、たちの悪い冗談か皮肉にしか思えなかった。
 溜息をつくと、舞い上がった埃が陽光にきらめいた。窓際の大きな木箱に腰掛け、棚のファイルをひとつ手に取った。他のファイルより一回り大きいそれが、なんとなく目についた。固いボール紙の表紙をめくると、古い紙束が綺麗にファイリングされていた。

「ゾルフ様へ お元気ですか。私は、元気です。学校にもなれました。さいしょは、大きくてたくさん人のいるセントラルがこわかったけれど、今はたのしいです。ゾルフのお父さんとお母さんとも仲良くしています。毎日、お手伝いをしています。勉強も、がんばっています。早く帰ってきて、お仕事の話を聞かせてね。 シハナ」

 拙いが丁寧な字で、そう、綴られていた。溜め息が、こぼれる。
 世界の変わる様が見たい、と、その常軌を逸した願望をアメストリスと天秤にかけた男と、退屈な人生などごめんだと混沌の道を歩んだ女は、全く疑いなく親子であった。2人が言葉を交わしているのは数えるほどしか見たことがなく、上司と部下としてのやりとりしか見たことが無かったから、ひどく、衝撃的であった。
 人間離れした狂気の獣だと思っていたのだ。相容れぬ性の、別種の生き物であると。それが、こう、人間らしい、いや、そこらの人間よりよほど、親子で慈しみあっているのを目の当たりにすると、どうしてかシハナの死に際が強く脳裏をちらついた。
 ぱっと血だまりになって消えたシハナは、一体どういう気持ちで父親の術で以て己を殺したのか。

「なんだよ……ただの狂人なら良かったのに」

 ぽつりと呟くが、部屋の主はもういないのだ。どこにも。