Precious Junk




 6年、という断絶が一般的に親子の絆にどのような影響を与えるものであるのか、想像もつかない。いや、想像しようと思えば出来るが、する気も起きない。
 6年前、何を告げることもなく突然の凶行に及びシハナの前から姿を消したキンブリーは、ある晩何の前触れもなく家に現れ、親子の再会を喜ぶ暇もないまま、任務だと西部行きの汽車を手配させた。
 長期間の投獄生活で世事にとんと疎くなった義父の代わりに、シハナは軍部に決して少なくない書類を提出し、信頼の置ける部下を集め、西方司令部にも挨拶を通した。汽車に乗ってからも部下への指示と、残してきた仕事と、やりそこねた留守の支度に終われ、車窓の景色も、久しぶりに会う義父との会話も楽しむ間がない。

 停車した駅のホームにあった電話から住んでいる家の管理人にしばらく家を空ける旨を伝えていたところ置き去りを食らいそうになった。シハナは発車しかけていた汽車に飛び乗り、借り切った車両のうち、キンブリーと自分が使うことになっているコンパートメントに帰りつく。息を一つついて、キンブリーの向かいに座りこんだ。キンブリーは膝の上のファイルに視線を走らせ、息を切らしたシハナをちらと見ようともしない。思わず、舌打ちでもしそうになった。
 シハナは義父をひどく変わり者だとーー人のことは言えぬのだがーー思っているし、自分以上に狂っていると思っている。だが、おおよそ他者から理解を得られぬであろう己の性質を押し隠し、人あたり良く常識的に振る舞う術についても、自分以上に熟練している、とも思う。
 そのくせ、こと仕事については、理不尽だといっていいほど厳しい態度と薄気味悪いほど熱心な姿勢を崩さない。これで、キンブリー本人の仕事のやりようが拙ければ悪態の一つもつけるが、出所直後だというのに娑婆の空気を満喫する様子もなく、寸暇を惜しんで資料や地図や新聞に目を通している。
 我が義父ながらいやな上司だ。部下が可哀想である。つまり、自分のことだが。

「舌打ちでもしそうな顔をしていますね」

 キンブリーは資料から目を離すことなくそう言う。シハナは肩をすくめた。

「少しも顔を上げないのに、見えているようなことを言うのですね」

 自然と、拗ねたような口振りになる。まるで子供のようだ。もういい大人で、部下を何人か使う立場にあるというのに。
 キンブリーはひんやりとしたブルーの瞳を愉快そうに細めてシハナの方を見た。

「それは、久しぶりに会った父親が少しも自分の相手をしてくれないから拗ねている演技ですか? そうだとしたらーーいやはや、成長したものですね」

 本気か嫌味か分からぬ言葉に、シハナは芝居っぽく天井を仰いで見せる。

「冗談だとしても笑えませんよ」

 シハナが言うと、キンブリーはファイルを空席に置いて足を組んだ。
 留守がちな父親ではあったが、6年の空白は長過ぎた。聞きたいことも、話したいことも多いが、多すぎて何から順に片付けたものか分からない。
 迷いながら口を開きかけたシハナに、キンブリーは掌を向けた。

「シハナ、質問は一つだけです」
「なぜ」
「あれこれ聞かれてはこの先の楽しみが半減しますし、こちらも疲れる」

 シハナは向けられた掌の太陽の紋をぼんやりと眺めながら、何を聞くか考える。イシュヴァールのこと、上官殺しのこと、人造人間のこと、収監中のこと、上層部のこと、エルリック兄弟のこと、北方司令部のこと、これからのこと、とにかく聞きたいことばかりが浮かんでは消えるので、シハナはなんだか面倒になって「ああ、それじゃあ」と口を開く。

「それ、どうして刺青なんです?」

 シハナが問うと、キンブリーは拍子抜けしたように目を丸くする。そういう顔をさせられるのは心地良い。シハナが笑うと、キンブリーは呆れたように息を吐く。

「今、このタイミングで、わざわざその話ですか?」
「ええ、だって、目の前にあって気になったので。刺青なんて、不便ではないですか? 指輪とか、手袋とか、そういうものに錬成陣を書いた方が楽でしょう」

 どうせ、一つ何かを聞いたところで何も分からない。ならば、もっと面白いことを聞いたほうがいい。
 刺青として皮膚の上に刻まれた錬成陣は、シハナのように火傷を負えば、全て溶け落ちてしまう。幼い頃は疑問にも思わなかったが、錬金術士と呼ばれる人間を複数見るようになって思い至った。
 はて、とキンブリーは掌を見つめて、首を傾げる。

「そう言われてみると、そうかもしれませんね」
「ははは……嘘でしょう?」

 何事につけ余念もぬかりもない義父に限って、まさか、とシハナはキンブリーの顔を凝視する。キンブリーは「嘘です」と手を下ろした。

「よかった。そんな理由で私の手足が吹き飛んだのかと思うと、やるせない」

 錬成陣を直接皮膚の上に描かなかったならば、シハナは四肢までをも失う必要はなかったかもしれない。
 それを恨みに思ったことはないし、軍人としては鋼の手足は利もあるのだが、それなりに痛い思いも苦しい思いもした。人の手足を消耗品のように扱われては困る。何しろ全て合わせても4本しかないし、すでに在庫は切らしている。


 キンブリーは車窓を過ぎ行く景色に一瞬だけ視線をやり、ふとシハナの方を見た。

「向こうも、こちらも、命を懸けるからこそ充実するのでしょう。成功すれば相手は死ぬが、失敗してもこちらが失うものは何もないなど、そんな道理はない」

 ふうん、と、シハナは鋼の手首を顔の前でぶらぶらとさせてみる。そういうものだろうか。掛け金が多いほど、後に退けぬほど、ギャンブルが白熱するようなものか。

「付け足すならば、貴女に施した錬成陣は、貴女の生命エネルギーを利用している。体に直接刻んだほうが効率がいい」
「直列回路みたいな?」
「その喩えが適切かはともかく」

 ふふふ、とシハナは小さく笑う。義父が国家錬金術師でありながら、シハナ自身はほとんど錬金術の素養を持たない。だが、錬金術の話を聞いているのは好きだ。

「そうですねぇ、ーー私が錬成陣を掌に彫ったのは、やはり覚悟を身に刻んでおきたかったからですかね」

 シハナが首を傾げると、キンブリーは青黒い墨を指でなぞる。

「公共の利益と幸福を産み、何かを創造する技術で、破壊のみを行う覚悟を」
「碌でもない覚悟ですね」
「そうですよ。だから、忘れないようにしている」

 キンブリーは冷ややかな双眸を細める。錬金術の話をするとき、キンブリーは大抵そういう顔をする。楽しそうで、シハナまで楽しくなる。

「爆発物を錬成するわけですから、当然安全装置のようなものは必要ですし」

 ああ、とシハナは両の掌を合わせてみせる。羊革の手袋越しに、ごつ、と硬い音がした。

「そう」

 キンブリーは低く囁きながら、シハナと同じように掌を合わせる。
 蛍光のように光が尾を引く。シハナは息を呑んだ。目の端で何色とも言い難い光が閃く。それは、6年前と変わらずに綺麗だった。
 ぱき、と軽い音がして光が消える。キンブリーは手を合わせたまま、シハナに視線をやった。

「それに、まるで神に祈っているようでしょう?」

 そう言われたシハナは、思い切り胡乱げな顔をして見せる。

「え? ああ、そういうポエムみたいなの、あんまり興味ないです」

 素っ気ない口振りに、キンブリーは鼻白んで溜息をつく。

「貴女のそういうところは本当に……」

 もう一つ、大きな溜息とともに「趣のない」と吐き出された。
 シハナは肩をすくめる。そう言われても困る。そんなこと、幼い頃からそうだとキンブリーは知っているはずだ。
 義父に与えられた華麗な装丁の詩集は棚で埃を被ったままで、シハナはキンブリーの本棚の古びた本ばかりを好んだ。キンブリーは「私がこのくらいの歳にはこういうものに夢中になったものですが」と嘆いたが、今日日娘へのプレゼントに詩集も無いだろう。

「神に祈ってどうするのです。私も親父殿も、仲良く地獄に落ちるでしょうに」

 キンブリーは何も言わない。ただシハナの顔を見つめる。その視線を受けて、シハナは鼻を鳴らした。
 出所したばかりのキンブリーが部屋に来たときから薄々勘付いていたそれが確信に変わる。
 近いうちに、彼は死ぬ。そして彼は、その結末を粛々と受け入れるつもりでいる。
 シハナは座り心地がいいとは言えないシートに深く腰掛け、親指の爪先を噛むような仕草をする。四肢がまだあった頃の癖が抜けない。
 キンブリーの双眸は相変わらず冷たげで、穏やかで、凶暴な光を湛えていたが、面窶れして見えるのは気のせいではない。6年の服役はあまりに長過ぎた。檻から解き放たれたとはいえ、体力も勘もそのままというわけにはいかない。
 進化した人類を自称する人造人間にとっても、キンブリーは扱いあぐねる狂犬だったのだろう。手放すには惜しいが、己の手を食い千切られるとも知れない。極力弱らせて、やっと御せるかどうか。
 そんな諸刃の剣を使うということは、よほど追い詰められているのだ。分はかなり悪いと見ていい。そして、この仕事を終えたあかつきにはーーそれが成功であれ失敗であれーー義父は始末されるだろう。

「後悔していますか?」

 シハナは言葉少なにそれだけ問う。キンブリーは片眉を上げた。

「まさか。こんなに面白い、興味をそそられることはない」

 それはきっと本心で、虚勢でも何でもない。シハナもキンブリーと同じ立場なら、同じことを言い、同じことをしただろう。
 キンブリーはシハナに手を差し伸べる。

「さいごまで、付き合ってくれるでしょう?」

 シハナはその手をじっと見下ろした。

「親父殿には、せめて娘を巻き込まないように、とか、そういう優しさはないんですか?」
「何を言っているんですか。巻き込むのが私の優しさです」

 シハナは軽く一瞬だけその手を握る。

「本当に、似たもの親子で厭になる」

 手を緩めると、するりと鋼の義手の間を義父の手が抜けていく。シハナは最早義父の手の温度を手で感じることは出来ない。味気ない触れ合いだった。少し惜しいと思った。


 さて、とキンブリーは組んでいた脚を床に下ろす。

「仕事に戻りますか。ーーとはいえ、傷の男は西に向かうつもりはないのでしょうが」

 それを聞いて、シハナは「ええ!?」と目を剥いた。キンブリーは眉をひそめてシハナを睨む。

「……なんですか、その反応は。まさか、あの派手な陽動に引っ掛かっていたわけではないでしょう?」

 陽動だというのは疑っていた。だが、当のキンブリーがそれを追うと言うので、何か確証があるのだろうと言われるままに慌てて捜索隊を手配したのだ。

「陽動だと確信があったなら先におっしゃってください! 私の書く書類は半分で済んだんですよ!」

 無言で帽子を被り直すキンブリーに、シハナはこれみよがしに肩を落とした。

「こんなこと、父親に言いたくないですけど、何事も報告、連絡、相談ですよ……」
「キンブリー大尉、6年の間に随分世慣れましたね」
「キンブリー殿は相変わらず何も教えてくださらない」

 シハナは前髪をかき上げ、窓に映る自分の顔を見た。父親とは似ても似つかぬ相貌に、淡く死の影が纏わりついていた。
 ああ、と嘆息する。きっと義父も同じものを見て、同じ予感を得ている。しかし、それでも止まれない。行く先が地獄と承知の上だ。そういう生き物なのだ
 それでも、波乱の合間のこの凪のような時間が愛おしい。幸福だと感じる。
 義父と己と、どちらが先に死ぬのだろうな、とふと考えて頭を振る。どちらでもいい。
 ただ、義父の死に目は見てみたいかもしれないと、少しだけ思った。